(木曽海道六拾九次之内 恵知川」)
(愛知川宿)
「うそ川」にかかる「歌詰橋」と言う変わった名前の橋を渡ると、
愛知川宿である。
「うそ川」と言い、「歌詰橋」と言い、
妙に何か因縁がありそうな名前である。
橋を渡り終えると、その由来が書かれた案内があるので紹介したい。
「宇曾川と歌詰橋」について、
(宇曽川について、
宇曽川は、秦川山及び埋立山に水源があり、
ここ石橋を経て琵琶湖にそそいでいる。
この川は、古い時代から水量が豊富であったため、
舟運が盛んで人や物資のみでなく、
重い石も舟運を利用して運んでいた。
また、木材は丸太のまま上流から流したと言う。
このことから「運槽川」と呼ばれていたが、
中世になって、うそ川となまったようである。
歌詰橋について
宇曽川に架けられていたこの橋は、
かっては十数本の長い丸太棒を土台にして、
その上に土を塗りこめた土橋であった。
天応三年(940)平将門は、
藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。
秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まで来た時、
目を開いた将門の首が追いかけてきたため、
まさかどの首に対して歌を一首といい。
言われた将門の首はその歌につまり、
橋の上に落ちた。
そこがこの土橋であったとの伝説がある。
依頼この橋を村人たちは「歌詰橋」と呼ぶようになったのである。)
「歌詰橋の碑と説明板)
(この先愛知川宿の案内)
宇曽川についてはその名の由来が理解できる。
しかし「歌詰橋」となると、作り話が出来すぎている。
そもそも平将門は、無教養で歌の一首も読めなかったのであろうか?
もっとも、昔の武将は(全部とは言わないが)
無教養どころかまともに字も書けないし、読めなかった。
秀吉のひらがなの手紙を美術館で観たことがあるが、
今で言う幼稚園の子供よりひどいものであった。
将門の話にはいくつかあって、それぞれ面白い。
歌詰橋から田舎の町の中を1kmほど直進する。
途中「正光寺」があり、「石部神社」があり、
信号で二つほど過ぎると、二又道になり、
「中山道愛知川宿→」看板があるので、
これは右の方へ行く。
(正光寺)
(石部神社)
(二又道)
(愛知川宿→の案内)
やがて右手に愛知川小学校を見て進むと、中宿に入る。
そして「中山道 愛知川宿」入り口のアーチをくぐる。
愛知川宿には見るものもなく、
左手に「近江商人亭」料理屋さんの立派な建物、
続いて信号の手前に滋賀銀行を過ぎると、
石柱で「中山道 愛知川宿」があり、
その横に広重の「木曽海道六拾九次乃内 恵知川」の浮世絵と、
郵便ポストに替わる往時の「書状集箱」が置いてある。
ここが愛知川宿の中心に当たる。
(愛知川小学校)
(中宿)
(愛知川宿のアーチ)
(街道脇の地蔵堂)
(近江商人亭)
(滋賀銀行)
(書状集箱)
(中山道 愛知川宿の碑と後ろにある浮世絵)
浮世絵の愛知川についての説明では、
(天宝二年(1831)に完成した橋が出来る前は、
徒歩で渡らざるを得なかった。
橋の袂(たもと)には、
「むちんばし、はし銭いらず」としるされている。
愛知川宿の町人五人が架けたこの橋は、
慈善のため通行料を無賃とした。
橋を渡る旅人の姿は、やはりさまざまな階層、職種の人々だ。
画面中央には、華やかな赤い着物を身につけた女性の牛飼いが描かれている。
関東では、使役には一般に馬を使ったのに対し、
関西では牛が一般的であった。
馬でなく牛が荷を運んでいる所に、
都が近いことが伺える。)とある。
なるほど馬でなく牛で荷を運ぶ構図が、
京都に近いことを広重は狙ったのだと感心する。
(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 恵知川」)
中山道は、左手に親鸞聖人御旧跡が残る「負別山 宝満寺」が、
その先に本陣跡があり、八幡神社がある。
神社前の常夜灯脇に高札場跡の石碑がある。
そのすぐ先に脇本陣跡の石碑があるが、
この脇本陣の主人が高札場の管理を行ったと思われる。
(宝満寺)
(本陣跡)
(八幡神社の鳥居と常夜灯)
(高札場跡の石碑)
(問屋場跡の石碑)
(竹平楼)
(「明治天皇御聖跡」の石碑)
左に昔は旅籠であった料亭 竹平楼があり、
「明治天皇御聖跡」の石碑が、
竹平楼の門の横に囲まれて建っている。
竹平楼を過ぎると愛知川宿の終りを示す、
「中山道 愛知川宿」のアーチがある。
アーチをでると旧中山道は国道8号線と合流し、
合流した向こう側の空き地の隅に「一里塚跡」の石碑が建っている。
江戸から数えて122番目の一里塚跡である。
(愛知川宿のアーチ)
(空き地の左隅にある一里塚の碑)
(一里塚の碑)
国道8号線を約1km車に脅えながら歩くと、
一級河川「愛知川」に到着。
橋の手前に常夜灯があり、祇園神社が脇にある。
橋の歩道を歩き渡り終えると、東近江市に入る。
橋のたもとにある(簗瀬北やなせきた)の信号があるので左折。
橋を渡ったとたん、まわりは賑やかで、右手にガソリンスタンドがある。
ファミリーレストランはある、携帯電話サービスの会社はある、
近代的な建物がずらりと並んでいる。
東近江市は大変にぎやかな発展した町に見受けられる。
(一級河川 愛知川)
(常夜灯)
(祇園神社)
(橋の歩道を渡る)
(東近江市に入る)
(簗瀬北の信号を左折)
左折して、すぐ先に常夜灯があり、
江戸時代、橋がなかった時代の渡しは、
常夜灯と常夜灯の間にあったと思われる。
常夜灯の先を左折し、直進する。
五個荘の町である。
(左折して100mも行かないうちにある常夜灯を右折)
町の住宅の中を行くと、右手に「東嶺禅師誕生地」の石碑がある。
東嶺禅師は近世臨済禅中興の祖と言われる
白隠慧鶴(1686~1769)の高弟である。
享保六年(1721)滋賀県東近江市五個荘小幡町の薬種店の子として生まれた。
東嶺禅師の名言に、
「魚は水中に居て水を知らず、人は妙法の中にいて妙法を知らず」
がある。
人は空気が必要なのに、空気があることを忘れている。
ことほど左様に幸せの中にいても、幸せを知らないでいる。
(「東嶺禅師誕生地」の石碑)
その先左手に五個荘駅左300メートルとあるので、
近江鉄道で宿泊予定の彦根へ帰る。
冬の陽は落ちるのが早い。
ずいぶん歩いた、本日の総歩行数54177歩=約32kmであった。
(五箇荘駅300mの案内)
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