おはようございます。
いよいよ終わりまで1か月を切りました。
2007年6月から始めたブログもあと残り少なくなってきました。
定年になりパソコンを習いにゆき13年続いてきたのは皆様の御支援があったからです。
あの頃は若かったですが、途中家内の病気や私自身の体調が悪くなり皆様に
ご迷惑をかけながら続けられたのは皆様の応援の結果だと思います。
2000系
(1)2000系 2000系は昭和34年から製造され昭和41年まで100両製造されました。
沿線のお客様が増えてきて新車を入れてきました。
高加速・高減速(電力回生制動)で制動時は難しかったです。
私が見習中朝のラッシュ時に制動したとき運転台うしろのガラスが割れて
師匠の頭からガラスのかけらをかぶりびっくりしました。
2000形(Mc) 2001~2068の電動車68両
2100形(M) 2101~2132まで中間電動車32両 合計100両
そのころ天満橋ー枚方市間区間急行は27分30秒で走っていました。
この時が一番楽しかったです。
定時運転できた時のうれしさ今思いだしてもニヤッとしてしまいます。
その時の急行天満橋ー枚方市間停車駅9駅も少ないのに23分で運転して
いました。
(2)2001 寝屋川6号踏切
(3)2004 木津川―宇治川橋梁間
(4)2004 八幡5号踏切
(5)2004 五条―四条間
(6)2006 八幡5号踏切
(7)2008 五条―四条間
(8)2015 淀―中書島間 横大路付近
(9)2016 寝屋川6号踏切
(10)2016 淀―中書島間 横大路付近
(11)2018 淀―中書島間 千両松踏切
(12)2025 古川橋駅
(13)2028 森小路駅
(14)2032 五条―四条間
(15)2033 野江駅
(16)2039 寝屋川車庫
(17)2033 寝屋川6号踏切
(18)2040 寝屋川6号踏切
(19)2042
(20)2043 寝屋川6号踏切
(21)2048 森小路―千林間
(22)2048 五条―四条間
(23)2051 淀―中書島間 千両松踏切
(24)2052 五条―四条間
(25)2055 八幡5号踏切
(26)2057 六地蔵―木幡間
(27)2058 淀―中書島間 横大路付近
2600系
(28)2601 2000系から2600系になった時の試運転
それまでなかったスカートがつけられてスタイルが違うように見えました。
2000系100両と2200形から余剰となった3両を2150形と編入合計103両が2600系となった。
また新造車2630形7連4本も2600系に編入された。
(29)2600系 古川橋駅
(30)2603.5002 古川橋駅
(31)2615 墨染駅
(32)2613 郡津―交野間
(33)2615 古川橋駅
(34)2619 藤森駅―深草間
(35)2617 郡津―交野間
(36)2624 墨染駅
(37)2628 古川橋駅
(38)2631 関目―森小路間
(39)2633 森小路駅
(40)2802 古川橋駅―大和田間
(41)2802 森小路駅
(42)2802 森小路駅
(43)2804 森小路駅
(44)2806 森小路駅
(45)2806 森小路駅
(46)2808 森小路駅
(47)2808 古川橋駅
(49)2808 森小路
(50)2813.2817 交野市駅
(51)2813 交野市
(52)2813 交野市
(53)2817 交野市
(54)2819 藤森―深草間
(55)2822 森小路
(56)2825 森小路
(57)2827 森小路
(58)2829 森小路
(59)2831 森小路
(60)2831 森小路
(61)2833 森小路
(62)2608 古川橋駅
いつも見ていただきありがとうございました。
京阪を撮影するときは乗務員がみんな顔見知りばかりで翌日出勤すると
昨日はどこそこで撮っていたなぁ!と言われていました。
でもあの頃撮っていたからこうして見てもらえて懐かしい思い出が、この
年になっても楽しいです。
私が今京阪線の変わりように驚いています。
まず小金川踏切・淀駅付近など、とこれから始まる、寝屋川市ー枚方市間
高架工事などが始まっているようですが、私の生きているうちには無理
だと思いますが、希望がありますねぇ!
後しばらくですが、皆様のコメントお願いします。
ありがとうございました。
次回は2200・2400系を予定しています。これも70枚を超えてしまいました。
本当にお好きな形式だったのでは、、
推察しています。
ラッシュ時に運転席後ろのガラスが
割れる、、凄いことが起ったのですね。
実は、中央線快速101系では
ドアのガラスが良く割れて、どの駅でも
代わりにブリキ製の蓋を用意してあって
ササっと取り付け作業をしておりました。
でも、乗客の方もケガをしたというのを
聞いたことがありません。まあ、小学校の
頃なのでちゃんと情報をえていなかったのかも
しれません。
コメントありがとうございます。
昭和35年前後は各社高性能車が出た頃です。
京阪はスーパーカー阪急はオートカー阪神はジェトカー南海はズームカー近鉄はラビットカーだったか忘れましたが、各社高加速・高減速が自慢だったと思います。
加速度が3.5減速度も3.6ぐらいだったと思いますが、加速時も減速時も手すりやつり革を持ってないと倒れるくらいでした。(それ以前の車両がゆっくりだったからです。)
私が運転中にガラスが割れたのは見習生は基本通りの取り扱いをしたためで高減速のためにお客様が、前に倒れ掛かりガラスが割れたのです。
それから少ししてから減速度を緩くしたようです。
それをいつまでも忘れずに覚えているのが、不思議です。(昭和40年のことです。)
本当にコメントありがとうございます。
もう少しですが、お付き合いお願いします。
1000型の部品を抱えて、鉄パパさんが運転する電車の後ろに立っていた時が、鉄パパさんとの出会いですね。
懐かしい、数々の写真、ありがとうございます。
今、2630系は貫通幌もなくなり、スマートな顔になっていますが、2600系は、京阪で唯一、堂々と貫通幌がついている男前のりりしい顔で、いつまでも走ってほしい車両です。
ご無沙汰いたしております。
お元気に活躍のことと思います。あの頃は良かったですねぇ
今は旧1000系の鏡どうなっていますか?
