中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

住蓮坊首洗いの池(旧中山道を歩く 309)

2012年03月11日 11時43分53秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(水田地帯を約2km歩く)

(武佐宿)
2km弱何もない田舎道を歩くと、
道路右側に(大門跡)の案内板がある。
大門跡とは見付跡と同じようなもので、
宿場の入り口を指す。
その先に武佐神社がある。
その先に高札場跡の案内もあり、
高札場も武佐宿の入り口あるべきものである。
高札は、領主や宿場がその決まりを表示するもので、
宿場の入り口に置かれるものだからである。
宿場に入る旅人は、これらの決まりを読むために、
笠を取って読み、高札を管理するのは庄屋の仕事であったから、
字の読めない人には、読んで聞かせるような事もした。


(大門跡)


(武佐神社の石の垣根)


(武佐神社)


(高札場跡の案内)

武佐神社の先左側に「明治天皇御聖蹟」の碑があり、
その右手にある参道を行くと、左側は石垣になっており、
突き当たりに「明治天皇行在所」の石碑がある。
左手を見ると山門があるが、その手前の石垣の上に、
「後光巌天皇臨幸旧蹟」の碑がある。
(*)後光巌天皇は、南北朝時代の北朝初代天皇。


(「明治天皇御聖蹟」の碑)


(参道と思われる。この奥に「明治天皇行在所」の石碑がある)


(「明治天皇行在所」の石碑)


(山門)


(石垣の上の「後光巌天皇臨幸旧蹟」の碑)


ここは広済寺といい、由緒を要約すると、
(これは康安元年(1361)後光巌天皇が60日間の滞在をされた。
また明治天皇については明治十一年(1878)北陸巡幸の折、
ご昼食の場所となった。)(広済寺)とある。
ずいぶん由緒のあるお寺である。

この先右側にある冠木門は、武佐宿の脇本陣跡で、
今は武佐町会館となっている。
その向かい側に旧八幡警察署武佐分署庁舎が有形文化財に登録され、
昔懐かしい建物が建っている。
その先で(武佐町)の信号を越えると、
1989年に武佐小学校生徒が卒業記念に作った案内看板が、
武佐宿の重要な歴史的建造物を描いている。


(脇本陣跡の冠木門)


(警察署跡の建物)


(武佐町の信号)

まず初めに、武佐宿の伝馬、人足の取締役を兼務していた米、油の商人
大橋家が左手に、
ついで伝馬所跡(駄馬、人足を常置した所)が郵便局に、本陣跡、
次いで松平周防守陣屋跡が左手にあり、愛宕山の常夜灯と共にある。
その先、右手には常夜灯と共に高札場跡
(おきてを書いた札をかかげたやぐらのところ)、
等など卒業生が記念に造った案内は、
郷土の歴史を明らかにした名作と言えよう。


(武佐小学校の作成の案内)


(大橋家)


(伝馬所跡)


(伝馬所跡の郵便局と書状集め箱)

(本陣跡)


(松平周防守陣屋跡)


(陣屋跡と愛宕山の常夜灯)


(高札場跡、小学生が作った案内)


(高札場跡)

道路は近江鉄道の武佐駅に突き当たり、
右折しすぐ左折すると踏み切りになる。
踏み切りの500mほど先に大樹が伸びて枝を広げている。
大樹の手前、少し奥まった所に、若宮神社があり、
大樹の根方に、伊庭貞剛宅跡の広大な敷地が、
中山道に面して今は公園になっている。


(武佐駅)


(踏み切り)


(大樹が見える)


(若宮神社)


(伊庭貞剛翁 生誕地)

