今回は、小田急線「伊勢原」駅からスタートします。
今日も、写真を撮りながら 元気に歩いて行きましょう!
駅から200mほど北の「伊勢原小学校入口」信号近く
右側の少し奥まった所にお堂があります。
「火伏不動堂」
お堂には、高さ52cmの黒っぽい不動明王坐像が祀られています。
作者・年代は不明ですが、嘗てこの町にあった「大覚院」という
修験道のお寺の守り本尊を遷座したものと伝わっています。
1816(文化13)年 伊勢原全町に広がった大火事が、この不動堂で
止まったことから、火伏不動と呼ばれて信仰されているそうです。
信号まで戻り、街道を跨いで小路へ入って行くと
「千手山 慈眼院 大宝寺」
浄土宗
創建:1645(正保2)年
開山: 往誉達道上人
本尊: 阿弥陀如来
伊勢原は もと「千手原」と呼ばれ、その千手窪の土中から
掘り出された千手観音像(45cm)が安置されています。
嘗て千手原にあり廃寺となった古寺の御像といわれます。
女中観音像
1723(享保8)年 造立
伊勢原の宿場で働く女中衆が講を作って、亡くなった
仲間達の供養に建立したものと伝えられています。
「田廣山 景勝院 大福寺」
浄土宗
創建:1620(元和6)年
開山: 性蓮社榮誉空華
門内には入れませんが、外から 見事な根張りの木が目を引きます。
推定樹齢350年の大楠だそうです。
目通り7m 根回り12m 高さ30m 県指定天然記念物
伊勢原開拓当時に植えられたとされ、「かながわ名木100選」にも指定。
R61「田村道」に戻って歩いて行くと、「大神宮前」交差点の右側に
「伊勢原大神宮」
正面が「内宮」、その右に「外宮」。
祭神:天照大神(内宮)
豊受姫大神(外宮)
創建:元和年間(1615~1624)
説明板によると、1620(元和5)年 伊勢国の山田曽右衛門という人が
大山参詣の途中 千手原で水音を聞いて、開墾可能な土地であると悟り
許可を得て開墾に着手。 次第に人が集まり、町が形成されたといいます。
鎮守を故郷の伊勢神宮から勧請奉祀。 地名「伊勢原」の由来。
ここは豪族の墳墓(前方後円墳)で、富士山噴火の降砂が集められたとも。
神社の先でR246を横切り、300mほど行くと「片町」交差点。
右側に「片町不動尊」
東名高速道路の少し手前 「〆引(しめびき)」バス停前に
「五霊神社」
祭神:天穂日命 ( あめのほひのみこと )・少名彦命 ( すくなひこなのみこと )
大己貴命 ( おおなむちのみこと )・三穂津姫命 ( みほつひめのみこと )
事代主命 ( ことしろぬしのみこと )・太田三徳命 ( =太田道灌 )
もとは相模国府の五霊社(怨霊を鎮め国家安泰を祈る国府の社)。
1494(明応元)年 北条早雲が知友太田道灌の死を悼み、道灌の
甲冑を納め、太田三徳命として五霊社に合祀したといいます。
東名道路のガードをくぐると、すぐ先で左からR611が合流します。
「二の鳥居」
大山が とてもよく見えています☆
1851(嘉永4)年 五霊神社前に建立されましたが関東大震災で倒壊。
再建された鳥居もクレーン車接触事故で破損。 1928(昭和3)年に
再々建。 1991(平成3)年 道路拡幅のため現在地に移動されました。
来た道の少し手前 右側に
「山口家(雨岳文庫)」
江戸中期から上糟屋で名主を務め、大山入山料徴収の任を担ってきた旧家。
1864(元治元)年より旗本 間宮氏の地代官所となり、1869(明治2)年
石倉にあった住居を現在地に曳家してきたものだそうです。
1834(天保5)年築の主屋と明治に建てられた離れは、国登録有形文化財。
宮家の接待・宿泊用の離れ
敷地内の米蔵を改装した「雨岳文庫」には、さまざまな歴史資料が
保管・展示されています。 「雨岳」は8代目当主 左七郎氏の雅号で
大山のこと。 左七郎氏は自由民権運動に力を注ぎ、結社「湘南社」を
結成した神奈川県の民権運動の指導者として著名な方だそうです。
文庫前に、旧二の鳥居の扁額。
石尊大権現は、降雨・豊作・豊漁・商売繁盛の神さまだそうです。
屋敷裏にある 花盛りの広い梅林を抜けて・・
民家の間を清らかに流れる「千石堰用水路」
500年ほど前に上杉舘が立原にあった頃、有事に備えて
空堀へ水を満たすために造られた用水路といわれます。
その後は 下糟屋の渋田川に流れ込む灌漑用水に使われ
水路沿いの道は、大山参詣の旅人達で賑わったようです。
道の傍に 庚申塔と道標
道標正面に「上り 大山道」 右側に「下り 戸田道厚木道」
1799(寛政11)年 造立
R611「石倉橋」交差点にやって来ました。
此処は、各地からの大山道が集まる場所だそうですが、現在
大規模な県道整備工事と、それに伴う埋蔵文化財の発掘調査が
続けられていて、あちこち工事中・・・従来あった道標なども移動し
別の場所に仮設置されているような状況です。
少し先のお堂に
「腰掛不動明王像」
不動明王の半跏像で、「腰掛不動」と呼ばれています。
像高 約50cm 玉眼寄木造 黒漆塗 江戸時代の作とか。
お堂近くに、庚申塔や石像などが並んでいます。
厳しいお顔のこの像も不動明王?
鈴川のほとりにある道標も、仮設されているようです。
「右 い世原 田むら 江乃島道」 「左 戸田 あつぎ 青山道」
「此方 ひらつかみち」 「此方 はたのみち」
大山に参詣を済ませた人達のための帰り道の道しるべのようです。
「子易(こやす)明神 比々多神社」
祭神:木花咲耶姫命
天平年間(729~748)に当国の守護 染谷太郎時忠が
勧請。 後醍醐天皇の勅願寺となったと伝わっています。
現在の社殿は、1717(享保2)年に再建されたもの。
古来安産の神様として信仰され、神社向拝の柱を削って
持ち帰り飲むと安産できるといわれてきたそうで、殊に
左側の柱は、男児出生を願う人の削り跡が甚だしく・・・
現在の柱は、3代目だそうです。
拝殿内に 奉納された「美人図絵馬」
厚木出身の浮世絵師 歌川国経(1777-1808)作画。
117.5cm×83.0cm 県指定重要文化財
神社から300mほど先に
「一道山 易往(いおう)寺」
浄土宗
879(元慶3)年の大地震で大山寺が破壊され、別当 弁真上人が
この地に「易往寺地蔵院」を建立し、ここに移ったといいます。
(大山寺は、安然上人により890年に再建されたとか。)
寺伝によると、日本廻国の志を立てる前の木喰行道が当寺に
居住していたそうで、六字名号塔が建てられてあります。
「這子坂」
急な坂道なので こう呼ばれたのでしょうか。
嘗ては本道でしたが、現在は脇道になっています。
旧街道の雰囲気が感じられる、なかなかいい感じの道☆
「三の鳥居」
めでたく今回のゴールに到着で~す
この鳥居から上が、大山の門前町になります。
『新編相模国風土記稿』に「坂本村小名新町に銅の鳥居あり
これ当山の入口なり」と。 江戸時代にはたいそう賑わった所で
鳥居は、江戸火消し「せ組」の鳥居ともいわれています。
現在の鳥居は、1986(昭和61)年の建造。
次回は、いよいよ阿夫利神社参拝です!
16,649歩
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