『傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行く和服姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない。』「伯爵夫人」冒頭
「伯爵夫人」のあらすじは、
『ばふりふりとまわる回転扉の向 こう、 帝大受験を控えた二朗の前 に現れた和装の女。「金玉潰し」の 凄技で男を懲らしめるという妖艶 な〈伯爵夫人〉が、二朗に授けた性と闘争の手ほどきとは。 ボブへアーの従妹 ・蓬子や魅惑的な女たちも従え、戦時下の帝都に虚実周 到に張り巡らされた物語が蠢く。 東大総長も務めた文芸批評の大家 が80歳で突如発表し、 読書界を騒 然とさせた三島由紀夫賞受賞作。』文庫本背表紙より
“金玉潰し” “青臭い魔羅” “熟れたまんこ” “父ちゃん、堪忍して” “ぷへー” というお下劣な言葉や表現、伯爵夫人の回想の卑猥さに、格調と猥雑が入り乱れる…
『そのうめき声が相手を刺激したものか、背中では魔羅の動きが加速する。つとめて 正気を保とうとしながら、この姿勢では「熟れたまんこ」を駆使することもかなわず、 やがて肛門の筋肉も弛緩しはじめ、出入りする魔羅に抵抗する術さえ見いだせないまま、ふと意識が遠ざかりそうになる。あとはただ、倫敦の小柄な日本人を相手にした ときのように、父ちゃん、堪忍して、堪忍してと、小娘のように声を高めてしまうことしかできない。』
『わたくしのからだを小気味よくあしらいながら、足の小指と薬指のあいだまで舌と 唇で念入りに接してまわり、熟れたまんこに胸の隆起にも触れ はせず、こちらの呼吸の乱れを時間をかけて引きよせようとするところなど、 久方ぶりに本物の男と交わっているという実感に胸がときめきました。』「伯爵夫人」より
「ユリイカ」(青土社)2016年1月臨時増刊号で、ジェンダー論・女性学などを専攻とする社会学者の上野千鶴子氏と、江戸文化研究者の田中優子氏が、女性が「春画」に魅せられる理由について語り合っている。
『「一つには、ある時代の日本人の言葉をつなぎ留めておきたいという気持ちがありました。昭和10年代“に私が聞いていた母や父や親類などの言葉が、あまり最近の文学には出てきませんからね。無駄な反復も普通は避けるべきなのでしょうが、ええい、構うまいと。言葉が言葉を引きずり出してくれた、という感じでしょうか」』産経ニュースより
『まだ使いものにはなるめえやたら青くせえ魔羅 をおっ立ててひとり悦に入ってる始末。これはいったい、なんてざまなんざんすか。
そんなことまでやってのけていいなんざあ、これっぽっちもいった覚えはござんせんよ。ましてや、あたいの熟れたまんこに滑りこませようとする気概もみなぎらせぬまんま、魔羅のさきからどばどばと精を洩らしてしまうとは、お前さん、いったいぜん たい、どんな了見をしとるんですか。』「伯爵夫人」より
そして氏は、
『とはいえ、この小説は虚心坦懐(きょしんたんかい)にエンターテインメントとして読んでもらえたらと願っている。「呵々(かか)大笑するかはともかく、にんまりおかしいというところがあれば、満足ですね。今は笑いの質があまりにも落ちているので、これが高級な笑いかどうかはともかく、少なくとも文学には笑いがあるということを分かっていただきたい。きまじめであればあるほどおかしいというものが、ここにはあるような気がします」』産経ニュースより
…と結んでいる。
この著者の目論見は見事に成功し、ラブレー、サド、バルザック、フローベールなどフランス伝統の艶笑滑稽譚につらなり、
アポリネールの「一万一千本の鞭」では、稀代の蕩児を打つ最後の鞭音が満州国で響き、伯爵夫人の出奔は、『音としては響かぬ声で、戦争、戦争と寡黙に口にしているような気がしてならない。』と結ばれる。
【作者のプロフィル:蓮實重彦】
はすみ・しげひこ 昭和11年、東京生まれ。東大仏文科卒。東大教養学部教授をへて東大総長。専門は表象文化論。文芸批評のほか、映画雑誌「リュミエール」の編集長を務めるなど、映画評論でも活躍。
立教大学でも教鞭をとり、教え子に
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