8月15日とは何の日だったのか? そこに隠されたことと私たちの課題―不戦を伝えていく意味 8日も経ってしまったが
(1)沖縄で「8・15」を考える
2022年の今年も「8・15」を迎えた。私は沖縄にいる時間が9年目となり、この8月15日の意味が変わってきた気がする。ヤマトにいると、「8月6日、9日、15日」の如くであり、遠くなった戦争の過去を思い出すぐらいにしか考えられていない。これは総じて「被害者としての戦争」だ。私は「それでいいのか?!」と問うてきた。
「8・15」とは1945年8月15日であり、この意味合いを私たちは、いろいろと考えておくべきだ。一般的には、1945年8月15日に「終戦の詔勅」を天皇裕仁がラジオで流した(「玉音放送」)ことで、アジア・太平洋戦争が終わったと言われている。正確に言えば、公式にこの詔勅を決めたのは、8月14日であり、正式な降伏宣言の連合軍への手交は1945年の9月2日のことだ。沖縄では1945年3月26日、米軍ニミッツ提督が沖縄の行政権を一方的に米国が押さえたと宣言し、軍事占領が始まり、9月7日に宮古島・石垣島にいた日本軍司令官が米軍に降伏宣言を交わしている。米軍は沖縄を占領し、「本土攻撃」の拠点とすることを狙っていたのだった。
「8・15」とは、「(終戦の日と)同時に、それ以上に新たな天皇制の構築と戦後保守政治の再生への起点」だと纐纈厚は「日本降伏」(日本評論社2013年12月刊)で指摘している。この意味するところは大きいと、私も考えている。日本の降伏がこの「詔勅」で国内的に始まったからだ。それが今日まで戦後日本国家の歩みを歪め、同時にそれが沖縄戦から米軍による沖縄占領に至った沖縄のありかたをも(特に1972年5月15日以降)今日まで歪め続けているのだ。
(2)「終戦の詔書」を読む
当時の大日本帝国のボスは、大日本帝国憲法に定められていた通り天皇主権の国だったから、裕仁天皇だ。「終戦の詔勅」が国内的(沖縄を除く)に行き渡り、ほぼスムースに降伏が定まっていく。天皇の『御聖断』と言われた所以だ。
その経緯については、先に示した参考書等に譲る。肝心なことは、最終的に継戦派の軍部の意思を誰も止められなかったのだ。切り札としての天皇の「御聖断」。これを仰がなければ、意思決定できない政治だったのだ。この一点を鑑みても、天皇の戦争責任を問うべきだったのだ。因みに天皇裕仁は、45年2月の近衛文麿の上奏文を一蹴し、「もう一度戦果を上げなければ」と答え、沖縄戦などに突っ込ませたのだ。
1945年7月26日、米・英・中華民国は、ポツダム宣言をもって、日本国に「降伏」の最後通牒を突きつけた。御前会議や大本営は、ヒロシマ・ナガサキの2個の原爆、ソ連の参戦を受けてもぼやぼやしていた。8月9日夜の御前会議でも、継戦派の抵抗が繰り返され、このままでは「国体護持」すらおぼつかないと、「御聖断」なるものが準備されていく。8月14日のことだ。「終戦の詔書」は「朕、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を持って時局を収集せんと欲し」と切り出している。(中略)終に我が民族の滅亡を将来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし。かくの如くんば、朕、何を持ってか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。(中略)宜しく挙国一家、子孫相伝え確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をつよくし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民、それ克く朕が意を体せよ」と結んでいる。
朕(天皇)の権威は絶大であり、負け戦の実相も見ず「国体護持」して、いいから終戦を迎えるぞということだろう。これが1945年8月9月の日本の現状である。戦争に負けたという自覚がさらさらないのだ。「下々」は朕の意に尽くすものだという奢った「神の視線」であり、これが天皇主権の本質だろう。
