河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

滑稽勧進帳①

2022年09月21日 | 祭と河内にわか

 曾我廼家五郎・十郎が人気を博すきっかけとなった喜劇『滑稽勧進帳問答」の台本を紹介する。
 歌舞伎の『勧進帳』のあらすじ①~⑥をそのまま利用している。
【あらすじ】
兄の源頼朝から謀反の疑いを掛けられて追われる身となった源義経一行は、山伏姿に変装して、東北へ落ち延びようとしていた。
石川県の安宅の関の関守・富樫左衛門は、関を通ろうとしていた義経一行を疑い、山伏なら持っているはずの勧進帳(東大寺再建の寄付を募った巻物)を読むように命じる。
弁慶はとっさに何も書いてない巻物を取り出し、勧進帳の内容が書かれているかのように朗々と読み上げた。
なおも疑う富樫は、山伏の心得や装束、いわれ、秘呪などを次々と問いただすが、弁慶はよどみなく答えて見せる。
富樫は怪しみながらも通行を許可し、お詫びにと酒を献じる。ほっとした一行は関を通過しようとする。
ところが富樫の部下が、「強力(ごうりき=荷物運びの人夫)」が義経に似ていることに気付き、それを聞いた富樫は一行を呼び止める。
弁慶は強力に化けている義経を、「お前のせいで疑われた」と怒りをあらわにして金剛杖で打ち据えた。
富樫は、主君である義経を叩いてまでも、あくまで強力だと言い張る弁慶の忠義の心にうたれ、改めて通過を許可する。

 セリフも歌舞伎のセリフを元にパロディーにしているので現代語に直した。ただし、わざと歌舞伎の難しいセリフを織り交ぜているところはそのままにした、
 弁慶を曾我廼家五郎、富樫佐久衛門(富蔵)を十郎の配役である。

〇江戸の遊郭吉原の背景
富蔵「これ、勘太やいるか」
勘太「ここに候(そうろう=ございます)」
富蔵「今日は、伊勢屋の養子の常(義経)公殿が、節季〈せっき=掛け売りの決算日、五・十日〉にもかかわらず、借金払わず、姿を替えて、吉原に来るという。鎌倉屋殿から金を払うまで、一人たりとも大門〈吉原の入口〉を通すなとの厳命や」
勘太「そんな厳命しても、馬の耳に念仏、豆腐に鎹(かすがい)、糠に釘」
富蔵「そりゃ伊呂波かるたや」
勘太「養子の常公姿を替えて、ままよ三度笠横ちょにかぶろうとも、必ず見つけてやろうやないかい」
富蔵「その心意気。明くれば褒美をつかわそう」
勘太「来年のこと言うたら鬼が笑う」
富蔵「鬼が笑ろては相ならん。厳しく張り番いたそうぞ」
勘太「地獄の沙汰も金次第。ほなら、急いで」
 下手に勘太入る。
富蔵「言い忘れた。やるまいぞ、やるまいぞ」
 上手に富蔵入る。

【補説】実際の歌舞伎にはこの場面はない。俄なので、歌舞伎『勧進帳』のパロディーであることを匂わすとともに、伊呂波かるたの文句で歌舞伎とは違う状況であることを説明している。
 最後の「やるまいぞ」は狂言のサゲに使う言葉。〈狂言=俄〉であることを示して、歌舞伎界からの批判をそらす当時の常套手段だったのだろう。

 歌(謡い)♪旅の衣は鈴かけの露けき袖や濡らしけん♪
 義経が登場。
 歌♪これやこの行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の山♪
 四天王(四人の家来)が登場
 歌♪波路はるかにゆく船も、海津が浦に着きにけり♪
 弁慶が登場
義経「いかに弁慶あるか?」
弁慶「おん前に候」
義経「今しがた素見(ひやかし)の言っていたことを聞いたか?」
弁慶「いえ、聞いておりませぬ」
義経「鎌倉屋が大門(吉原の入口)に節季と書いた札を立て、借金払わぬ者の女郎買いを堅く禁止したという」
弁慶「言語道断」
四天「通りましょうぞ」
弁慶「あいや方々、この節季一つ越したとて、晦日みそか(月末の節季)の有ることなれば、おいたわしくはございますが、若旦那には強力(ごうりき=荷物運び)の扮装にて笠を深くかぶり、我々からはるかに遅れてお越しくだされれば、なかなかとがむる者もないと、この弁慶存じ候」
義経「弁慶、よきにはからえ」
弁慶「オーケー」
 歌♪いざ通らんと旅衣、関のこなたに立ちかかる♪

〈つづく〉

※上図は「浮絵新吉原大門口」 国立文化財機構所蔵品統合検索システム
※下図は「勧進帳」 国立国会図書館デジタルコレクション


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