伊庭貞剛について
(近江健康文化友の会・財団法人ハートランド推進財団)
の説明が英訳と共にあり、

要約すると次の通りである。
、(伊庭貞剛はここ近江八幡市西宿生まれ、21歳で剣の免許皆伝となり、
明治元年(1868)招かれて京都御所警備隊士となる。
明治十年(1878)大阪上等裁判所判事となる。
明治十三年(1881)住友家に入社し大阪本店支配人となる。
明治二十四年(1894)煙害問題解決のため、四国別子銅山支配人になる。
五年後別子銅山の煙害問題に目途をつけ別枝を離れる。
明治三十三年(1900)住友家総理事に就任するも58歳で職を辞し隠退する。
大正十五年80歳の生涯を閉じ、西宿に眠る。)
そうそうたる経歴の持ち主である。
屋敷址は広大で今は公園になっている。

この先約500m(西宿町)の信号で国道8号線に合流し、
8号線を走る自動車におびえながらかなり歩く。
やがて六枚橋のバス停があるところ、ガソリンスタンド手前で左折し、
すぐを右折する。
角に(南無阿弥陀仏)と刻まれたお墓様なものが建っており、
その手前に(中山道)と小さな標識が右折を示している。


(西宿町の信号、国道8号線に合流する)


(国道8号線の自動車)


(六枚橋バス停)


(最初の右折箇所、「中山道」右の案内あり)

右折するとすぐ右手に歯科医院の看板があり、その先に歯科医院がある。
歯科医院前を通り過ぎて、左は田圃でちょっと先にバス停があり、
石碑が建っている。刻まれた文字は読み難いが、
「安楽坊・住蓮坊墓」と読める。
このバス停の先右手に小公園があり、「住蓮坊首洗い池」の看板があるので、
中へ入っていくと、竹の柵で囲まれた池らしきものがある。
池らしきと書いたが、実は水がなく、底が干上がっていて沢地になっている。
脇に「住蓮坊首洗い池」の石碑がある。


(歯科医院)


(バス停と住蓮坊・安楽坊の墓の碑)


(住蓮坊首洗いの池の公園)


(首洗いの池)

(住蓮坊首洗いの池の碑)

千僧供町街づくり委員会の説明を要約すると、
(住蓮坊・安楽坊は、鎌倉時代前期の僧侶、法然上人の弟子であった。
従来の仏教と比べ念仏を唱えれば極楽往生できるという教えであったので、
信者は爆発的に増えた。
時の帝(後鳥羽上皇)の二人の女官が住蓮坊・安楽坊に帰依し、
尼になってしまった。
それを知った帝が住蓮坊・安楽坊を捕え処刑した。
その首を洗ったのがこの池である。)とある。

今考えると側室が尼さんになったくらいで、
入信させた坊さんの首を刎ねるのは、理解しがたい。
第一、側室二人くらい何をしようと、
別の側室を新規に抱え込んだ方が良さそうに思うが、
それはボクだけの男の身勝手と言うものだろうか・・・

この公園を出て中山道を行くとすぐ国道8号線に合流するが、
合流地点に(安楽坊・住蓮坊)墓とあるようだが、石碑がある。
(よく読めないので、間違っているかもしれない。)
バス停脇の案内と言い、どこか近くにお墓があるに違いない。
石碑の向こうは水田地帯である。


(国道8号線との合流地点)


(「住蓮坊・安楽坊お墓」の碑)

白鳥川を渡って約1km行くと、
左手に(具足山妙感寺)の石碑と(近江八幡警察署馬渕警察官駐在所)が、
それを通り過ぎると、(馬渕町)の信号にでる。
信号左手は(フジファミリーショップ)があり、
右手には自動車修理工場がある。
信号の先がY字路で、右かどに八幡神社があり、
そこには高札場跡があった。

中山道はY字路を右に入る。

(白鳥川)


(具足山妙感寺)の石碑)


(駐在所)


(馬渕町の信号と右手の自動車屋さん)


(信号左かどのフジファミリーショップ)


(信号先のY字路を右へ)


(右手の八幡神社)


(鳥居脇の盗撮場跡の碑)

(*)住蓮坊・安楽坊のお墓は、聞くところによると、
国道8号線六枚橋の信号を左折して、
約1kmの所にあるという。(確認してありません)














コメント (8)
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