中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

八幡神社と古刹「成菩提院」(じょうぼだいいん)(旧中山道を歩く 285)

2011年12月11日 10時10分40秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(かえで並木の終り)

(柏原宿)

楓(かえで)並木が終わると、大きな黒い石に
「中山道  左江戸後期大和郡山領 柏原宿
      右寝物語の里     長久寺」と刻んである。

ここから近江路に入るのだと、感慨深い。
さらに進むと右手に「長比城(ながくらべじょう)跡登り口」なる石柱があり、
右折する坂道がある。長比城はどんな城かと言うと


(長比城跡登り口の石碑)

(織田信長は浅井長政を討つべく、
浅井・朝倉勢が守るこの長比城と苅安城を攻撃。
一方、木下藤吉郎と竹中半兵衛の働きで、
浅井方の鎌刃城の堀氏が寝返ったため、
長比・苅安の城兵は敗走し、信長は長比城に無血入城、一両日滞在。
九日後に姉川の戦いは始まり、
--- 後略)(米原市)
ご承知の浅井長政が討ち死にする。

その「長比城址登り口」の標柱があるところから、
中山道に平行して旧東山道があり、「旧東山道」の石碑が建っているので、
旧東山道へ入ることにする。

(*)中山道が家康によって整備されるまでは、東山道によって往来された。
中山道はおよそ東山道を基に作り上げられたと言っても良い。

旧東山道は名の通り古い街道で、
当然砂利道、両側の杉の木は多少伐採されているものの、
両側から倒木が道路をまたいでいる。
足の置き場に注意しながら、木陰の道を進む。
長さにして1kmもあっただろうか、
自動車の通らないがれきの道であった。


(旧東山道の石碑と東道路1)


(旧東山道2)


(旧東山道3)


(旧東山道が終わると左手に踏切があり、渡る)

古東山道の薄暗い木影が終わると、左手に踏切がありこれを渡る。
かえで並木の名残か、楓の木が道路脇にポツンポツンと生えている。
左手に柏原宿と書かれた石が置いてあり、
ここから柏原の宿場に入って行く。

道路先の左右に民家が見えきて、
電柱には中山道柏原宿の案内が入った看板が続く。
宿場に入った感じがする。


(柏原宿を刻んだ石とかえで)


(街道沿いのかえで)

しばらくすると右手に地蔵堂が見える。
「照手姫笠掛地蔵堂」である。
中を覗き込むと、中央に大小二体のお地蔵さんが並ぶ。
(背の低い地蔵さんが「照手姫笠掛地蔵」さんである。
のちに古老から背の高い一体の地蔵尊が奉納され合祀された。
皆さんの安産を願う「安産地蔵」として寄進された。
優しい顔、立ち姿美しい地蔵は庶民に好感を持たれ、
今日に至っている。
背の低い照手姫笠掛地蔵を見下ろすことも無く、
むしろ引き立て役をしている。)と説明がある。


(地蔵堂)


(二体の地蔵尊、背の低い方が照手姫笠掛地蔵)

照手姫伝説は先の「照手姫伝説水汲みの井戸」(旧中山道を歩く268)
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2011/09/post_5867.html)で述べた。

その先同じ右側に「東見付跡」がある。
そもそも見付とはお城でいえば敵を見つける場所、
つまり城門のある場所を指すが、
宿場の場合は柏原東の外れで、
(道の両側に食い違いの形で土手が築かれていた。
また宿東西の見付では、貴人の到着時、
役人のお出迎え、お見送りの場所であった。)

羽織袴で正装し、一列に整列して、頭を下げる構図が目に浮ぶようである。


(東の見付)


(八幡神社)

その先しばらくして、右手に八幡神社がある。
石の鳥居があり立派な神社である。
その中に桃青(芭蕉)の句碑がある。
芭蕉は「奥の細道」を締めくくった大垣へ、
伊吹山を左に見て北国往還を歩いたと言う。
その後大垣の門人との句会で残した句が、
句碑として残されている。


(桃青=芭蕉の句碑)

(戸を開けはにしに
山有いふきといふ花にも
よらす雪にもよらす只
 これ孤山の徳あり

・其ままよ
     月もたのまし
             伊吹山   桃青 )
とある。


(「戸を開けば・・・」前段の文章部分の碑、芭蕉の真蹟を写す)

芭蕉が言うように、
花や雪や月が無くとも、
山が聳えるだけで賞しえる山容を備えている。
と褒めている。JR柏原駅から伊吹山をご覧頂きたい。


(柏原駅から望む伊吹山、これだけで美しいと詠んだ芭蕉)

八幡神社を出るとすぐ南北と交差する信号に出る。
(八幡神社前)である。この信号を右折すると「成菩提院」へ行く。
ここで右折し、すぐの信号を左折する。
道路を一つ入れば田舎はもう山に囲まれる。
右手に句碑の伊吹山が雪もなく花もなく只聳えている。

芭蕉が言うように、山があるだけで美しい。

(「八幡神社前」の信号を案内に沿って右折)


(すぐのガードをくぐる)


(ガードの次の交差点を案内に沿って左折)


(右手に伊吹山が迫る)

すぐ左へ行くよう案内看板があるので左折。
途中、田舎では良く見かける太平洋戦争の「忠魂碑」があるが、
少し頭を下げて通過すると、Y字路にでるが、ここは右折。
しばらくして、右側に「成菩提院」が右手に有る。


(忠魂碑)


(成菩提院の山門)

(前略――「成菩提院」は應永年間(1394~1428)
時の将軍足利義満の願いにより、
比叡山西塔の名僧であった貞舜が自坊を再興して移り住み、
寺ではこの貞舜を持って中興の祖とし、初代住職としています。
歴代住職の中には、徳川家康の知恵袋・懐刀といわれた二十世
天海僧正を初めとする幾多の名僧が住職をしています。
また織田信長・浅井長政・豊臣秀吉と言った武将が宿泊し、
信長や家康が寺領を寄付しています。――後略)(米原市教育委員会)

少なくも1428年に再興されたとしても、ずいぶんな古刹である。
手入れが悪ければとっくに朽ち果てているはず。
苔むした石の階段、静かな境内を、しっかり観てきました。
門を出ると、門前に案内杭があり、
JR柏原駅、柏原宿、清滝寺徳源院、寝物語の里など方向と距離が
明確に案内されて、この後の道順が解りやすかった。

このあと、中山道に戻りJR柏原駅から宿泊場所の彦根へ。
歩いた距離41593歩=約25km。


(苔むした石の階段)


(本堂)


(門前の案内杭)










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