ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

1972年の自衛隊沖縄移駐後の53年を考える(上)(20250128)

2025年01月28日 | 他紙執筆原稿

◎本稿は「沖縄の怒りと共に」(20250121号 Vol 126)掲載の原稿です。

 

基地の島 沖縄島・琉球諸島のリアルについてー私たちが正面から戦争と平和を議論するために
(2)1972年の自衛隊沖縄移駐後の53年を考える (上)      

(Ⅰ)沖縄から自衛隊をもう一度考えなおすために
①那覇駐屯地が開催している「陸自祭」に対する違和感
 2024年11月24日、私は那覇駐屯地で開催された「陸自祭」を少々取材した。自衛隊は全国各地で駐屯地祭・航空祭を開催している。その心は、人心の掌握にあるようだ。防災や、防衛、「国民保護」に必要不可欠な機関(部隊)ですと言いたいのだろう。
東京在住時代の私は、基地ウォッチングの一環で、関東圏を中心に各地の駐屯地祭を度々訪ねてきた。だから那覇駐屯地の「陸自祭」に、私は戸惑った。ネット検索をしても「陸自祭」で引っかかるのはここだけだ。
 私は考えた。「那覇駐屯地祭」と称すると、ここに海上自衛隊も航空自衛隊もあり、陸上自衛隊のイメージを打ち出せないからだろう。だから「陸自祭」とダイレクトに呼称していると考えられる。また、今回私が直接現地に行ってわかったことだが、宮古警備隊(宮古島駐屯地)、八重山警備隊(石垣駐屯地)も参加していた。この2個の部隊も第15旅団傘下であり、「陸自祭」と称すれば、不自然でないからだろう。そして米国第3海兵師団が参加し、高速機動ロケット砲(ハイマース)も観閲行進したのだ。陸上自衛隊は「日米共同の部隊」ですと言わんばかりだった…。

②「ネガティブ」だったものが、「ポジティブ」な存在に変ってきた?
 1947年5月3日、日本国憲法が施行された。第9条に非武装・平和が掲げられた。1952年4月28日、日米平和条約が発効され、日本国は「独立」した。連合軍(実質、米軍)占領下、間接統治の中での新憲法は平和・基本的人権・主権在民の3大原則を打ち出した。
 ところが1950年、GHQは日本政府に再軍備を命じた。米ソ冷戦構造や、朝鮮戦争の勃発が大きな転換を促していく。1950年、警察予備隊、52年、保安隊、54年自衛隊に改組されていく。自衛隊は日本国憲法下で違憲だと提訴しても最高裁は判断せず、曖昧にされてきた。それでも自衛隊は矛盾・対立の中で、ネガティブな存在だった。
 しかし1992年のPKO法の強行採決は、海外派兵に道を切り開く大きな転換点となり、2014年、安倍政権下で、集団的自衛権の一部合憲解釈が閣議決定されてしまった。その後、「専守防衛」が「敵基地攻撃能力の保有」に改変され、武力行使の道が拡大されてきた。近年、自衛隊に対して「頼もしい」との見方が広がっており、ポジティブな存在だとみられてきたようだ。
 一方で沖縄では、どうだったのだろうか? 米軍占領下、1960年代沖縄での「日本復帰論」の高まりの中で、沖縄民衆は「日本国憲法のある日本に復帰したい」との願望を膨らませていく。当時はベトナム戦争の時代だ。沖縄は、ベトナム民衆から「悪魔の島」と非難されていた。沖縄民衆もベトナム戦争下、米軍の出撃基地の島で多くの被害を受けていた。だから日本国憲法への期待は高まって当然だった。1969年、日米交渉の中で沖縄の返還が合意されていった。 
 しかし、沖縄が日本国に帰属しても、戦争から平和への世代わりは、進まず、平和憲法は無効のままに押しとどめられてきた。米軍による事件・事故は減らず、日常的な負担も、緩和されていない。その隙に、自衛隊が強化されており、2016年以降、沖縄島・琉球諸島が日米共同での対中抑止の最前線に置かれてきたのだ。

