◎本稿は、「人民新聞」(2021年4月25日号通巻1748号)に寄稿したものです。これは原文です。小見出し等、同紙編集部が改変した箇所があります。読みやすさについては、小見出しが拡充されており読みやすいのですが、ここでは原文を示します。その点をお断りした上で、転載します。
タイトルも編集部は下記のように改めており、転載にあたって、タイトルのみ同紙のタイトルに変更しました。
「辺野古埋立てに遺骨混じりの土砂/浮き彫りになった「日本人」の「無責任体質」」
Ⅰ:それはこの国の「変更申請」から始まった
ご存じのとおり、この国は「辺野古が唯一」を繰返している。沖縄の民意を重ねて示しても、軟弱地盤が明らかになっても、基地建設を断念する頭を持とうとしない。こうして沖縄防衛局は、昨年4月、沖縄県に対して、「変更申請書」を提出した。この変更申請の主な課題は軟弱地盤の解決にあるが、埋立に用いる土砂の搬出先も変更してきた。従来は小豆島以西の各地からだったが、今回はその殆どを沖縄県内から採る計画だ。その方が速く安い、何よりも沖縄県が制定した外来生物を含みかねない土砂の搬入をチェックする条例をクリアするためだ。
土砂に関する変更申請の図書にこうある。変更計画として、国頭、北部、南部、宮城島、宮古島、石垣島、南大東島の各地区の調達可能量を示し、南部地区から3159万6千立方メートルとし、総計4476万3千立方メートルとしている。埋立に必要な総量は1689万9千立方メートルであり、南部地区だけでも充分な調達可能量があるという。
しかし彼らは沖縄島の土砂、特に南部の土砂に、76年前の沖縄戦によって殺され、行方不明になった人々の遺骨や遺品が多数(約2000人と言われている)埋れていることを知らないはずがない。この事実をそもそも無視したのだろう。遺骨混じりの土砂を新基地建設の土砂に使おうとしているのだ。これは尋常な感覚ではあるまい。
そしてガマフヤーと呼ばれている具志堅隆松さん等が、昨年10月から糸満市米須の魂魄の塔の脇(直線距離で70mほど)で遺骨を掘り進めていたところ、突然、「熊野鉱山」だと立ち入り禁止にされたという。ここから問題が表面化し始めたのだ。
平和を求める沖縄宗教者の会が、2月8日沖縄県庁前で要求行動を行った。①「南部戦跡を中心に未だ手つかずの遺骨の収集を『戦没者遺骨収集の推進に関する法律』に基づき速やかに作業に着手され、現在進行形の土砂採取は中止されたい。②「沖縄南部、魂魄の塔から平和の礎に至る糸満、八重瀬は沖縄戦犠牲者の霊を鎮魂慰霊し再び沖縄を戦場にしない平和運動の聖地とも言うべき場所です。土砂採取による乱開発、環境破壊を中止して下さい」と要求した。
そして具志堅隆松さん等は、3月1日~6日にかけて沖縄県庁前でハンストを行い、熊野鉱山の土砂採取を不許可にするように求めた。具志堅さんが繰り返し述べてきたことは、戦没者の尊厳を守る、これは人道上の問題だということに尽きる。そして当該地が自然公園法の戦跡国定公園(県の管理)に指定されている。同法第33条2項にある「その風景を保護するために必要な限度において、当該行為(鉱物等の掘採等)を禁止し、若しくは制限し、又は必要な措置を執るべき旨命ずることができる」。だからこの知事権限を行使すれば、鉱山開発をやめさせ、風景を保護することができるはずだ。
しかし玉城デニー知事は、4月16日、措置命令を出したものの禁止にしなかった。「風景を保護する」と言いながら、①遺骨の有無について関係機関と確認し、遺骨の収集に支障がないよう措置を講じること、②掘採区域の敷地境界に接している慰霊碑の区域における風景へ影響を与えないよう、必要に応じ、植栽等の措置を講じること。③周辺植生と同様な植物群落に原状回復すること。④上記事項について採掘開始前に県に報告し、協議することだった。こんなことでは風景を保護できない、遺骨も土砂に紛れてしまう。大変残念な事態に立ち至っている。
Ⅱ:何故こんなことが起きるのか?
歴史を振り返ってみる。沖縄戦は大日本帝国からすれば、「国体護持」(天皇の命=地位を守る)のための時間稼ぎの戦争だった。一方の米軍は、「馬乗り攻撃」ともいわれた徹底的な掃討戦を行った。日本軍は民衆をガマから追い出し、人々はスパイだと決めつけられ殺された。或いは「集団自決」に追い込まれた。1945年6月22日(或いは23日)摩文仁の丘に立てこもっていた牛島満中将ら指揮官が自決したが、最後の一兵まで戦えとの遺訓を残した。部隊も住民もバラバラになり、行方が知れなくなった人も少なくない。
そして沖縄戦は戦時から戦後の明確な区切りがなかった。米軍が設置した捕虜収容所、住民の収容所に収容されるなど、遺族は親類縁者の行方を探すことも思うようにできなかった。
旧真和志村有志は、何万もの遺骨を拾い集め、魂魄の塔を1946年2月に建立した。沖縄は、1972年5月14日まで米国の施政権下(統治)に置かれた。翌5月15日、沖縄は日本に返還され、即日自然公園法が適用され、沖縄戦の決戦場となった地域は戦跡国定公園に指定されたが、沖縄県が主体的に係われないまま今日まで49年が経過してきたようだ。日本で唯一の戦跡公園でありながら、如何に自然の景観を保護するのか、遺骨などの回収を進めるかなどの計画・要綱すら作られてこなかった。こうして南部地域(糸満市・八重瀬町)のあちこちの森が壊され、平和祈念公園の周辺などに石灰石の鉱山が多数開発され土砂が採掘されている。今回の熊野鉱山近くの荒崎海岸を見下ろす丘にも新規の鉱山が動いている。
「沖縄戦の遺骨混じりの土砂を新基地建設に使うな!」の叫びは、3月のハンストを通して急速に沖縄中に広がった。遺族も声を出し、市町村議会での決議も広がっている。4月15日には沖縄県議会では、「遺骨混じりの土砂を使わせない」に留めて全会一致で決議された。
しかし、この問題は沖縄の問題に留まらない。この国は侵略・戦争責任を問わず、「国体護持」以来、民衆を見下した徹底的な無責任体質が戦死者の遺骨回収を遅らせてきた。戦死者の遺骨の行方よりも、「神」(みこと)に祭り上げ、誤魔化してきたのだ。私たち「日本人」(やまとんちゅ)は、ここにどれだけの人が気づいているか。気づこうとしないから「沖縄の問題」だと切り捨ててきたのではないか? コロナ禍の現在、この国の政治は怪しさを増しているが、これらは全て地続きの問題だ。
この問題の決着はまだつかない。4月21日の具志堅隆松さん等による防衛省、厚生労働省との交渉に於いても、防衛省は土砂の採取は「未定」とはぐらかし、厚生労働省は防衛省のことだからと口をつぐんだとのことだ。私たちは、彼らの責任の所在を明確にさせながら、前に進みたい。