上の写真は丹波木綿の縞帳で、記載されている住所の桑田郡は「1879年(明治12年)まで京都府(丹波国)にあった郡」ということで、それから推測すると、江戸末期から明治にかけて作成された縞帳と思われます。前回の記事にも書きましたアシスタントが入手したものですが、良いお買い物、グッジョブ!でした。(^^)v
薄口の反古紙に貼られていて、紙がいかに貴重で、大切にされていたかもわかります。また、トップの写真左隅は紙を手拭いのような型染め晒しと、浅葱色の晒し2枚で補修されています。“小豆3粒包めたら布は捨ててはいけない――”です。
兵庫県の地場産業のサイトによれば、
[ 丹波地域では、宝永年間(1704~1710)頃に良質の綿が盛んに生産され、手織りの木綿が製造されていました。しかし、明治以降、機械化による大量生産が進み、家庭では手織り木綿も作られていたものの、産業としては徐々に衰退していきました。戦後に至っては、家庭内においてもほとんど木綿を手織りすることは無くなりましたが、昭和49年にそれを惜しむ人々が集まり、昔ながらの製法による手織り木綿を復活し、現在に至っています。 ]
とのことで、古くから上質の綿織物が織り継がれてきたのですね。
私も修業に入る直前と終えてしばらくして丹波地方へは2度旅をしたことがあります。丹波布を復興された足立康子さんを訪ねたこともあります。丹波立杭焼の窯元を訪ねたりしました。食べ物も、工芸も滋味豊かな土地だと思いました。
桑田郡(現在の亀岡あたり)という地名からもわかるように、養蚕も盛んな地域だったようで、少し、紬や木綿との交織の布もあります。絹は虫食いになっています。
糸はほとんどは木綿の手紡ぎですが、細番手の糸、杢糸、若干ですが、明治以降のものなのでしょう、化学染料の濃いピンクや青、緑が入ったものもあります。
紺、青、茶、白と限られた色数の中で糸一本一本を見つめながら工夫を凝らしいい縞を作り出そうとしていることがとてもよくわかります。とても上質の、おしゃれな洗練された縞、格子が多いです。
貼られている小さな布はかなりの高レベルな織り物と思います。縞帳に詳しいわけではありませんが、自家用で織ったものを貼り集めたというより、どこかの工房で織られた布のように思います。
自家用に機を織る家々には、参考にするための縞帳が宝物として保管されていたということですから、切手大の小さな布が行商などで、束で売られていて、それを反古紙に張り付けていたのかもしれません。この縞帳とよく似たものを織り物の本の中の写真で見たこともありますし、同じような布が貼られた縞帳も見たことがあります。誰かと分け合ったり、交換したり、いろいろ想像が膨らみます。。
昔の庶民も着ることにはこだわりがあったのです。他の人と違う感じのものを作りたいとか、着たいとか、流行もあったでしょうし、いろいろ思いを巡らせ、縞帳を参考にして、縞割りを考えたのでしょう。作り手の生き生きとした表情まで浮かんできます。
紬塾の染織実習で織る3寸ほどの布も、このようなシンプルな仕事をベースに考えているのです。
限られた色数で、糸を細かく混ぜながら設計してもらっているのはこの縞帳にあるような、シンプルだけれど、糸の形を生かした奥行きのあるものを作ってもらいたいからです。実習では経糸は無地系で用意されていますので、ヨコの段だけでそれをしてもらいます。
布をキャンバスに見立てて、絵を描くような表現をしたいのではありません。
紬と木綿、時代の隔たり、着こなしの違いなど、そのまま真似できるものではありませんが、その土地、暮らしのなかにあるものづくりの精神や、真摯な姿勢は大事にしたいと思います。
人工知能がこれから時代、暮らしの中にも幅をきかせてくるでしょうけれど、人の手でなければ生み出せないもの、人が生み出すべき手仕事は残し、伝えていかなければ、人は何のために生きるのかわからなくなりそうです。
【都市の「地織り」をめざし――紬織に自然の素材の命を託す】月刊染織α(1999年11月号 No.224)
99年3月に京都祇園の小西さんで個展をさせていただきました。
紬織の人間国宝、宗廣力三先生の下で学ばせて頂いてから22年の歳月が過ぎていて、先生はすでに亡くなられて10年ほど経った時でした。
京都という地で、とても刺激的ないろいろな意味で勉強になる個展でしたが、その折に染織α(現在休刊)の編集長の佐藤能史氏もご覧くださり、紬の仕事に関しての文を寄稿してほしいとの依頼がありました。文章は苦手で躊躇したのですが、文の上手い下手ではなく日々の仕事についてそのまま書いてほしいということで、よく考えれば20年余りを無我夢中で脇目も振らずに織りに打ち込んでいましたので、そのことを振り返る良い機会を頂いたと思いお引き受けしました。宗廣先生から受け継がせてもらったものと、その後私が実践の中で気付き新たな試みも加えてきたこと、そしてその紬織の大事なところを次の世代へ継承したいことなど、一気に書き上げました。そのバックナンバーはもうありませんが、興味のある方は大きな図書館などで探してみてください(写真上、見開き4ページ。HP掲載書籍に一部抜粋の文章を上げています)。
たくさんの反響が編集部にもあったようで、私の方へも問い合わせ、講演の依頼などもいただきました。
