◎本稿は、「沖縄の怒りと共に」(第120巻 2023年3月24日号 うちなんちゅの怒りとともに! 三多摩市民の会発行)に書いたものです。以下転載します。(ヤマヒデ)
(Ⅰ)「建白書」提出から10年の2023年1月28日
2023年1月27日夜、東京で「止めよう!辺野古埋め立て」国会包囲実行委員会呼びかけの「辺野古新基地建設断念! 沖縄の民意を日本の民意に!」を掲げて集会とデモが行われたことを私はツイッターで知った。そこから1月28日に那覇でも集会があることを知り、予定を急遽変更し、私はそこに出かけたのだった。
那覇で開かれた集会は「『建白書』から10年、国会請願で民意実現を求める 1/28県民集会」ー辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議の主催だった。私はあれから10年の月日が経ったのかという感慨を覚えずにはいられなかった。この日の発言者全員が沖縄の戦場化への危機感を述べながら、オール沖縄会議としてこの最大の論点が集約されていないように私は感じたのだ。
この10年の節目にあたり、本来ならば、何が成果で何が課題なのかを提示しなければならないはずだ。今、「再びの沖縄戦」の危機に置かれている沖縄で、そうあるべきなのは、余りにも当然なことだろう。
オール沖縄会議の約束事は、①オスプレイ配備撤回、➁新基地建設反対の2点にあった。これを保革を超えた合意点としたのだ。2013年1月28日、沖縄県内の全(41団体)首長、県議会・全市町村議会議長、経済界と労働界など保革を超えた取り組みの結果、この「建白書」がまとめられたのだ。建白書を東京の首相等に届けた際のデモに対して、この行動の中心になった人々は、右翼による罵詈雑言に呆れかえり、逆に翁長雄志那覇市長(当時)などは、益々確信を深めていったのだ。
そして前知事仲井眞弘多氏が、公約に掲げていた辺野古新基地建設阻止の公約を2013年12月27日、破り、容認したことから、2014年11月の知事選で、仲井眞氏対翁長氏のバトルとなり、翁長氏が圧勝したのだった。オール沖縄と言われたのは、翁長氏も「沖縄の自民党」の政治家であり、これまでの沖縄の歩みを見渡せば、沖縄内への移設反対に至ることができたのだ。だからこそ全首長の、全会派の合意に至ることができたのだ。この過程は、新基地建設問題に加えて、2012年、13年とオスプレイの導入問題が露わになる中で、沖縄では2重の攻撃に直面させられていた。MV-22オスプレイは海兵隊の輸送機であり、普天間基地を拠点に運用されており、「辺野古移設」と切っても切れず、一個二重の問題になっていた。
私は、「オール沖縄」という形に疑問を抱き続けてきた。このオール沖縄が成立したのは、沖縄戦の経過と結果にあるだろう。「命どう宝」と語り、「軍隊は住民を守らなかった」との教訓は重い。それはイデオロギーの問題ではなく、私たちの命を主語として語るイデオロギー以前の問題だからだ。翁長前知事は、イデオロギーよりもアイデンティティーだと繰り返していたが、沖縄に根ざすことが重要だと私も理解している。もっといえば、「私たち・沖縄住民の命を主語」とする地平の中に、国家の包摂を跳ね返すアイデンティティーが育まれていけば、オール沖縄になり、より大きくなっただろう。
しかし中央政治を担う自民党はこの危機に素早く対応してきた。2013年11月25日、石破自民党幹事長(当時)に沖縄県選出の自民党国会議員5名が呼び出しを受け、恫喝され、新基地建設を容認させられた。中央政府による「保守」の切り崩し(分断)が始まったのだ。こうした流れの中で、内向きになったオール沖縄会議は先の2点集約に拘りすぎ、「島嶼防衛」問題を極最近までネグレクトしてきた。この足かせを打破する論者がいなかったのか、十分な議論を避けてきたのか、原因は不明だが、この結果だけは明らかだ。
繰り返しになるが、保革を超えた団結の要が翁長雄志前知事だった。その彼が、2018年8月8日、膵臓ガンで亡くなった損失は、極めて大きかった。「観光業は平和産業」と言っていた沖縄経済界のかりゆしグループが離れ、金秀グループもオール沖縄会議から離れていった。
なお私は玉城デニー知事に翁長前知事と同じ役割を期待することは、ないものねだりだと考える。多様性を尊重し、軽やかではあるが、玉城知事は自民党の「保守人脈」ではないことは明らかであり、やむおえないだろう。その時点で、オール沖縄会議は別の手を打たなければならなかったはずだ。
