2023年1月2日(月) 晴れ 今朝も朝食をとる場所に一苦労した。お陰様で市電も撮らずに、目的地へ。先ず向かったのは長崎駅から市電で北に9番目の駅だ。平和公園ー大橋。今は長崎大学(国立)がある。
大橋駅に降り、広い道に出て北東へ。長崎大があるはずだ。
①先日ネットでみた様子ではない。塀が変わっているがここだろう。10:37
裏門だが、出入り自由? 近頃のことだから、勝手に入れば、不法侵入だといわれまいか。
ここで個人的なトラブルが発生。
②ありました。10:42
三菱兵器製作所大橋工場の被爆の跡を示す標柱。丁度太陽が刺しており、反射が強い。建物が崩壊し、柱が倒れ、屋根等がめくれている図版。もとは写真だろう。
45年8月12日の同工場の被災状況報告では、死者300名以下、重傷者1200名以上、軽傷者3000名以上だったとある。爆心地まで約1300mだ(1200mから1600mぐらい)だ。結果的にどれだけの人々が亡くなったのだろうか。
③壁に「三菱兵器敞」の石柱が埋め込まれている。10:43
当時はこちらが正門だったようだ。
④長崎大学。石柱。2023年1月2日。10:45
因みに長崎大がここに建てられたのは、1953年だと長崎大の「沿革」に出ている。70年も経っているようだ。見えている建物はぴかぴかだった。
思い切って、私たちは構内に入り、反対側に回る。
⑤正門。こちらにも標柱(裏門のとややちがうようだ)がある。11:04
平野啓一郎さんの反核の講演会のポスターが出ている(右)。
⑥静かだ。1月2日だもの当然だろう。11:06
ガードマンの方に学内パンフをもらう。彼は親切だった。
⑦正門を入り、左50mに。11:10
⑧原爆慰霊碑が建っている。11:12
重々しい雰囲気。
⑨碑文が刻まれている。11:13
「世紀の嵐に
焦がれた土地にも
草は萌え出て
兄らが懇願の
平和もよみがえった
あの日
遠く遙かに逝った友
50有余の御霊の
ここにかえりて
永劫に
やすらかんことを
祈念する
昭和34年8月」
簡潔だが、切ないね。元号(1959年だ)だから余計に切なくなる私。
戦争が準備されている今読めば、私はまっすぐに読めない。
政権の座に着いている人たちは、こうした碑文をまっすぐに読めるのだろうか?
裏門に戻る。
⑩途中にある環境科学部。私は興味を引かれる。どんなことをやっているのだろうか。11:21
さて、ここから歩いて平和公園に向かう。
⑪浦上川。マガモとカルガモがいた。11:41
平和公園へこの橋を渡る。
⑫文明堂 工場でしょうか? 12:02
⑬12:03 趣あるね。美味しそうに見える。
やや坂を登っていく。
⑭見えた。12:05
平和公園の外側から。
⑮公園内、やや正調 12:10
私は、これ男っぽすぎて好きでない。原爆に筋肉では勝てない。願いとか、思い、祈りならば、違うだろう。一個の男体が平和を象徴するのだろうか? 私は彫刻家(造形家)ではない。「議論を起こすことに意義があるのかもしれない」と言っておこう。
⑯裏側に回る。12:13
⑰「平和祈念像作者の言葉」12:15
「逞しい男性の健康美」か。筋肉で原爆に勝てないぞ。土台比較するものではないが、違うな。こんな彫像で原爆のない社会、戦争のない社会を描けるとは思えない。無論、彼らは相当なエネルギーを使って製作したことはわかる。時代の制約もあった。これは宿題にするしかないな。
⑱サザンカが咲く平和の像の脇で。12:16
⑲12:16 太陽光が人工池の水面に反射し、花弁をきらめかせている。すっごくきれいだ。私の撮り方が今いちだな。
⑳12:17 生き物に永遠はない。永遠がないからこそ、再生産を繰り返す。この再生産が美しさを追求するのだ。
人間は、あがけば戦争になることを知っている。知っておりながらこれを繰り返す。再生産と終わりのない欲望は違うのだ。終わりのない欲望を絶つしかあるまい。もっとも修業するだけでは戦争を絶つことはできない。
私たちは花や木からもっともっと学ぶことがあるのではないだろうか。私は無信仰・無信心。
(続く)