③浅はか過ぎた私(たち)の認識
 私の反戦闘争は、1970年の反安保の政治闘争から始まった。ベトナム反戦を掲げながら、現実のベトナム戦争への学びと想像力、沖縄の反戦復帰闘争への学びと想像力が決定的に不足していた。リアルに視ようとする視点を獲得していなかった。私は、沖縄を「我がこと」にできていなかった。
 この原稿を書くに当たって、1972年の北熊本での「自衛隊派兵阻止闘争」に決起せよとの呼びかけを思い出した。あれは自衛隊の沖縄への移駐反対闘争だったのだ。沖縄が日本国に復帰し、日本国は自衛隊を沖縄に派遣した。先遣隊が移駐し、徐々に自衛隊が駐留する沖縄に変っていった。
 私はこれらが意味するところを考えないまま、北熊本まで行けないと結論づけていた。1960年代の後半からの反戦闘争の高揚が萎んだのは、機動隊の弾圧もあるが、リアルに考える図太さ、立体的な見識が欠けていたからだろう。党派間のイデオロギー論争・闘争に終始しており、現実的な展望が空疎だったのだ。
 1972年5月15日の「日本復帰の日」から、17年後の1989年5月、私は初めて沖縄に渡った。このとき視た沖縄、出会った沖縄の人々との交流の中で、これは考え続けないといけないと、鈍感な私も悟ったのだ。 
 1972年5月15日から53年目を迎える中で、私は「自衛隊」(Self Defence Force)とは何か、日米共同・統合軍と言われるものの正体を正面から考えたい。

(Ⅱ)沖縄返還に伴う自衛隊の移駐は、如何に準備されたのか?
 以下、本題。そもそも自衛隊は何故に沖縄に移駐したのだろうか? その根拠はどこに記されていたのだろうか。

①1971年6月17日に締結された「沖縄返還協定」を探る
 正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との協定」だ。この協定を経て、琉球諸島及び大東諸島が日本国に復帰した。この協定は自衛隊について、一言も触れられていない。以下要約的に視ていこう。
 前文 日本国及びアメリカ合衆国は、「アメリカ合衆国が、琉球諸島及び大東諸島の地位について検討し」、「両政府がこの協議を行い、これらの諸島の日本国への復帰が前記の共同声明の基礎の上に行われることを再確認したことに留意し」、「アメリカ合衆国が、琉球諸島及び大東諸島に関し1951年9月8日にサンフランシスコで署名された日本国との平和条約第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を日本国のために放棄し、これによって同条に規定するすべての領域におけるアメリカ合衆国のすべての権利及び利益の放棄を完了することを希望することを考慮し、また、日本国が琉球諸島及び大東諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権利を行使するための完全な権能及び責任を引き受けることを希望することを考慮し」協定した。
 なお、1951年の平和条約第3条は「(前略)合衆国は、領水を含むこれら諸島の領域および住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」としていた。
 第1条 1.上記の内容を要約し、「(前略)日本国は、同日に、これらの諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権利を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける」。
    2.該当する地域を規定した条文。
 第2条 日米安保条約、同地位協定等は、「この協定の効力発生の日から琉球諸島及び大東諸島に適用される」
 第3条 1 日本国は、日米安保条約、同地位協定に従って、「この協定の効力発生の日に、アメリカ合衆国に対し琉球諸島及び大東諸島における施設及び区域の使用を許す」。
     2 (略)
第4条 この協定の発効前に起きた事案の日本国の請求権を放棄する条項(一部例外を認めている)。
第5条 裁判権をめぐる条項
第6条 1.琉球電力公社、琉球水道公社及び琉球開発金融公社の財産は、本協定の効力発生の日に日本国政府に移転し、これらの公社の権利・義務は日本政府が同日に日本国法令に則して引き継ぐ。
 2,3,は財産権の移転。4.は米国が行ったこれらの土地への変更を日本国又は日本国民に保障する義務を負わない。
第7条 日本国政府による米国政府に対する総額3億2千万合衆国ドルを支払う。
第8条 ボイス・オブ・アメリカ中継局の5年間の継続に日本国政府は同意する。
第9条 本協定は、批准を要する。(以上)、
 ざっと見たとおり、沖縄返還協定は、米日政府の間で交わされたものであり、沖縄の声は全く無視された。米国政府は「すべての権能と権利を放棄する」(前文)と謳いながら、日本政府は、米国・米軍に、「施設及び区域の使用を許す」(第3条)とあり、両者の間に整合性はあるのだろうか。米軍は、返還後も、支配者然としているのだ。
 そして「日本国の防衛」・「自衛隊」の文言は全く出てこない。日米安保条約の中に埋め込まれており、第1条の「行政、立法及び司法上のすべての権利を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける」の中に含むと両国政府は解しているのだろう。

