おはようございます。2025年1月18日(土)晴れ 寒い
まだ寝ていたら、電話で起こされた。9時を回っており、電話があっても何ら不思議ではない時間だ。要件は来週の「平和のための基地ガイド」の可否だった。もちろんお受けした。背中が痛い。腰が痛い。一昨日の無理な歩きの負荷が出てきたようだ。一昨日のことは色々あって、公表しがたいが、歩くことは、基地観察の基礎であり、撮影の基礎。一方で体力だけでなんとかできる年齢を超えている。身体・心・頭が総合的に動かなければ、お話にならない。問題は競歩大会でないのだ。スピードを競うものではない。何を発見するかだ。何を考え始めるかだ。
ということで、このときのダメージで、来週の予定は全く決まっていなかったので、即オーケーした。ここのところ、先日紹介した「〈会社〉と基地建設をめぐる旅」を持ち歩いている。だから荷物が余計に重たい。そうなのだが、類書のない分野を切り開いたその勇気を思う。市民運動の友である加藤宣子さんが書き上げたのだから、私も応援したい。
建設業であれ、運搬業であれ、基地を支えることは、ビルド・インならぬスクラップへの貢献だ。殺戮と破壊への貢献。まちがってはならない。米国はその軍事産業と金融が支えている。戦争近しとなれば高値が付く金融。価値観が180度逆転しているのだ。二昔前に「誰かの贅沢のために殺されたくない」という楽曲を私は支持し励まされたものだが、今や、ごく一部の連中のもうけのために、最大多数の不幸を招き入れる時代に変ってしまっている。ここまで気がつかないままに誘導されてきたのだ。
日本国政府は、その米国政府の奴隷頭として振る舞っている。民主主義とは、個人の基本的人権が要なのに、ここを考えずに頭数の最大値がすべてという算術主義がはびこっている。多数の頭を如何に操作するかがもたらす堕落。
やっかいなことは、「支配者階級VS被支配者階級」の階級矛盾が、被支配者の中に、また支配する者たちがうごめき、という下方へ矛盾が転化されている構造だ。自分も被支配者でありながら、何らかの形で「支配者面」をしたいという邪悪な心があるのではないか。自分が何者かが見えなければ、邪悪な心が広がっていく。悪魔が取り憑くのだ。性暴力もそうした男の感覚と無縁ではないはずだ。究極の支配の心。こいつがおかしいのであり、こうした邪気を払わない限り、おかしなことは起きる。起こしてはならない。
自分を表現することは、こうした邪気との闘いでもある。自分を表現しようと思えば、自分を見つめるしかない。
一昨日遅くに帰宅したら、私のブログは炎上していた。何が起きたのか一時わからなかった。翻訳していただき、合点がいった。政治的対応はともかく、著作権侵害はやめていただきたい。如何なるデマであれ、デマの片棒を担がされたのでは堪らない。