私は調子に乗って喋りすぎるところがある。
一度喋りだしたら止まらない。
そういうことがよくある。
子供の頃からそういうところがあった。
ネット検索で調べてみたら、そういう傾向は承認欲求を満たそうとしていることらしい。
普段は人間を信用していないから、ほとんどしゃべれない。
それだけ臆病なのだろうと思う。
ところが相手からアプローチがあり受け入れてもらえると感じた瞬間から、承認欲求が満たされそうな気配を感じ喋り始める。
そして喋り始めたら知っていること、しゃべられることをほとんど全て言うまでしゃべり倒す。
相手がどう感じているかなどは考えない。
相手の感じ方などを考える余裕がない。
必死で喋っている。
そして、相手が辟易しているのを感じた頃にやっと気がつく。
しゃべりすぎたと気がつく。
そもそも承認欲求とは一体何か。
日常における閉塞感とか、孤独感とか、そういったものがあるからではないかと思う。
往々にして、こういう心理的な分析に関しては、インターネットやそういう専門学者がいろんなところにそう書いているし、発表している。
にもかかわらず、そういうことに関していろいろあれこれ考えてしまう。
考えてみれば人の心理と言うものは一律に特定できるものは無いかもしれない、と思う。
つまり「その人の感じ方によってさまざまでありそれぞれ違う」と思う。
例えば、昨今のイスラエルのガザ侵攻で、多くの人が死んでいる状況をテレビの映像で見ることがある。
その場合に日本人が感じる痛みと西洋人が感じる痛みは違うような気がする。
日本人は臆病な民族であると言うのはDNAで証明されている。
逆に西洋人は攻撃的なDNAが多いと言うのも証明されている。
私の好きなニュートンムックと言う雑誌のDNAの解説にそう書いてあった。
ならば、同じ環境、同じ境遇でも、心に感じる事は違うのではなかろうか。
でも、それを特定して分析していくためには、そこに何らかの革新的な真実がなければならない。
その真実と言うのは、自分自身、個人的な感性に他ならないと思う。
つまり、考えてる人自身が「自分ならこうである」と思う。
そういうその人の個人的な主観から始まる。
それがその心理分析に影響していると思う。
だから私個人は私自身の特性を考える。
私という個人の分析をして結論を得なければならない。
インターネットや書籍に書かれているものを、そのまま鵜呑みにするわけにはいかない。
ただし、人間としての大きな傾向はほとんど類似しているのだろうと思う。
広義の共通項だけを受け入れる。
ただし特例もあるので気を付ける。
おうおうにして、しゃべりすぎるのは「相手を信用しているからしゃべる」と言う欲求の発散になる。
心の表現を公にできると言う事は、その場所が信用できてないと出せないと思うからだ。
それを承認欲求という言葉で表すならばそうだろう。
しかし、しゃべりすぎるのもほどがある
そこまでしゃべるには、心の中の感情を溜めるコップに鬱積した感情が充満して弾けそうなくらいに詰まっている可能性がある。
他の場合だとすると、そこまで詰まっていなくても、少しでも感情を外に出そうと言う欲求が強いのかもしれない。
だいたいその2通りのどちらかではなかろうか?
自分の場合はどっちだろうか。
あるいは両方かもしれない。
というか、両方のような気がする。
そういう人はアートをすると良い。
何かの形で、心理的なものを表現することだ。
自分の場合、手短かにはギターがある。
10歳の頃から30歳頃までギターをかき鳴らしていた。
それは趣味か。
よくわからんようになった。
結局、そこに行き着いてしまう。
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