さて、私の下で染織の仕事と工房の事務的なことを5年余り続けてきたアシスタントが、その仕事の合間を縫って少しずつ自分の紬も織るべく準備を昨年から進めてきました。以前に手渡しておいた前述の私の寄稿文を改めて読み返してみたということで、今後の制作に向けての決意を表明してくれましたので、下記にご紹介します。
ちなみにアシスタントは週末は多岐にわたり、ジャンルを超えた企画展をする画廊で働きながら観ることの勉強もさせてもらっています。さまざまなもの、素材、技法、表現、古いもの、現代のものと、観る力もつけてきています。創作する上で、様々な質の良いものを観ること、聴くこと、すべて自分の血となり肉となります。技やものづくりの精神、美意識は、自分なりの受け入れ、再確認、発見、気付き、練磨となり新しいものが生まれてくるのでしょう。
すぐの独立ではありませんが、徐々に一人でも仕事できるよう体制を整えつつあります。本人の原稿にもありますが、出会い直し、勉強しなおし、まっとうな紬を織り、素直な美しい布を、世に問うていくことを期待してます。
織り物は趣味の方も多く、その延長上に私も置かれることが今でもあります。今の時代に着物を、布を織ることは趣味としか想像、発想ができないのでしょう。本来は生きるために、人生をかけて追及する仕事で、それは厳しい仕事です(たとえ自家用のものを織るのであっても)。手作りが楽しいから‥と安易にするのを否定するわけではありませんが、プロとして食べていく、人さまからお金を頂戴する仕事は厳しいものです。でもその布を対価と共に引き受けて下さる方がいらして喜んで着て下さり、役立てていただけることはプロとしての喜びであり、矜持となります。
独りよがりでもなく、お仲間とワイワイ楽しく‥でもなく、自分と向き合い素材と向き合い、着ることと向き合い、美の根源に触れるものを創るべく淡々と進んでほしいです。もし、それが無理と思ったら別の道を進めばよいです。というか、そうしてほしいと思います。今までのこの経験は決して無駄にはならないのですから。
以下アシスタントの文章です。作ることも観ることも紬織に限ることでもありません。ご一読いただければ幸いです。
【昨年から少しずつ自宅で染めてきた糸をならべ、さてどんなものを織るか。最初に思ったのは、かつて自分が美しい布に惹かれ憧れるきっかけとなった、昔々の名もない木綿や紬の縞や格子のような、素直で爽やかで力強いものを織りたいという事でした。そこで改めて文献や縞帳などを見返しましたが、古い木綿や紬の美しさに感動を新たにしつつも、どこかピンときません。ひとつひとつの模様から、良い縞や格子をデザインするための公式のようなものを導き出そうとする目でいつのまにか見始めていたのです。「ああ、いい縞だな」としみじみ思うまでは良いのですが、「これを真似るには何色を何本ずつ交互に」などと考え始めると急に頭が曇っていき、「いい縞」と素直に思ったその正直な感覚が遠のいていきます。これは本質から外れたことをしているな、という嫌な感覚でした。
基本に帰るべく過去のノートを見返していて、ある文章と再会しました。「紬織に自然の素材の命を託す」と題して中野先生が20年前、染織α(1999.11月号 No.224 )に寄稿された文章のコピーです。
そこには、中野先生が宗廣先生の工房から独立してすぐの頃の試行錯誤が書かれていました。使い込まれた古い丹波布や芭蕉布の美しさに影響を受け、模倣するが上手くいかない。そこであらためて、糸と向き合い、桜染と出会い、自然素材と向き合っていきます。「自分でこうしてやろうとか、こうなる筈だとか、素材をよく見もしない、知りもしないで自分の都合の良いように利用するだけで何もわかっていないと、桜は教えてくれた」「素材をよく見極めていくうちに、自然に導かれるように無理のない素直な色や文様が生まれてくる」と書かれていました。
そこに書かれていることは、中野先生と何度も話してきて、教えていただいたことばかりです。しかし、私が知ったような気になっていたこと、糸や、植物や、色や、生活や、素材のあらゆることと、これから再び自分の目で出会い直して、勉強し直していくのだと思います。
素材の力を生かしながら、しかしそれに寄りかからず、人の手でより良くする。言葉にすると月並みですが、本当にそこに到達できる人はどれだけいるのでしょうか。私が辿り着けるかはわかりませんが、向かう場所を分かっていれば、おかしな方を向いた時に「まずい」と思えるはずです。その方向感覚は大切にしたいと思っています。
手元にある糸は、色数も量も多くはありません。織るための道具も、ものによっては現在製造されていないものや、自分の体や作業場のスケールに合わなかったり、あるいは経済的な理由もあり、潤沢には揃いません。有難くも譲って頂けたもの、自作したもの、中古品に手を加えたりなどしながら、最小限の道具で、1反目に臨もうとしています。
寝食する場所のすぐそば、仕切りの向こうの狭い場所に道具を並べて、産地などの立派な工房に比べれば、おままごとのような作業場です。しかし、私はこれで良いと思っています。昔々、自家用や農閑期の副業として布を織った人たちも、同じように限られた生活スペースの中で最小限の材料と道具で機織りをし、美しい縞や格子を生んだのではないかと思うからです。中野先生の文章の中で「どんな環境でも、身ひとつでも、十分な素材が揃わなくても、ありあわせで工夫しながら美しい布は織ることができる」とあります。私は、そういう場所から生まれた布に、近づいていきたいと思っています。】