(かえで並木の終り)
(柏原宿)
楓(かえで)並木が終わると、大きな黒い石に
「中山道 左江戸後期大和郡山領 柏原宿
右寝物語の里 長久寺」と刻んである。
ここから近江路に入るのだと、感慨深い。
さらに進むと右手に「長比城(ながくらべじょう)跡登り口」なる石柱があり、
右折する坂道がある。長比城はどんな城かと言うと
(長比城跡登り口の石碑)
(織田信長は浅井長政を討つべく、
浅井・朝倉勢が守るこの長比城と苅安城を攻撃。
一方、木下藤吉郎と竹中半兵衛の働きで、
浅井方の鎌刃城の堀氏が寝返ったため、
長比・苅安の城兵は敗走し、信長は長比城に無血入城、一両日滞在。
九日後に姉川の戦いは始まり、
--- 後略)(米原市)
ご承知の浅井長政が討ち死にする。
その「長比城址登り口」の標柱があるところから、
中山道に平行して旧東山道があり、「旧東山道」の石碑が建っているので、
旧東山道へ入ることにする。
(*)中山道が家康によって整備されるまでは、東山道によって往来された。
中山道はおよそ東山道を基に作り上げられたと言っても良い。
旧東山道は名の通り古い街道で、
当然砂利道、両側の杉の木は多少伐採されているものの、
両側から倒木が道路をまたいでいる。
足の置き場に注意しながら、木陰の道を進む。
長さにして1kmもあっただろうか、
自動車の通らないがれきの道であった。
(旧東山道の石碑と東道路1)
(旧東山道2)
(旧東山道3)
(旧東山道が終わると左手に踏切があり、渡る)
古東山道の薄暗い木影が終わると、左手に踏切がありこれを渡る。
かえで並木の名残か、楓の木が道路脇にポツンポツンと生えている。
左手に柏原宿と書かれた石が置いてあり、
ここから柏原の宿場に入って行く。
道路先の左右に民家が見えきて、
電柱には中山道柏原宿の案内が入った看板が続く。
宿場に入った感じがする。
(柏原宿を刻んだ石とかえで)
(街道沿いのかえで)
しばらくすると右手に地蔵堂が見える。
「照手姫笠掛地蔵堂」である。
中を覗き込むと、中央に大小二体のお地蔵さんが並ぶ。
(背の低い地蔵さんが「照手姫笠掛地蔵」さんである。
のちに古老から背の高い一体の地蔵尊が奉納され合祀された。
皆さんの安産を願う「安産地蔵」として寄進された。
優しい顔、立ち姿美しい地蔵は庶民に好感を持たれ、
今日に至っている。
背の低い照手姫笠掛地蔵を見下ろすことも無く、
むしろ引き立て役をしている。)と説明がある。
(地蔵堂)
(二体の地蔵尊、背の低い方が照手姫笠掛地蔵)
照手姫伝説は先の「照手姫伝説水汲みの井戸」(旧中山道を歩く268)
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2011/09/post_5867.html)で述べた。
その先同じ右側に「東見付跡」がある。
そもそも見付とはお城でいえば敵を見つける場所、
つまり城門のある場所を指すが、
宿場の場合は柏原東の外れで、
(道の両側に食い違いの形で土手が築かれていた。
また宿東西の見付では、貴人の到着時、
役人のお出迎え、お見送りの場所であった。)
羽織袴で正装し、一列に整列して、頭を下げる構図が目に浮ぶようである。
(東の見付)
(八幡神社)
その先しばらくして、右手に八幡神社がある。
石の鳥居があり立派な神社である。
その中に桃青(芭蕉)の句碑がある。
芭蕉は「奥の細道」を締めくくった大垣へ、
伊吹山を左に見て北国往還を歩いたと言う。
その後大垣の門人との句会で残した句が、
句碑として残されている。
(桃青=芭蕉の句碑)
(戸を開けはにしに
山有いふきといふ花にも
よらす雪にもよらす只
これ孤山の徳あり
・其ままよ
月もたのまし
伊吹山 桃青 )とある。
(「戸を開けば・・・」前段の文章部分の碑、芭蕉の真蹟を写す)
芭蕉が言うように、
花や雪や月が無くとも、
山が聳えるだけで賞しえる山容を備えている。
と褒めている。JR柏原駅から伊吹山をご覧頂きたい。
(柏原駅から望む伊吹山、これだけで美しいと詠んだ芭蕉)
八幡神社を出るとすぐ南北と交差する信号に出る。
(八幡神社前)である。この信号を右折すると「成菩提院」へ行く。
ここで右折し、すぐの信号を左折する。
道路を一つ入れば田舎はもう山に囲まれる。
右手に句碑の伊吹山が雪もなく花もなく只聳えている。
芭蕉が言うように、山があるだけで美しい。
(「八幡神社前」の信号を案内に沿って右折)
(すぐのガードをくぐる)
(ガードの次の交差点を案内に沿って左折)
(右手に伊吹山が迫る)
すぐ左へ行くよう案内看板があるので左折。
途中、田舎では良く見かける太平洋戦争の「忠魂碑」があるが、
少し頭を下げて通過すると、Y字路にでるが、ここは右折。
しばらくして、右側に「成菩提院」が右手に有る。
(忠魂碑)
(成菩提院の山門)
(前略――「成菩提院」は應永年間(1394~1428)
時の将軍足利義満の願いにより、
比叡山西塔の名僧であった貞舜が自坊を再興して移り住み、
寺ではこの貞舜を持って中興の祖とし、初代住職としています。
歴代住職の中には、徳川家康の知恵袋・懐刀といわれた二十世
天海僧正を初めとする幾多の名僧が住職をしています。
また織田信長・浅井長政・豊臣秀吉と言った武将が宿泊し、
信長や家康が寺領を寄付しています。――後略)(米原市教育委員会)
少なくも1428年に再興されたとしても、ずいぶんな古刹である。
手入れが悪ければとっくに朽ち果てているはず。
苔むした石の階段、静かな境内を、しっかり観てきました。
門を出ると、門前に案内杭があり、
JR柏原駅、柏原宿、清滝寺徳源院、寝物語の里など方向と距離が
明確に案内されて、この後の道順が解りやすかった。
このあと、中山道に戻りJR柏原駅から宿泊場所の彦根へ。
歩いた距離41593歩=約25km。
(苔むした石の階段)
(本堂)
(門前の案内杭)
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