ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

「軽便」爆発事故を学ぶ、ピース・ウォーキングに行った(20241207)

2024年12月12日 | 沖縄島中南部

 2024年12月5日、沖縄タイムスに「『軽便』爆発80年沖縄戦を学ぶ催し」の小さな記事が出た。2025年3月26日の沖縄戦80周年になる前企画に、私は反応した。私は、何かあるかなと思ったのだが、結果的に、行って正解だった。

 2024年12月7日(土)曇り 名護から高速バスに乗り、那覇インターのひとつ先の「子ども病院前」から歩いた。南へ台地を下っていく。国場川の流れを兼城(かねしろ)で渡る。黄金森(こがねもり)を過ぎ、南風原(はえばる)文化センターを越えると、那覇空港自動車道に当たる。そこを右折して変電所の角を左折。この先に、神里集落があるはずだ。私も初めて来る道であり、地域だ。神里ふれあい公園が標高41m。左に回り込むと神里の集落だ。さて神里公民館はどこだ。12時に着いた。

 集会は約30名の参加だった。マスコミの取材が多い。テレビ局も何社か来ていた。主催者は沖縄戦を知るピースウォーキング実行委員会。共催:南風原平和ガイド。

 沖縄には軽便鉄道(県営)が走っていた。1914年に与那原線が開通。1922年、嘉手納線、23年に糸満線も開通して、那覇から与那原、那覇から嘉手納、那覇から糸満の3路線計、51.7キロをつないでいたのだ。これが沖縄戦によってむちゃくちゃに破壊されてしまい、ほぼ跡形もなくなった。那覇バスターミナルの裏手に当時のターンテーブルが残っており、展示されている。与那原町には軽便資料館もある(私はまだ行っていない)。

 この爆発事故は1944年12月11日15時30分頃起こった。私は軽便鉄道(鉄道の軌道幅は762ミリ)で爆発事故が起きたことを知っていた。だがその裏側まで知らなかった。お話は、「封印ー沖縄戦に秘められた鉄道事故」の制作者清水潔さんが、上映(要約版)と、語り、概況を知ることができた。1944年4月、日本軍が沖縄に進駐してきた。軍は軽便鉄道を軍事の移送手段にしたそうだ(徴用)。市民の利用を基本的にオフリミットにしていた。

 事故は糸満線の喜屋武(きゃん)から稲嶺にかけた坂道で起きた。機関車は小型のSLだ。坂道をあえぎながら登る路線であり、8両を引っ張っていた。当然石炭を多く焚く。7両の無蓋車と1両の有蓋車に兵隊など約220名が乗っていた。1両目にガソリンが積まれ、2両以下に弾薬等が積まれていった。兵隊はその上に乗っていたのだ。ありえないことだ。機関車の煙突から吹き上がる火の粉が、ガソリンに引火し、それが弾薬にも延焼・爆発していった。さらに周辺のサトウキビ畑などに野積みされていた大量の弾薬にも延焼し、爆発していった。約220名がなくなったとされている。

 こうした事故は、どうしておきたのだろうか? 軍隊とはこれほど安全性に無頓着なのか?! いくら戦時中でもありえないだろう。さらに運悪くも、1944年末に南部に配備されていた第9師団(武部隊)が台湾に転出し、中部に配備されていた第24師団(山部隊)が南部に移動する過程だった。軍は人もブツも速く移動させたかったのだろう。だからこそ、箝口令を引いたのだろう。黙っとけと。 

 こうしたどさくさの中で、周囲に弾薬を野積みしていたことが、さらなる大惨事を招いたようだ。第32軍の長勇参謀長は「軍規弛緩」だと激怒したようだが、拙速な移動を要求したことが背景にあったのではないか。何せ移送を担当していたのは、第32野戦兵器敞等であり、この道のプロ集団であるはずだ。「分散格納」とか「格納壕」の構築など軍にとっても常識だろう。これを怠った責任は誰にあるのか、問われていないようだ。部隊再編じたいが、無理なスケジュールだったと、私は疑う。

 結果的に、この事故で弾薬の備蓄量が半減したと、長勇参謀長が言っている。だとするとこの事故が沖縄戦に、より一層の無理を押しつけたのではあるまいか。沖縄の兵隊に、何よりも沖縄の住民に。軍事機密下の闘いだったのであり、今更具体的なことを明らかにすることは、困難だろう。だが、私たちは意識しておきたい。

 清水さんは、この事故を生き延びた方と会え、現場を含む形で話を聞いている。当時女高生だった糸数よし子(当時15歳)さんだ。兵隊が飛び降りたのを見て、とっさに飛び降りたという。運良く水路に落ち、大やけどを負ったが生き延びた。このため現場もわかり、事件の概要もわかってきた。しかし軍隊は機密を重視した。箝口令を引いた。新聞記事などにも出ていない。 

 

14:45 神里公民館の隅に置かれている当時のレール。さびさび。

神里公民館を出て。当時も今も神里住民の大城吉栄さん(88)が案内に立つ。14:49

14:54

14:55 このガジュマルの根の下に防空壕があった。

この木。巨木というわけではない。14:55

15:09 ここを左折

15:14 このあたりで事故が起きた。

15:14 いまでもサトウキビ畑が広がる。反対車線側

15:16 サトウキビ畑に弾薬が野積みにされていて、そこにも火炎が広がリ、黒煙に覆われていたと言う。驚くべき事実だった。

15:19 「南城市の沖縄戦」の編者のおひとりの山城彰子さん。当時の軍隊の動向(救援活動など)について語った。

15:24 それぞれの部隊の活動記録が残されている。

なお、南城市は南風原町の東隣。

神里集落。15:40

15:42 公民館の中に立つ地区案内板。現場は右上。

最後に全員集合の記念写真に私も収まった。



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