
(根来陣屋跡の碑)
(愛知川宿 4)
「中山道 陣屋小路」の石柱の案内に沿って進む。
東老蘇公民館の小路を古くから陣屋小路と呼んでいる。
その突き当り、奥石神社の参道横の駐車場用の広場に出る。
ここに江戸時代にあった根来陣屋の跡である。

(奥石神社横の根来陣屋跡の敷地)
根来陣屋についての説明を要約すると、
(鉄砲の根来衆で有名な根来家は、
秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となり、
数々の戦功を立て大和・近江・関東に領地を拝領し、
この場所が根来家の領地になったのは、
寛永十年(1633)東老蘇668石と西老蘇13石であった。
元禄十一年(1698)この地に陣屋が設置され、代官所が置かれた。
江戸期の絵図に陣屋が描かれている。)
(東老蘇町づくり実行委員会)とある。
その絵図を紹介して置きたい。

(根来陣屋の古地図)
中山道へ戻ると、石柱のある場所は(東老蘇公民館)である。
先に進むと常夜灯があって小さな橋があり、
(中山道 森橋)とある。
これを渡って少し行くと左手に(杉原医院)があって、
医院建物前の中山道沿いに、
猫の額ほどの枯山水が置かれている。

(東老蘇(ひがしおいそ)公民館)

(中山道 森橋と常夜灯、カーブミラーにボクが写っている)

(杉原医院の枯山水)
実は建物前の枯山水よりも、
医院裏手のご自宅の庭園が「杉原氏庭園」として
滋賀県指定文化財になっている名園であることである。
残念ながら拝見することは出来なかった。
「緑苔園」といい、
江戸時代末期作庭の500㎡の庭とのこと。(安土町教育委員会)
さらに進むと信号があり、
道路の左右はどこまでも続く水田地帯を行く。
やがて(奥石神社御旅所)の石碑が建つ小広場がある。
御旅所とは(旧中山道を行く 306)に述べたが、
神社の祭礼の際、祭神が巡幸するとき、
神輿(みこし)を仮に鎮座しておく場所を言う。
ついで右手に「鎌若宮神社」の鳥居と石塔がある。

(信号右に「中山道」の石碑がある)

(お旅所の石碑)

(鎌若宮神社の石碑)
その先は閑散とした田舎道が500mも続き、
やがて右手にいかにも意味ありげな長屋門があり、
その先にお寺の山門がある。
お寺は「東光寺」とあり、
門前の左手に「建部伝内の遺跡」の石柱がある。
建部伝内は豊臣秀吉の祐筆で、伝内を安置した伝内堂がある。

(閑散とした田舎道)

(長屋門)

(東光寺山門、山門前の石柱(右)と建部伝内の碑(左)

(本堂)

(伝内堂)

(道内にある伝内の像)
中山道はその先1.5kmほど特筆することも無く過ぎ、
右手の一段下がった小さな川の横に、「泡子延命地蔵御遺跡」がある。
これは醒ヶ井宿の「西行水」にあった「泡子塚」の話と同じで、
(茶店に一人の僧がやって来た。
娘がお茶を出し僧を見て一目ぼれする。
僧が立ち去ったあと、
飲み残しのお茶を娘が飲むと、
不思議なことに子を授かり出産する。
三年後、泣く子供を抱いて大根を洗っていると、
旅僧が通りかかり、
子供の泣き声がお経を読んでいるように聞こえる。
娘が振り向くと三年前に恋をしたその僧である。
その話をすると旅僧は子供に、ふっと息を吹きかけると、
子供は泡となり消えた。
僧が言うには、
西のほうに「あら井」というところの池の中に、
尊き地蔵がある。
この子のために堂を建て安置せよ、と。)
現在は、この地蔵堂は(西福寺)にあるというので、
後ほど確かめた。
西福寺の先は水田地帯を2km弱、武佐宿まで歩く。

(信号と「中山道」の案内)

(泡子延命地蔵)

(西福寺と地蔵堂)

(道路わきは水田地帯)