河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
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歴史33 大正――人情大相撲④

2022年12月28日 | 歴史

大坂相撲は春夏秋冬10日ずつの本場所に、東京相撲との対抗戦を加えた五場所を中心に興行していた。
今の本場所といっしょで、一日一番の取り組みや。
兄貴は千田川親方の許しを得て篠ヶ峰の四股名で土俵に上がり、序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両と勝ち進んだ。
一年後の22歳の夏場所では幕下の前頭八枚目まで出世しよった。
それからは前頭あたりを勝ったり負けたりして、23歳の5月場所の新番付では前頭三枚目まで上がってた。そのときや、事件が起きたんは。

「そのときや、事件が起きたんは」と繰り返して、春やんはぐびりと酒を飲んだ。
そして、アテがなくなったのか、私が食べていた、その年発売されたポッキーを一本取って、トッポジージョのようにかじった。
そして、「乙な味やなあ」と言って、ポッキーをもう一本取った。
春やん、あかんで、僕のや。困っちゃうなあと思ったが、オトンが「また買うたるさかい」と小声で言ったのであきらめた。
「龍神事件が起きたんや・・・びっくりしたなーもーやがな!」と言って話し出したのだが、長ったらしかったのでウィキペディアふうにまとめると、
――大正12年5月場所初日の二日前の夜、横綱宮城山を除く十両以上の全力士の代表として、4大関以下10名が高田川、岩友の両取締を訪ねて大坂相撲協会を訪問し養老金問題に関する7箇条の要求書ならびに出願書を提出し交渉を開始した。
協会は将来に禍根を残してはならないと強硬な態度を示したので、力士会側も加盟力士および行司は全員大阪を引き上げ、堺市大浜公園九万楼に集合し結束を固めた。その後すぐに拠点を大浜公園近くの龍神遊郭内に移した。そのため同事件は「龍神事件」と呼ばれる――。

「まあ言うたら、力士がストライキを起こしよったんや!」
「ほんで結果はどないなってん?」
「協会側に押し込まれて、なんやかんやとあった後に、千田川親方が怒って引退を表明した。それに従って門下の20数名の力士も師匠に殉じて断髪引退してしもうた」
「兄貴は?」
「名誉の殉死や! ざん切り頭で家に帰って来た。周りの皆のこと考える優しい兄貴あった・・・」

「それからどないしてん?」
「しばらくは家の百姓を手伝うていたが、『家は長男が継ぐので、いつまでも家に居てるわけにはいかんやろ』と、八卦の又の親分さんが声かけてくらはった。
その時は親分やなしに喜志村の村会議員をしたはった。駅前に家も借りてくらはって、親分の手伝いしたり、大碇の親方も歳あったんで部屋で相撲教えたりして、けっこうな給金をもろてた」
「そらよかったがな!」
「ところがや。六年ほど経った昭和の4年の冬に入営通知が届いたんや。徴兵検査では甲乙丙丁の甲をもろていたんで不思議やなかった。
入隊するニ日前に、まだ出来たばかりの門前屋(滝谷不動)に泊まって、長男・兄貴。わしとで風呂で背中を流し合ううた。兄貴の広い背中を洗うていたら、肩がひくひくと動いているのがわかった・・・」
ほんまに優しい兄貴あった・・・」

「ほんでどないなったんや?」
「死によった」

⑤につづく
※絵葉書は「大阪名所絵葉書」の大坂国技館(大坂市立図書館アーカイブより)
※挿絵は『桂川力蔵 : 少年講談』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
※写真は『満州事変写真帖』(同じ)


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