ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け35年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【一寸直しました】人間の生き方ーバックグラウンドは何か(20231228)

2023年12月28日 | ヤマヒデの歩み

2023年12月28日(木)曇

 今朝の「沖縄タイムス」のトップは「辺野古きょう代執行」とある。この国の無法ぶりに呆れるばかりだ。裁判所が県は「法治主義」に反すると言ったとか。司法まで法治主義をねじまげている。法治主義は、人治主義に陥らない、独裁を諫める近代国家の基本だろうに。こうした行政、司法のご都合主義は重傷だ。私は呆れかえる。怒ることにも疲れている。だからこそ正しい怒りをもたなければならないのだ。正しい怒りとは、自身(主体)と客体、それらをとりまく社会を認識し、方法論を見定めることだ。なかなか難しい。

 人はそれぞれの生き方をしており、それぞれ違う。私は何かの才に恵まれてきたわけではない。何をやっても二流であり、凡才だ。それがどうしたと開き直るのが、ややいいところかもしれない。「辺野古代執行」ときいて、時の流れを感じる。2013年12月の仲井真元知事による裏切りが発覚し、埋め立てを承認したあの日から昨日で10年が経った。銭と欺瞞と奢りの人生は、どんななのだろう。想像もつかない。

 この年の瀬に、裏金で揺れる人生に焦っている御仁も沢山居るのだろう。裏金と言うが仕込んだのは彼らであり、政治資金規正法を作ったのも彼らだろう。自業自得だが、巨悪はそれでもほくそ笑むのだろう。誰が巨悪で、誰が中悪なのか、私にはわからない。

 人間の生き方にはバックグラウンドがある。親の遺産だったり、学歴だったり、才能だったり。愛する人だったり。バックグラウンドを造りながら、生きてきたかが試される年になり、私は改めて考える。

 私にとってのバックグラウンドは自然だ。育った世田谷の自然。今や何も残されていないが。草っ原と松林。春にはヒバリが囀り、夏にはアオバズクが啼いていた。1950年代から1963年頃までそこにあったのだ。朝焼けも、夕焼けも、天の川もあったのだ。もう、もうないのだ。1966年に世田谷区岡本町の自然を見つけ、週一は通ったものだ。自転車で30分。豆腐屋さんが動き出す夜明け前から出かけ、カモ類が群で低空を飛び去る(多摩川方向)のを見(聴い)たり、ホーホーと啼くアオバズクを自転車の電灯を当てて見たりもした。毎回、種類ごとの個体数を数えていた。66年から1973年までの野帳が残っている。

 1964年に中学1年になり、図書館員になった。本の虫となり、「ビーグル号航海記」、「ドリトル先生」シリーズ、「シートン動物記」、「定本野鳥記」などを全部読んだ。たまたま日本野鳥の会創立者の中西悟堂さんが世田谷区砧にお住まいで、私は一人で会いに行った。「定本野鳥記」そのままのお人柄だった。ただの中学生を丁寧に受け入れてくださった。中西さんのおすすめで、1965年、日本野鳥の会東京支部に入ったのだ。1970年から72年同会幹事。

 1967年からは新浜(千葉県の江戸川河口)を守る会の運動に全力だった。野鳥の会が保護運動に取り組まず、若者たちでタッグを組んだ。無論、心ある先輩たちも頑張ってくださった。干潟・水辺の野鳥を守ろうと奮闘したが、残されたのはごく一部の保護区のみ。公有水面埋立法に阻まれたのだ。開発政治に阻まれたのだ。因みに、新浜(しんはま)といっても分からないだろう。山本周五郎の「青べか物語」で描かれた辺りであり、あのデズニーランドがある辺りだ。だから私はデズニーランドに一度も行っていないし、息子をつれていったこもないのだ。

 私が山を歩き出したのは、やはり1965年頃から1990年代までか。大半を単独行で楽しんだ。だから危険だったこともあり、父親とはよくケンカした。だから山道具は全部、自分のバイトで買った。夜行列車の中で、先輩たち(全然知らない人)に出会い、何度かご一緒させていただいたこともある。こうした体験も自然との思い出として重なる。

 また父の友人だったHさんという方が、長野県の志賀高原(1970年代)で、その後、同、黒姫高原(1980年代)で山荘を営んでおり、大変お世話になった。夏の黒姫は最高でした。高原と山と湖に囲まれており、野鳥も多かった。

 こうした流れが私のバックグラウンドであり、「良き思い出」を超える教訓になっている。人間は愚図だから宝の山である自然を壊して、スマホにいたった。AIだって。いくら高度でも、所詮機械は機械。人殺しのゲームに興じていたら、どうしようもない。夢も希望もないだろう。自分を信じることはできなくなっていく。

 バックグラウンドとは、過ぎ去った思い出にあらず。自分を育み、励ます素材だろう。沖縄に通い始めて34年が経ち、沖縄に住み始めて10年が経つが、まだ自分を育む自然と出会えていない気がする。これは来年の課題だろう。バックグラウンドとは現在進行形でなければならないはずだ。名護湾で残照を撮るのは、そのひとつかもしれない。辺野古・大浦湾での夜明けを撮りに行こう。2004年11月の辺野古での朝焼け3連チャンは凄かった。そこが壊されたのだ。許せない! 許さない。そして大浦湾側もかよ!!!



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