だからこそ、敗戦後も、こうした政治を覆す民衆の動きは殆ど現れ出なかった。日本共産党の獄中非転向の人々はいたが、ごくわずかに過ぎなかった。その上、強固に分断されていた。哲学者三木清が獄中死していたのは1945年9月26日のことだった。政治犯釈放の要求すら上げられていなかったのだ。戦後民主化や日本国憲法は民衆自身が獲得したものではなく、GHQの民主化政策によって誘導されたのだ。ましてあの侵略戦争・「大東亜共栄圏構想」を「神州の不滅」から切り離し、総括していく作業は、ずんと遅れてしまった。日本国民衆も「終戦」と「昭和」(元号)をそのまま継承し、こうした観念を克服できぬまま「平成」、「令和」の時を刻んできてしまったのだ。
沖縄においての様相は、全然違っていた。住民は戦乱から収容所に収容されながら、生活再建と、生きるための闘いが始まっていく。没主体的では生きていけなかったのだ。
(3)77年目の今も
岸田首相は去る8月15日の追悼式典で式辞を述べている。「(前略)今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時も忘れません。(中略)/いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くして参ります」。
いつものことだが白々しい。あれだけ兵隊の命も含めて粗末に死地に追いやった歴史を忘れて、「尊い命」などと言えるものだ。お国の為に死んで「神」になる国家神道=靖国神社が、人々を死地に追い込んでいったのだ。まして海外での侵略先でのことなど一字も出てこない。「戦乱の渦に巻き込まれ犠牲になられた方々」というが、巻き込んでいったのは、時の権力だ。岸田首相はその地平とどれだけ違うものを有し、目指しているのか。
「ご遺骨」と言いながら、沖縄戦で埋もれたままの遺骨など知らぬと新基地建設のために使う日本国防衛省の動きを止めることもしていない。
続けて「戦後、我が国は、一貫して、平和国家として、その歩みを進めてまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました」と述べた。
彼らが言う「歴史の教訓」とは米国への追従のみであり、だから日米戦争であったことすら忘れてしまう。両国が踏みにじった場所を、国を、想起すべきだ。植民地支配という暴挙を刻みつけ、真摯に反省すべきだ。
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」というが、むなしすぎる。「積極的平和主義」を安倍晋三元首相が掲げ、米国の同盟軍として自衛隊を強化してきた。インド洋、イラク、ジプチ、様々なところに自衛隊を派遣してきた。軍事費を6兆円にする、空母を持ち、長距離弾道弾を持つ。新たな戦死者が出る準備しながら、過去と将来を切り離す没歴史的な視点。
(4)今私たちがめざすべき事ー自分への戒めとして
ここまで混迷していると、定かに見えてこない。だからこそ神頼みが増えていく。悪循環に陥る。
①私たちは生きていることを確認し、確認できること。生きていくために何が必要不可欠で、何はいらないのか。私たちが生きていく「命の営み」を構想し、大胆に提案していこう。
②ここに生きている人たちが声を上げない限り、「儲けることが第一義な人たち」が益々強く大きくなっていく。一人一人が自分の言葉を、表現力を育みたい。
③戦争に向かう流れを止めていく。各地で過去と未来をつなぐ歩みをつくりだしていく。沖縄はその命運がかかっているが、問題は沖縄のみではない。つながりながら情報提供や根拠を議論していきたい。
④暴力による「抑止力」では、地球が、自然が、人間も壊されていくばかりだ。何よりも外交と信頼を培う以外ないだろう。原発を多数抱えながら、安全などあり得ない。暴力による「抑止力」の脆さを学ぶべきだろう。過去からも現代の戦争からも。ロシア対ウクライナの現在進行形の戦争を直視しながら、学びながら止めることはできないものか。
⑤やはりジェンダー平等を育もう。男が変わらなくては如何ともしがたい。しかしこのためには時間がかかる。即刻始めても、世代を超えて、親から子(世代)へ、子から孫(世代)へと、独りよがりのあり方を変えていかなくてはならない。身近なところでの人権尊重なくして何も進まない。だからこそ。
⑥不戦とはどこにでも、どこからでも掴みうるはずだ。ただし、「俺が一番」という争いごとが好きなのも人間だ。物質と感情にまたがるふたつの欲を克服していくしかない。
⑦考え続けていく。不戦は考え続けなければ消えてなくなってしまう。しつこく具体的に考えたい。自分の生き方を据えるしかないのだから、始めればできるはずだ。