ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【補注】【補足】浦上天主堂を訪ねる(20230102-②)

2023年01月09日 | 旅の記録

2023年1月2日(月)晴れ 長崎市

 私たちは長崎平和公園から浦上天主堂をめざそうと思っていた。しかしどこから出たらいいのか? そこに声がかかった。ボランティアの平和公園案内人のようだ。そこを右に行って、左折そして正面に見える。これだけのことだったが、彼の話は+アルファが長かった。

①小高い丘。要は東だ。浦上天主堂が聳え立つ。12:35

②ワイドに撮る。12:38 右天主堂の奥が96mの丘。正面は金比羅山。366m。左奥は帆場岳(494m)

原爆の炸裂もこうした山々に当たり、山の影は影響が少なかったと言われている。

 爆心地は浦上天主堂から西南西へ約500m。地上500m付近で爆裂。この浦上天主堂も大破した。原爆遺構として保存すべきとの主張もでたが、

今を生きているカトリックの信徒たちは再建を決意。1958年に既設物件を解体し、59年10月に再建。その後大規模な補修を経て今の天主堂が建っている(こうした経過については、吟味が必要だ)。

③12:40 教会の建物も信徒の信仰と復権への思いが込められていることを知れば、ただの建築物に留まらない価値を思う。

階段を下り、眼下の公園に入る。

④12:45 右折して坂を上がるようだ。

⑤入り口。「カトリック 浦上教会」12:47

⑥坂道の途中左側に、当時の被爆した聖なる石像たち。12:50

私にはどれが何方様かわからないが、このあたりにあり続けてきた。1925年に旧天主堂は完成しており、これらの石像は98年の歳月が流れているのだろう。

⑦黒く焼け、無数の傷を負っている原爆遺構。信徒たちが守り抜いてきたものだろう。12:51

⑧お子(キリスト)様を抱くマリア様。12:53

⑨年月と被爆に耐えて、この世をみつめているのだろう。12:55

⑩どれもこれも黒く焼けただれている聖像。12:56

⑪拷問石。看板右の光っている奴。13:05

ここに正座させられたのだろう。キリシタンに対する弾圧は、豊臣秀吉が1587年に伴天連追放令を出し、始まる。1790年「浦上一番崩れ」と言われる。以降、1867年から1873年の「浦上四番崩れ」まで激しい弾圧・拷問・流刑・磔が繰り返された。多くの信徒たちは、こうした弾圧から信仰を堅持しながら、住処を変えたり、潜伏し、隠れキリシタンとして生き延びようとした。1873年明治政府は禁教令を撤廃。

1945年8月9日の被爆で、12000人の信徒の内、8500名がなくなったと言われており、「浦上五番崩れ」とも称されている。この8月9日の11時頃の雲間が投下目標よりもやや北に出たために(この事実についても吟味が必要のようだ)浦上天主堂周辺のカトリック信者たちは、大きな被害を受けた。

⑫もう一度見上げてみる。13:07

信徒たちが造り上げた教会だ。

異文化が入ってくることで、経済も回り、貿易が栄えた中世から近代の長崎。原爆で崩されたが、こうした様々な歴史を如何に総括するかだろうか。難問だが、長崎市民が、解いていってほしい。私たちも共に解いていきたいものだ。

浦上天主堂から爆心地公園へ。

⑬出た。爆心地公園裏手。13:18

⑭公園内に置かれている旧浦上天主堂の一部の壁と石像。13:20

⑮爆心地公園。爆心地の中心を示す碑と右奥が先に示した旧浦上天主堂の壁。

8月9日はここで高校生を中心に人々が平和の環をつくってきた。

⑯爆心地公園周辺の1945年8月8日の当時の復元図。13:24

⑰するとカラ類が頭上に。よく見たらエナガだ。10羽余り。真上過ぎて撮りにくい。13:26

⑱この森にエナガの群れ。長崎と言えば夏のイメージが強すぎ、エナガが出るとは思ってもいなかった。13:26

さてここから再び長崎駅前に移動し、昼食を食べる。やはり原爆資料館を見たいという連れの意向を受けて、資料館へ(別稿で)

16:30分頃資料館を出る。

⑲階段を降りると、見覚えありありの絵(彫刻)が並んでいる。16:34

読谷(よみたん)の金城実さんの彫刻だ。ここで彼と出会おうとは。私がこの母子像の存在を忘れていただけか。

碑文を読む。16:34 「(前略)それぞれの『あの日』を生き続ける女たちの、たぎる思いをひとつに合わせ、再びあの惨禍を繰り返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。/1987年8月1日 長崎平和の母子像を建てる会」

金城さんのサインも記されている。

前文は以下を

長崎市│平和の母子像

⑳ネットで調べたら、「怖い顔をしている」とかの感想が出ていたが、恐怖の中で、必死で生きる女たちが柔和な顔をできるはずがない。平和を希求するということは楽ちんにいかないのが現実ではないのか。16:35

「平和の像」の筋肉モリモリの図がズレていると私は考える(前稿参照)。

実さんと出会って、ちょっと落ち着いた私。

㉑日が落ち行く。16:38

㉒下に降りて、外国人戦争犠牲者核廃絶人類不戦の碑の下部。1981年12月8日建立だ。アジア・太平洋戦争から40年で作ったのだ。16:43

長崎市│外国人戦争犠牲者追悼核廃絶人類不戦碑

長崎市は丁寧にネットに上げている。ありがとう。

日本の侵略の挙げ句に、結果的に原爆で反撃されたのだ。私たちはしっかりと教訓にしたいものだ。

しかしこの碑ができて40年で、時代は逆行したものだ。問われているのは私たちだ。

【註】途中( )で挿入した箇所について、別の文献を読む中で、異論が生じてきた。後日まとめて整理しなおしたい。(ヤマヒデ)



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