(Ⅱ)新たな模索が始まっている
そして2023年2月26日、那覇で「島々を戦場にするな! 沖縄を平和発信の場に! 2・26緊急集会」が同実行委員会の下で開催された。約1600名が参加した。この集会の特徴は主催団体がオール沖縄会議や「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」ではなく、30代、20代の参加者が運動の担い手に入り、世代を超えた思いを一つに繋ぐ新たな形をとったことだろう。言葉も「基地建設反対」などの否定的な言葉から、「争うよりも愛しなさい」がメインスローガンになるような斬新さが取り入れられた。そして集会のメインが、与那国島、石垣島、宮古島の現地から多数の人々が集まり、報告した。これは遅すぎたとは言え、画期的な一歩前進だ。また国会議員、県議会議員、市町村議員などのお歴々が報告者のメインから引き、様々な立場の人がそれぞれのアピールをし、相互に補完し合える関係に一歩踏み込んだ。「前を向き、横に繋がり、歩いていこう」の姿勢をすがすがしく感じたのは、私一人ではあるまい。
2・26集会 自衛隊基地が強化されている島々から多くの市民が参加した。
2・26集会実行委員会は、これから、数千人規模、夏には万単位の集会を企画したいと語っていた。私も賛成である。ただし、若干の留保もつけておきたい。以下私なりの問題提起としたい。
(Ⅲ)今後のために
①何故ここまで遅れたのか?
「島嶼防衛」の動きは、2010年末のこの国の「防衛計画大綱」が「動的防衛力」を掲げ、その中で明示されたのだ。この重大な転換点を、何故沖縄が気づかなかったのだろうか。私は再三この危うさを語り書き、訴えてきた。辺野古テント村でも毎日のように語ってきた。これが普天間基地の「県外・国外移設」を訴えた民主党政権の時代(2009年9月政権交代)だったこともあり、沖縄島の革新勢力は、新基地建設反対に追われ、島々のことなど眼中に見えていなかったのだろう。
2013年安倍政権が「統合防衛力」を打ち出した「防衛計画大綱」は、琉球諸島を最前線にすることを明らかにした。統合とは陸海空の部隊を一つの指揮下での作戦体系であり、その裏に米国の指揮権が組み込まれている。この国の自衛隊の「専守防衛論」が擬装であることが、米日共同統合作戦態勢下で顕在化していくだろう。
2014年の集団的自衛権の一部合憲化閣議決定から、2015年4月の米日軍事ガイドライン(軍事指針)の改定、同年9月の「安全保障法制」=戦争法の強行採決。そこから2018年再度の防衛計画大綱の改定。そして昨年末の「安保3文書」へ。
こうした政治・軍事の流れの中で、沖縄は「基地の島」であり、新基地建設を巡る問題やら様々な問題が起き続けており、忙しすぎる。与那国島・石垣島・宮古島などの島々のことが見えてこなかったのは、ある意味やむをえない。軍事戦略をトータルに掴む視点がなければ、困難だ。個々の事象を超えた認識ができなければ、とても太刀打ちできない。
だからこそ、沖縄島の民衆は、「沖縄本島」―「先島」という観念を差別だと認識し直し、ひとつひとつの島から島(シマ)を見通していく視点を大切にしたい。同時に地球規模で展開されている米軍戦略を凝視し問い直さなければなるまい。米国からすれば、沖縄・琉球諸島も日本も朝鮮半島も「極東」でひとまとめにくくられているのだ。だからこそ個々の島(シマ)に住民が生きているのだという声を明瞭に発し、お互いに届け合いたい。
2・26集会デモ行進解散地で入場してくる人々と共に頑張ろうと激励する具志堅隆松実行委員長(右)ら。
➁翁長前知事の遺訓の中から考える
翁長雄志著「戦う民意」(角川書店2015年12月刊)にこうある。「本土と沖縄の自民党は違う」の項で「今の自民党は日米安保、日米同盟が最優先です。『日米安保あっての日本』という発想は、本土の自民党の考え方です。そこからは沖縄県の民意が完全に抜け落ちています」。また「『憲法9条があるから日本は平和だ』と主張する人たちは、憲法の埒外にあった沖縄の負担の下で、戦後日本の経済成長、平和の継続があったという視点が抜け落ちています」と看破している。
こうした鋭い視点が各所にあるのであり、改めてオール沖縄の行方を私は探り、求めていくべきだと考える。沖縄の島々を戦場にさせない新たな主体形成を作り上げていこう。まだ諦めるのは早すぎる。