②1969年11月21日日米共同声明を見る
 この佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領の会談・共同声明が、沖縄返還の基礎に置かれている。この共同声明は、朝鮮半島、中国、台湾、ベトナムなどの緊張・紛争を強く意識したものであり、両者は「(武力を前提に)極東の平和と安全」を再三確認している。
第6項で沖縄の施政権返還を認め、沖縄の返還を合意。その後段で、「総理大臣は、復帰後は沖縄の局地防衛の責務は日本自体の防衛のための努力の一環として徐々にこれを負うとの日本政府の意図を明らかにした。また、総理大臣と大統領は、米国が、沖縄において両国共通の安全保障上必要な軍事上の施設及び区域を日米安保条約に基づいて保持することにつき意見が一致した」と「日本自体の防衛のための努力」と称して自衛隊の移駐を記している。7項から11項も沖縄返還を巡る条項(全15項)。
 尚、沖縄返還交渉の渦中で、日本政府は「核抜き、本土並みの返還」と宣伝していたが、「核抜き」は立証されていない。核の存在の存否を一切明らかにしない米国流が貫ぬかれているからだ。また、「本土並み」は欺瞞だ。闇に覆われ続けている。今や、琉球の島々に自衛隊のミサイル基地を置き、最前線にし、日本国全体を米国の前線基地化する流れが既成事実化している有様だ。

