おはようございます。本日2023年2月3日(金)の名護市西海岸は曇ですが、晴れ間もある。
《Ⅰ フォトグラファーの眼》
突然ですが、フォトグラファーの眼について、ひとこと。その前に、人は、その人が生きている時(t)に、どこで(p)生きているかで、違います。見ている目は、それぞれであり、瞬間、瞬間の連続と非連続の中で、脳に集積されていきます。時と場は重なりながら、動いていく。もっとも記憶は不確かで、時や場が記憶から消えてしまうこともある。
などと不確かなことを承知の上で書くのです。フォトグラファーは目の前にあるものを捉えます。もっとも太陽だったり、もっと遠くの星だったり、とうてい目の前にないものも含めて、見えるものを捉える。その人の撮り方と、カメラという機材の質で見せ(え)方が違ってきます。違って当たり前。機材は機材ですが、撮り方は、誰から学んできたのか、自らから学んできたのか、自身の体験の積み重ね。主にどこで撮ってきたのかで、変わってくる。特に撮影未経験だった幼少期の体験や、青年期の体験は、作品の中に決定的に違いが露呈するでしょう。
《Ⅱ 個と民族ー植民地問題》
「美」(あるいは「醜」)というものの観念も違う。「個」と「民族」と言える違いも大きい。私が今沖縄で撮っていても、それはある意味、「日本人」「東京人」の視点から抜けていないでしょう。自分が生きてきた時間の蓄積からいって圧倒的に東京での時間が長いのですから。
私は、沖縄・琉球諸島をどう見ているのかをきちんと問わなければならない。1879年かっての日本国が琉球王朝を併合し、皇民化教育を徹底し、沖縄戦に至らしめ、米軍の占領下に置き、1972年日本「復帰」という再併合をもたらし今に至るありさまをどう考えるのか。私という個がどうであれ、こうした中にあることは否めない。国家(ナショナリズム)の力は巨大だ。
反戦・反権力と言ったところで、免れない。自分の立ち位置を簡単に変えることはできない。でんぐり返ししても、逆さに見えても、ただのさかさだけ。植民地問題を見るのは簡単じゃない。
ここを如何に突破するのか、今の私は名案をもっていない。正しい認識をしたとしても、だからといって「視点」が変わるわけじゃない。視点を司るのは、目でなく、脳だから。
それで先日那覇基地で私が見た(撮った)ジプチ派遣の海上自衛隊員の眼はどうなのだろうかが、気がかりになってきた。「海賊対処」であれ、「中東地域における情報活動」であれ、上から監視する眼だ。それをこの10年繰り返してきた。彼らはどうみているのか? ジプチ・ソマリア・イエメン共和国の間にあるアデン湾、オマーンとイランの間にあるオマーン湾の監視活動だ。上から見た監視の目。この国はこうした監視の目を経験した軍人を拡大再生産しているのだ。
もちろん、米国は「日本国」と比べれば、桁違いの侵略戦争の監視の目を蓄積させてきただろう。そうした国々が「先進国」だ「大国」だと慇懃無礼にふるまわっている現代。
《Ⅲ 「南西諸島」問題》
これまで私は、「南西諸島」とは言わないできた。この見方は、明確な日本国の東京中心主義の考え方だからだ。それは東から見たら「南西」方向にあるのだが。地名はそんな単純なものではない。ライターの知念ウシさんが「日本再併合50年目の琉球で」の中で、こう指摘している。「『南西諸島』これは軍事用語である。名付けたのは、1887年日本帝国海軍だ。誰にとっての『南西』なのか」と。ご指摘の通り、海軍測量部が名付けた便宜的且つ戦略的な地名だ。
それから136年経った今でも、未だに「南西諸島」だという人々が多数いる。保守・革新を問わずに。植民地支配の経験を問わずに来たからだ。確かに地名をどう称するのかは、難物だ。時代の中で支配するものが、勝手に名付けてきたからだ。支配の暴力・狡知によって「正当化」されてきたのだ。
ひとまず私は琉球弧・琉球諸島と呼ぶが、個々の島から考えれば良いのだ。島・シマ中心主義で考えたい。私の眼から簡単に「支配者の目」をそぎ落とせないだろうが、こうした個々の命の営みが集積していく彼方に新たな眼が開け、連帯を作り出すこともできるだろう。そうだと私は信じている。イージーにはいかない。
《Ⅳ ひとまずのまとめ》
フォトグラファーの眼も、こうした様々な歴史的政治的な洞察なしに深化できないだろう。これは自然界を撮る写真でも無縁ではない。外来種が多いし、これも人間界の支配・被支配を受けているからだ。まして園芸種となれば何をか況んや。
物事は純粋ではない。不純ばかりだ。不純だからこそ、やたらと純粋さをもとめ、「価値」が上がるのかも知れない。だとしても私はフォトグラファーとして何ごとかを見極めていく努力を重ねていきたい。歳をとったからといって、突っ張ることを忘れてはなるまい。