中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

今は昔の倉賀野河岸(旧中山道を歩く 72)

2005年11月16日 17時40分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(倉賀野宿脇本陣)


(倉賀野宿)
岩鼻代官所を後に、旧中山道をおよそ3キロほど歩くと
倉賀野の追分に出る。
いつも思うのであるが、中山道は「京都発江戸へ下る」発想で
すべての案内標識が出来ている。
旧中山道は右、あるいは左、国道17号線に案内はある。
この倉賀野追分も、京都方向から東京に向かって、
「左 日光道、右 江戸道」の道標、常夜灯、阿弥陀堂が
見事に見えるのである。ここから例弊使街道は始まる。
しかし、東京方面から行くと、阿弥陀堂があり、よくよく見ると
常夜灯があり、その先に道標があり、「追分です」とでも
教えられなければ見過ごしてしまいそうだ。

(日本橋方向からは阿弥陀堂がまず目に付く)

(次に常夜灯が見える)

(常夜灯)

(京都方向から行くと、追分が良く目に付く)

例弊使街道とは、徳川家康の命日 四月十八日に日光東照宮の
祭礼に、朝廷より派遣される勅使が通る道だ。
慶応三年(1867)の最後の例弊使派遣まで、221年間、
一回の中止も無く継続された。また、常夜灯は県内では王者の
風格を持っており、文化十年(1814)に建てられ、
道標の役割を果たしていた。(高崎市)

勅使は京都から中山道を下ってここ倉賀野まで来て、
例弊使街道を通り日光へ行くのである。 間違ってまっすぐ行き、
本庄宿まで行ってしまわないように、ここに道標・常夜灯・
阿弥陀堂を造った。

さて東京から京都へ向かっているボクは、中山道をさらに進む。
中山道の左側を流れる烏川は下流に行くと利根川になるが、
川に架かる共栄橋を渡る道を左折して、橋の手前で河川敷に降りる。
河川敷は広い緑地公園になっており運動場もある。
橋の下に「倉賀野河岸跡」「倉賀野河岸由来」の碑がある。

(倉賀野河岸跡と倉賀野河岸由来の碑)

由来によれば、
当河岸は江戸時代初期より利根川の最上流河岸として上野、信濃、越後の
広大な後背地を控え江戸との中継地として繁栄を極めたり。
三国の諸大名、旗本の蔵米を初め麦、たばこ、織物、木材など
特産物は碓氷三国両峠の嶮を牛馬の背で越え、当河岸より江戸へ、
また帰り舟には、塩、干魚、荒物等の生活必需品や、江戸の文化を
内陸地へ伝えその恩恵に浴さしめぬ・・・とある。
元禄時代の最盛期には、上り下りの船で七万個の荷駄を運び、
舟問屋十軒、舟150艘あまりあった。
しかし、明治に入り高崎線の開通に伴い、その使命に幕を閉じた。
橋の上流がその河岸の名残を留めているように思われるが、
今は石で覆われた岸壁があるだけである。



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