そのほかの部品なども一度見せてほしいですねぇ!!
それに奥様お元気ですか?長いことあっていません。確か土居の駅でお会いしたと思います。
私にとっては京阪電車は遠くになってしまい、雑誌やホームページやブログなどで見せていただいていますが、昔が懐かしいです。
また時間が出来ましたらコメントください。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
いよいよ先が見えてきました。
名古屋も梅雨に入り毎日雨が降ったりやんだりで梅雨特有の蒸し暑さです。
2000系スーパーカーは全車電動機付きでパンタも1丁づつついていましたした
そのために6連ならば6丁パンタで屋根もにぎやかでした。
マスコンはノッチが10段あり段数で速度制御が出来ました。
3ノッチで40K/m~10ノッチで100K/mで戻しノッチも出来ました。
80K/mではしているとき制限60K/mに差し掛かる前に6ノッチにすると60K/mに減速しました。
2000系には電力回生ブレーキがついているためにラッシュ時にはブレーキをすると回生ブレーキで電気を発生させて、他の列車がその電気を使い力行していました。(効率が良い)
でも朝早くとか夜遅くになると回生ブレーキを使っても他の車両が使用していませんのでオーバーロードして空制だけになります。
ブレーキハンドルは今のブレーキと同じものでハンドル角度で制動がかかります。(この時から以後の車両はみんなこのほうしきとなりました。)
詳細は難しいのでこの辺にしておきます。
関西の鉄道は電車を大事に使ってると思います。
でも関東の電車を見ていると乗車人数が違います。
見ているだけで怖いです。やはり人口が違いますねぇ!
いろいろ脱線していますが、お許しください。
いまヤフーニュースを見ると京成電鉄で脱線と言う一報が入っていました。
大きな事故にならなかったようで安心しましたが、安全運転に徹してください。
ありがとうございました。
2000系、2600系の懐かしい写真ありがとうございます。
卵型車体と運転席の上、車掌席の上に分けて付けられたヘッドライトなどその後数代に渡って受け継がれた京阪スタイルの嚆矢となった2000系、その後継2600系も風前の灯火のようで寂しく感じます。
大津線沿線に住んでいた身としては2000系は3000系と並んで京阪本線を象徴する系列で憧れの存在でした。
2600系は最後まで旧塗装で走って欲しかったと思います。今のカラーリングは13000系など新世代の系列には似合っていますが、昭和世代は違和感を覚えます。まあ、企業イメージの統一も大事なので仕方がないですね。
さて鉄パパさまに質問です。ヘッドライトですが、2000系タイプ、600系、1700系など貫通路の上に付けられたタイプとでは夜間走行時、前方の見やすさに違いはありましたでしょうか。
よろしければ教えていただきです。
コメントありがとうございます。
塗色についてはいろいろご意見があると思いますが、企業のイメージなどで変更することが多いですねぇ!
今私が住んでいる愛知県の名鉄も塗色を変更しています。
ヘッドライトの件ですが、昔600V時代のダイレクトに引いていた時代はノッチを力行にすれば薄暗くなり見えませんでした。
その後MG(電動発電機)を取り付け100V化してからはあまり明暗気になりませんでした。
でも丹波橋から三条までの区間は冬場は横に疎水が流れていたので濃霧の発生が多く良く遅れました。(無人踏切や警報器だけの踏切もありましたので注意運転していました。
更新600系も更新後はMGが取り付けられたのであまり関係ありませんでした。
でもこれは私の年のためか忘れてしまったことがあります。600系のヘッドライト2灯ありましたが、1灯しか付いていなかったように思います
今みたいに一日中ヘッドライトがつけていませんでしたので記憶から消えてしまいました。
1700系は新車の時からMGを取り付けていたので明暗はなかったと思います。
現在は一日中点灯していますので撮影などの時いやですねぇ!(これは好き好きかな?)
あと残り少ないですが、コメントがあれば返信しますので、私の生きている間はブログを仮設しておきますので遊びに来てください。
でも物忘れが増えていますのでその点よろしく!
ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
昭和40年代は区間急行の29分運転のために、運転士・車掌とも協力して定時運転に努めました。
その波が普通天満橋ー三条(2~4連)にかぶり遅れて天満橋に到着すると着発で天満橋到着3番線に入れず直接発車4番線へ入駅した。
普通走行しても時間が間に合わない時は普通三条行が京橋―守口間A線走り守口までに時間を合わせて守口からは普通扱いでした。
その時の角板は四角各板の三条に赤い枠がついていました。
要するに遅れた時間を合わすために区間急行になって走りました。
放送はどうしていたか忘れてしまっています。
懐かしい時代でした。
京葉帝都さんなかなか良く覚えておられていらっしゃる。
私でも言われるまで忘れていました。
ありがとうございました。
あと2回頑張ります。