今朝の信州塩尻は気温が0度です、空は西の空に雲が
掛かっていているだけで北アルプスは雲の中、それ以
外の空模様は快晴です。
今日は暦を見るまでもなく2.26事件の日ですね~89年
前の事件で、私のような戦後生まれの者には、はるか
遠い時代の歴史事件と思われますが、この事件が軍部
の政治介入や第二次大戦への、引き金となったような
気がしています。
2.26事件の日 1936年(昭和11年)、2.26事件が発生。
陸軍の皇道派の青年将校が、対立していた統制派の
打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて
首相官邸等を襲撃しました。内大臣・大蔵大臣等が
殺害され、永田町一帯が占拠されました。
当初、陸軍の首脳部は青年将校たちの行動を容認する
態度をとっていましたが、海軍が鎮圧を要求し、天皇
も同様の立場をとったので、29日に鎮圧を開始した。
飛行機から「下士官兵ニ告グ」のビラを撒いて帰順を
勧め「今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗
をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ」との投降を呼
びかけるラジオ放送を行いました。形勢が不利になっ
たと判断した将校たちは兵を原隊に帰し、2名が自決、
残りの者が自首して、その日のうちに鎮定されました。
【主な経過】
1. 陸軍の青年将校らが、首相官邸や警視庁などを襲 撃し、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育
総監渡辺錠太郎らを殺害した。
2. 陸軍省、首相官邸、国会議事堂などを占拠し、陸
軍首脳陣に国家改造を要請した。
3. 27日に当時の東京市に戒厳令が施行され、29日に
青年将校らは反乱軍として鎮圧された。
4. 反乱将校及び彼らに思想的影響を与えた北一輝・
西田税は死刑となり、皇道派などの将官多数が予備
役に編入された。
当時の陸軍の青年将校らは、軍主導の国家改造を求め
政財界の指導者らを腐敗しているとして一掃して、
逼塞状況を打破することが狙いのようでした。
その後 満洲事変 第二次大戦へ軍主導の日本と

















なっていった。そしてもう一つ、今日は、咸臨丸の日との事です1860
日本の一つの歴史として2.26事件について改めてみた
年、幕府が派遣した使節団が、咸臨丸による太平洋横
断航海を終え咸臨丸がサンフランシスコに到着した日。
旧暦1月13日品川を出港。浦賀では、難破したアメリ
カ海軍測量船「フェニモア・クーパー」の船長ジョン
・ブルック大尉指揮下11名が乗艦し、旧暦1月19日の
浦賀出港直後から荒天となり、各所を破損。日本人は
役に立たなくなり、艦は実質的にはアメリカ人による
運用となった。また当直体制にも不備があり、金澤は
「少なくとも往路では、日本人単独での航海は困難だ
ったと言わざるを得ない」としている。
復路はハワイ経由での航海となった。往路で同乗した
アメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は日本人のみ
での運用となっており、往路の反省から、アメリカ
滞在中に得た知見も踏まえて、当直などの運用体制が
整備されたものの、45日間・6,146海里 (11,382 km)の
航海はおおむね好天に恵まれ、その練度向上を確かめ
る機会はなかった。この航海では、出入港時以外は
基本的に機関は使用されなかった。
この派米任務は往復83日間合計10,775海里 (19,955 km)
の大航海を成功させたことで、幕府海軍に大きな自信
を与えた。しかし一方で、往路でのアメリカ人乗員に
よる助力は過小評価され、航海・運用の技量不足とい
う重大な問題点が見過ごされたことは、蝦夷共和国
時代に艦隊主力を海難で喪失する遠因となるなど、
大きな禍根を残すこととなった。
いろんな反省や歴史の上に今のこの日本があることを
謙虚に学ぶことが大切ですね~
写真は現在の国会議事堂の内部

















コメント欄はお休みさせて頂いてます