自動車で割り込みをされて、到着時刻が遅れることがある
確かに、腹が立つ
これが大雨や強風による自然災害の影響であるならば、気分を害しても腹が立つと言うような事はないと思う
結局、気分と言うのは、人に対しての感情の表れだろう
人を人だと思わなければ、腹が立つような事は無いのかもしれない
ある程度そんな事はわかってると思っている自分がいる
しかし、やはり人の感情から逃れられない自分もいる
養老孟司さんが言っていたけれども、人も自然の一部なのであろう
ならば、しょうがないと言う気持ちがあって良いのかもしれない
いわゆるあきらめの境地である
あきらめの境地は、言い換えれば、悟りに近い感情なのかもしれない
しょうがないものだと割り切って受け取ること
したがって、誰かの車が自分の車の前に割り込んできたとしても、これも自然だなぁと割り切って受け取る
しかし、そこに損得感情が湧いてくる
自分が損をしていると受け取ってしまうのが人情だ
自分が損をしているなぁと受け取ると、だんだんと「ナゼ自分だけが損をしているのか」と腹が立ってくるのであろう
逆の立場で、自分が得をしても「それは当然だ」と思う
そういう感情が人にはあるのではないだろうか
得した事は「当たり前だ」と思う
その感情は体が健康で自分のやりたいことを何の遜色もなく、充分やり切れていれば、その時それを特別な幸せだと思わないで 当たり前だと思う感情に似ている
実際には、この世の中は損をする行為に溢れている
むしろ、損をするのが当たり前なのだとも思う事が多い
だから、それに合い対するのが生きると言うことの努力目標なのではないだろうか
「損しなかった事」は、実はそれは自分の努力の成果だと評価してやって良いのではないだろうか
したがって、実はみんな「自分だけが損をすると感じる」のが普通だ、そう一旦受け取って、そこから積み上げていく方が気分的には楽なのではないだろうか
しかし、それも自分の考え方1つであって、一旦受け入れたとしても、やはり損をするのは嫌だと言う感情が湧き上げてくる
損得で物事を考えると言う事はどういうことなのか?
そもそも損とはどういうことなのか?
高校野球でも勝てないチームだから、勝てるための努力をすることができる
生きる糧となって、毎日活力が湧く
それがエネルギー源となる
ところが、何でもかんでも手に入って、絶対に甲子園で優勝できるような立場であったならば、努力をしたいとは思わない
優勝するのが当たり前ならば、むしろ逆のことを希望するのではないだろうか
みんなと切磋琢磨して、汗で流して、1つでも勝つために努力をする
もし、それを青春と呼ぶのであれば、そこに大きな価値があるのではないか
ただし、そういう行為をしていると、やはり連戦連勝の優勝候補たちが羨ましく思い、「なぜ自分だけが努力しないと勝てないのか」と言う劣等感を持ってしまい、それを損だと思うようになってくるのだ
考えてみれば、あるドラマで言っていたように、「楽をしたいと言う感情や感覚を突き詰めて、限りなくそこを目指して到達したところは、息もしなくて良い自分が存在するし、心臓を動かさなくても良い自分になってしまうのではないだろうか」
それが「とことん死に近づいていく行為」だと言う
そういうことをそのドラマでは言っていた
従って生きるという行為自体が、損から始まらないといけないものなのかもしれない
損をすると言う行為は自然のなせる技なのであって、その自然に対して抗うのではなく、その結果(損をしたこと)を一旦受け止めて、そこからどうするかを自分なりに考えていくのが1番良いのではないか
「とことん落ちるところまで落ち切ってるか」を考えてみる
ではその時、そこに必要なものは、何か?
一番ぴったりくる言葉は、「覚悟」と言う言葉だろうな
受け止めること
覚悟すること
あるがままでいいと、一旦すべてを受け入れること
その方が「自分が自分を傷つけなくて済む」のかもしれないと思う
自分が自分を傷つけるのが一番の損ではないだろうか
なぜなら一番悪い感情とは、他人ではなく、自分自身が自分を傷つけているから
既にそこからは逃げようがない
他に何を求めても対処のしようがない
せめて自分くらいは自分の味方であって良いのではないか
だったら、悟ろう
受け止めよう
一旦全てを諦めてしまって、ひとつずつ積み上げていこう
今朝は、そんな感情が湧いていた
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