③「日本国による沖縄局地防衛責務の引き受けに関する取極」(久保―カーチス取極)
 ②で見たとおり、両政府は事務レベルで自衛隊による「局地防衛」政策を煮詰めてきた。その集約が1971年6月29日の久保卓也防衛庁防衛局長とウォルター・L・カーチス・ジュニア在日米国大使館主席軍事代表(海軍中将)による「日本国による沖縄局地防衛責務の引き受けに関する取極」だ。
1:日本国における局地防衛責務の引き受けー陸上防衛、防空、海上哨戒及び防衛庁がその任に当たる捜索・救難を引き受ける。
2:日本国による引き受けの時期―沖縄復帰日後、1973年7月1日以前の実施可能な最も早い日まで。
 A 当初展開―日本国は、復帰日後約6ヶ月以内に、約3200人からなる次の部隊を展開する。
  (イ)陸上自衛隊:司令部、普通科(引用者註:歩兵部隊)中隊2、施設中隊1、航空隊1、支援隊1、その他の部隊
  (ロ) 海上自衛隊:基地隊1,対潜哨戒機隊1、その他部隊
  (ハ)航空自衛隊:司令部、要撃戦闘機部隊1、航空警戒管制隊1(引用者註:基地等防護・防空のためのレーダー部隊)、航空基地隊1、その他の部隊
 B 追加展開―日本国は更に1973年7月1日までに、地対空ミサイル防空を実施し、及び航空警戒管制組織を運用するために、ナイキ群1(3個中隊)、ホーク群1(4個中隊)及び適当な支援要員を展開。
3:施設 
 A:防衛庁は、次の施設に部隊を配置する意図を有する。
(イ)那覇空港 航空自衛隊の要撃戦闘機隊その他の部隊及び陸上自衛隊の航空隊、海上自衛隊の対潜哨戒機隊も那覇空港を使用する。
(ロ)那覇ホイール(引用者註:那覇軍港の西側一帯) 陸上自衛隊の部隊及び必要に応じその他の自衛隊の部隊
(ハ)ホワイトビーチ地区(引用者註:勝連半島東側)及び那覇港 海上自衛隊の部隊。桟橋、集荷場その他施設の海上自衛隊による使用のため、地位協定第2条4項(a)(引用者註:合衆国軍隊が使用していないとき自衛隊が日米合同委員会で合議の上、使える)に基づく必要な取り扱いを行う。
(ニ)ナイキ・ホーク及び航空警戒管制隊が使用中の施設及び区域。自衛隊の地対空ミサイル及び航空警戒管制隊。
B 合衆国は、自衛隊の受信及び送信施設の設置に協力するものとし、かつ可能な場合、合衆国軍隊の施設及び区域内にこれらの通信施設を受け入れることを考慮する。
4:防空
 A 航空自衛隊
(イ)復帰日又はその直後に部隊を那覇空港に展開
(ロ)復帰日から6ヶ月以内にF-104J戦闘機による防空警戒待機の運用を引き受ける(引用者註:領空侵犯に対する緊急出動態勢)。
(ハ)1973年7月1日までに航空警戒管制組織の運用を引き受ける。
 B 航空自衛隊のナイキ群、陸上自衛隊のホーク群は、1973年7月1日までに地対空ミサイル防衛を引き受けるよう沖縄に展開。
 C 沖縄の防空の運用責任は、自衛隊が1973年7月1日までの間にその責任を引き受けるときまでは、合衆国軍隊が保持する。ただし、自衛隊及び合衆国軍隊に対する指揮は、それぞれの指揮系統を通して実施される。
5 地対空ミサイル及び航空警戒管制組織
沖縄の防空の早期引き受けを容易にするため、双方で合意する基本的な航空警戒管制組織及びナイキ・ホークの地対空ミサイル組織については、別個に定める条件に従い、防衛庁はこれを購入する意図を有し、合衆国政府は国防省を通じてその売却を申し出る。
6 陸上防衛、海上哨戒及び捜索・救難
 自衛隊は、沖縄において、復帰日から、6ヶ月以内にその部隊の運用が可能になるに従い、陸上防衛、海上哨戒及び防衛庁がその任に当たる捜索救難を引き受ける。自衛隊及び合衆国軍隊の代表は、協力して、これらの機能を遂行する部隊の沖縄への展開のための詳細な計画を準備する。
7 詳細な実施計画 (略)
以上。
 なお、こうして米日間で「(基地に関する)了解覚書」がまとめられた。既成の米軍基地を3分類している。復帰後も米軍が継続使用する基地(A表)―嘉手納基地や普天間基地等。復帰後に返還される基地(B表)―航空自衛隊の那覇基地になった那覇サイト等。復帰までに返還する基地(C表)―全面返還された本部補助飛行場等。

④まとめ
 以上の取極はほぼ確実に実施されていく。以上でわかるように日米安保体制(同地位協定)による米国・米軍支配の都合で、自衛隊は「局地防衛」を任務とし、「米軍の防衛部隊」として組み込まれたのだ。住民に対しては、不発弾の除去や急患の移送、災害派遣を売りにしながら。
 そもそも米軍と自衛隊を別物として考えることが、間違っていたのではないだろうか?
 次回はこうした取極が、各基地・各部隊ごとに如何に実施され、改変されてきたのかを見ていこう。それは何故なのかを考えながら、この53年間の中での変化を自衛隊を中心に描き出していく。



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