元単身赴任ミドルのブログ foggy

40代の単身赴任中間管理職の頃に始め、60歳を過ぎた今は思いつくままに書いています。大分県日田市出身、福岡市在住

そんな時代のクリスマス

2010年12月24日 | 昔懐かし
今日は、クリスマスイブ。クリスチャンでない私も、なぜかそわそわします。
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◆子供の頃

小学校に上がった時のクリスマスケーキは、バタークリームでした。
当時、ケーキを食べるのは誕生日とクリスマスくらいでしたので、今では「まずい~」バタークリームケーキも、とっても美味しくいただきました。

当時は、みんな貧乏でした。
私の家庭も貧乏でしたが、それに輪をかけて貧乏な友達もいました。
小4なのに「一生履けるから」と26cmの運動靴で運動会に出た子もいました。
でもそれが恥ずかしくない時代でした。
それどころか人びとは、希望にあふれていたように思います。

そんな子供の頃のクリスマス。

大好きなメルマガに、まさにこんな時代のクリスマスの話がアップされていました。
読みながら涙が出そうになりました・・・。



◆クリスマス特別号 『あの日のクリスマスとK村君の思い出』 志賀内泰弘

※抜粋です

クリスマスになると思い出す友達がいます。
小学校の3、4年生とクラスが同じだった、K村君のことです。

ときは、昭和40年代の前半のことです。
そう、あの頃は、ほとんどの家庭が貧乏でした。

そんな時代にK村君の家庭は、 一層輪をかけて貧乏でした。
こんなことがありました。
学校の秋の遠足での出来事です。
当時流行っていたのはお弁当の交換です。

サンドイッチなんてシャレたものを持ってくる女の子も
クラスに一人か二人はいましたが、ほとんどがオニギリでした。
二個か三個持ってきたオニギリのうちの一つを交換するのです。

私は、たまたまK村君のオニギリをもらいました。

さて、それを一口がぶりとして、
思わず吐き出しそうになってしまいました。
なんてまずいオニギリだったことか。

とにかくお米がパサパサなのです。
そして、一粒一粒が硬くて口の中でジャリジャリいっているのでした。
私の顔つきを見て、K村君は言いました。

「お母さんは、暗いうちに家を出て行くから、夕べのうちに作ってくれたんだ。
 それで硬くなっちゃったんだ」

そのころはラップもありません。
作り置きのオニギリは時間が立ち過ぎると乾燥してしまうのです。
私は、「まずい」とも口に出せず、とにかく全部を飲み込むようにして食べました。
子供ながらに友達の家庭の事情を察して、心が痛くなったものでした。


その年の暮れのことです。
K村君が言いました。
「僕んちでケーキを買ってくれるんだ。クリスマスに遊びに来ないか」
と。少しずつ「豊かさ」が浸透しつつある時代でもありました。
家庭で食べるための、クリスマスケーキもよく売れていました。

「行く、行く!」
と大騒ぎしました。

初めてK村君の家を訪ねました。
その日もお母さんは仕事に出かけていて留守でした。
彼の家は、たった一間の板張りの部屋でした。
今から思うと、親戚か誰かの家の、 離れか何かを間借りしていたのでしょう。
ひょっとすると、納屋か物置だったかもしれません。

冷たい床の上に5、6人で座りました。
K村君は満面の笑顔でケーキの箱を運んできました。
みんなが、
「イエーイ」
と声を上げます。
彼が、箱のふたを開けました。
すると、・・・本当に、 本当に小さなケーキが座っていました。

そして、どうみても美味しそうには思えませんでした。
箱には製パン会社のシールが貼ってありました。
K村君の表情も少し曇りがちになりました。

ロウソクを立てて、火をつけてみんなで吹き消します。
ロウソクを立てたために小さな小さなケーキの表面は凸凹になってしまいました。
それでも、
「いいか、切るぞ」
と包丁を振りかざします。

手で持ってがぶりと食らいつきます。
口の中に何やらベタッとした甘さが広がりました。
安価なバタークリームでした。
それが、固まって口の中でもなかなか溶けません。
どうお世辞を言おうにも、美味しいとは思えない代物でした。

全員が口に含んで、とうとう黙り込んでしまいました。
それでも誰一人、「まずい」とは口にしませんでした。
それはK村君の気持ちをわかっていたからです。

クリスマスの日に仲間の前でちょっとだけでも
いいからいい格好をしてみたい。

そのために、きっとお母さんに無理を言ってケーキを買ってもらった。
お母さんは息子のためにも相当に思い切って買ったのでしょう。

先生からはいつも冷たくされているけれど 一緒に遊んでくれる仲間がいる。
その仲間にほんのちょっとだけでもいいから、お礼がしたい。

それは、いつも一緒にいたから何も言わなくてもわかるのです。
誰かが言いました。
「公園行こう」
すると、また、誰かが言いました。
「野球やろう」
「いこう、いこう」
K村君の表情も急に明るくなりました。

大切なものが何なのか、みんな知っていました。
物は溢れていませんでしたが、 心は豊かでした。

その公園は少し整備されてキレイになりましたが、
今でも子供たちの遊び場になっています。
クリスマスが来るたび、K村君のことを思い出します。

彼はこの聖夜の星の下、どこで何をしているのかな。
間違いないのは、私と同じ、 いいオジサンになっていることです。
メリー・クリスマス♪

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2 コメント

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メリークリスマス (タッキー)
2010-12-24 21:11:52
思わず涙が・・・
親の心子知らずなんていいますが、自分が親になって初めて判る親の思い。。。

でも、昔は確かにバタークリームでしたね・・・

みんなで公園に行こう!野球をやろう・・・は
信州伊那谷では、田んぼに行こう!スケートをしよう・・・かも^^;

イブの日、家族と暖かい部屋に居られる私は幸せモノです。

温かなお話しをありがとうございました

返信する
Unknown (溶射屋)
2010-12-25 06:08:26
元単身赴任のYHさん

おはようございます。

そう、我々の時代は貧乏が当たり前の時代だったですね。

料理にお肉が出ると喜んだものです。

今でも時々、あの小学校の頃、いつも同じ服を着ている同級生のことを不思議と思い出します。

あの頃は真冬でも半袖半ズボンでしたがこれも貧乏だった頃のなごりかなぁ・・

今と違って友達と公園や学校で良く遊びました(^^)

「いい話の広場」は素敵なHPですね(^^)

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