スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

白山道を行く②

2012-08-22 | 横浜


「手子神社」から宮川に沿って行くと、住宅街の中に車道と並行して
横浜市が水路を整備して造った小川が続いています。

釜利谷小川アメニティ

歩くには、なかなか 楽しい水辺です

トンボ チョウ ハチ アメンボetc.・・・・
        




小川の途中に架かる小さな「福松橋」を渡って、左へ入ると

福松山 自性(じしょう)院 慈眼寺

真言宗のお寺です。

     創建:永正年間(
1504~20)
   本尊: 聖観世音菩薩
寺伝によると、伊丹三河守が討死した2子の供養のために創建したとか。

当寺の黒厨子に、高さ約30cmの焼け爛れた観音像が納められているとのこと。
この像は元御本尊の観音像で、厨子の裏書によると、宝暦中頃(1751~63)に
盗人が御像を盗み出し、鍛冶屋で溶かして一儲けしようとしたものの どうしても
溶かすことが出来ず、仏罰を恐れて遂に投げ捨ててしまったものを年月を経て
村人が拾い、無事お寺に戻されたので厨子を作って納めたのだということです。



本堂右手の山際に 「宇賀山王社」

1634(寛永11)年 幕府御用の菓子商 大久保主水忠行夫人の
蓮台院月宝尼という方が霊夢を感じて建立したものといわれ、
自性院住職を別当として祀らせたということです。



再びアメニティの流れに沿って、
さらに歩いた右手奥に

竹巌山 禅林寺




曹洞宗のお寺。

創建: 1493(明応2)年
     開山:聚芸禅師(下総・東昌寺)
    開基: 足利持氏(鎌倉公方)
 本尊: 薬師瑠璃光如来
その後、伊丹三河守永親が再興。 伊丹氏が江戸城内紅葉山東照宮と
関わりがあった縁で下賜された東照大権現御神影が寺宝となっていて、
現在も、毎年4月17日には「家康忌」の法要が営まれているそうです。


此処にも、仏像にまつわる逸話が伝わっています;
その昔、釜利谷・坂本村の山中のお堂に文殊菩薩が祀られていましたが
大雨による山崩れで、お堂は流されてしまいました。 村人たちが土を
掘り起こして菩薩像を探していると、土中から「あら、痛や!」の声・・
恐る恐る土砂を取り除くと、声の主は文殊さまでした。 村人たちは
大変喜んで禅林寺境内の竹岩山に祀り、「荒痛(あらいた)文殊」と呼んで
篤く信仰しました。 御像は行基作といわれ、後に浅草寺に移され供養が
続けられていましたが、東京大空襲で焼失してしまったということです。 




南下するにはもっと近い道があるらしいですが、初めての
不案内な地なので、遠回りになっても確実な道を行きましょう。

来た道を、先程の
アメニティの起点「坂本」交差点まで戻って
「白山道循環」のバスが走っている道路を南の方へ。

「白山道」バス停前にある「釜利谷南公園」


公園に沿ってバス道から右へ逸れ、「釜利谷ケアプラザ」の前を過ぎると
急に車1台分ほどの道幅に。 いかにも古道という狭い道になりました。
ほどなく右側に長い土塀。

白山 東光禅寺




臨済宗のお寺です。

        創建:建仁年間(1201~04)
         開山:大興禅師(建長寺6世)
    開基: 畠山重忠
          本尊:薬師如来(重忠念持仏)
畠山重忠が鎌倉薬師ヶ谷に創建した「医王山東光寺」が始まりで、
応仁年間(1467~69)に釜利谷郷に移建したといわれます。
伝えられるところでは、建武中興の立役者大塔宮護良親王は
東光寺書院で写経中に足利直義に害されたともいわれます。

重忠愛用の螺鈿造りの馬具(鞍・鎧・轡)が寺宝として伝わっているそうです。

山門前左手に、小さな五輪塔

web上では「重忠公供養塔」と紹介されていますが、当寺のパンフレットには
全く何も記載がないので・・・真偽のほどはわかりません。




更に先へ進んで行くと、右側の民家の間に、細い石段が・・
        


崖を穿った‘やぐら’の中に、古社が祀られてありました。


白山神社

祭神: 白山比神(しらやまひめかみ)
     別名「菊理媛神(くくりひめかみ)」

この「白山社」が、「白山道」の名前の由来といわれているとのことで
ぜひ訪ねてみたいと思って、今回 がんばって歩いてみたワケで・・
我ながら、炎天下を誠にご苦労サンなことです

(続)



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