ゆうちゃんの独り言

モーツァルトが大好きで毎日欠かさず聴いています。人生の生き方は仏教で毎日般若心経を唱え、時間を見つけて寺巡です。 合掌

■ 七年に一度の盛儀 善光寺御開帳「牛に引かれて善光寺まいり」!!

2009-06-07 23:46:09 | Weblog
 善光寺と言うと昔ばなしの中で「牛に引かれて善光寺まいり」がすぐに頭に浮かびますが、
詳しい話の内容が分からなかったので調べてみました。話の舞台は、栗で有名な信濃国小諸
であり、ここに不信心な老婆が住んでいたそうです。

 ある日、川で白布を洗濯し軒先で干していたところ、どこからか一頭の牛が現れて角で布
を引っかけ走り出したそうです。老婆はその牛を追いかけ、なんと善光寺まで追いかけて来
て突然に消えてしまったといいます。

 日が暮れたので、老婆はお堂に入ってみると光明に照らされて、牛のよだれが「牛とのみ
思いすごすな仏の道に 汝を導く己の心を」と読めたことで、不信心な老婆の心に仏の心が
芽生え、すっかり信心深い人間に生まれ変わってしまったとのお話です。

 何か今の自分にも当てはまるような気がしてなりません。人間は本来素直であるべきであ
り、さらに正しい心を持って道を生きる必要があります。しかし、悲しいかな凡夫にとって
は、多くの煩悩に支配され、なかなか正しい道を歩めないのが現状です。

 さて、今から15年ほど前ですが一度だけ善光寺を訪れたことがあります。本堂床下の真
っ暗な回廊を手探りで巡り、ご本尊である一光三尊の阿弥陀如来にかかる極楽の錠前に触れ
て、ご本尊と結縁を果たすことで有名な戒壇めぐりをしました。

 しかし、そのころは仏教には全く興味がなく、ましてや仏像を拝みたいと言うような心も
持ち合わせていなかったので、単なる観光感覚で立ち寄っただけでした。今考えると不謹慎
極まりない振る舞いであったと反省しています。

 その後仏教に興味を持ち始めた頃から、再度善光寺を訪れて秘仏である御本尊一光三尊阿
弥陀如来の御身代わりとして鎌倉時代に作られた御本尊の前立本尊を、一度拝顔したいとの
思いが強くなりました。

 普段は大勧進の宝庫に安置されている前立本尊ですが、七年に一度の御開帳の時だけ、特
別に拝むことが叶うとのことで、日程的にきつい工程でしたが5月の下旬に日帰りで参拝し
てきました。

 前立本尊は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が
並ぶ、善光寺独特の一光三尊阿弥陀如来となっています。このようにひとつの光背の中に三
尊が並んでいる仏像は非常に稀ではないかと思います。その姿は金色に輝き遠くから拝顔し
ても眩しいばかりの光を放っていました。

 この御本尊の前立本尊の右手に結ばれた金糸は、五色の糸から白い綱として本堂前の回向
柱に結ばれています。この回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じことで、ご本
尊と結縁を果たすことになります。私が訪れた日は、平日であったので1時間程並んで無事
に回向柱に触れることが出来ました。気のせいだと思いますが、心が軽くなった感じを受け
たことは確かです。

 前立本尊と回向柱以外に興味を持ったのは、本堂の内陣と内々陣を隔てる3枚の欄間には、
来迎二十五菩薩像が燦然と輝いていることでした。これらの来迎の彫像も前立本尊と同様に
金色に輝いていましたが、不思議と派手さは感じず、反対に安堵感が伝わって来るようでし
た。

 これらの来迎二十五菩薩像ですが、以前に宇治の平等院を訪れたときに出会った木造雲中
供養菩薩像と同じ感動を受けました。平等院の木造雲中供養菩薩像は木製で質素な趣があり
ますが、善光寺の来迎二十五菩薩像は金ぴかであるにもかかわらず、不思議と落ち着きを感
じました。これらの来迎二十五菩薩像は、極楽浄土からこの世へと阿弥陀如来と菩薩が往生
人を迎えに来る様子を現しています。

 善光寺は過去に十回以上火災にあっているとのことですが、1400年もの間途絶えるこ
となく今のこの世に仏教の定着を願って生き続けています。歴史の流れに偉大さを感じます。

 今回の善光寺御開帳に出かけ、また改めて仏教の奥の深さと人間の信心に感じ入るものが
ありました。善光寺の本堂、大勧進、大本願と釈迦堂をお参りし、それぞれ御朱印をいただ
きました。充実した一日を過ごしました。

 帰路に着くときに信州の山裾に落ちる夕日を見ながら、自然の美しさが目に染み入るとと
もに、自然界に中で生きている人間が中心ではなく、人間は他の生き物と全く同じ位置づけ
にあるものであると再確認した次第です。 合掌


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