賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

効率に囚われる

2024-12-16 17:38:48 | メンタル
わりと世間は効率重視と言う。
みんなその意識に囚われる。
しかしそれであたふたしてる。
ではそこを否定してみる。

効率よく行動しようとすると、無駄な部分をとことん排除しようと言う意識が生まれる。
しかし、無駄な部分を排除すると言う意識こそが、一番無駄な行為である。
人生は無駄でできていると思う。
考え直してみると、無駄でない人生と言うのは無いように思える。
命は目的があって生まれてきたのではなくて、気がついたら生まれていたと言うのが本質だろう。
ならば、それこそが一番の無駄ではないか。
したがって、無駄な生き方、あるいは無駄な行動が命だと感じる。

効率を重視しようと言う事は、無駄を省く行為であろう。
それは先ほど言いました。
人生において、それは自己否定とも言えるわけですな。
生きていてもしようがないから、死んだほうがいいと言う刹那主義に走ります。
堂々巡りであり、考えてもしようがないことであります。
つまり、効率を求めてはいけないということなのであります。
効率が悪い行為のほうが、むしろ生きる目的に近いのかもしれない。
そのくらいの考えや意識があっていいと思います。
損をすることが人生なのかもしれない、と。
その程度曖昧なものでいいと思うのであります。

そこまで考えてしまうと、多くのことが気にしすぎだと思えるようになります。
思えるようにならないと幸せにはならない気がします。

では、幸せとはなんぞや?

しかし、そこから先を意識するとたちまちそれはそれで効率を重視しようと言うことになります。
幸せだろうが、幸せでなかろうが、それを考えることが効率重視につながっていくのであります。

「仏門に入る」とか、「禅をする」とか様々な言葉を世間で聞きます。
しかし、それは世捨て人でもなく絶望者でもない。

多くの人が到達する意識は、「あるがまま」とでも言いましょうか。
ぼーっとしてたほうがいい。
馬鹿だと言われてていい。
気にしない気にしない。

しかし、他人に害を加えるようなことが万が一あるとするならば、それは困ったことにつながるので。
まぁ、その辺だけ意識したほうが良いのだろうなと。
そのくらいが適当だろうと思います。

もう一方で、人の目線というのがありますな。

他人の意識に支配されているというのがあります。
他人を気にするから時間を気にする。
時間を気にすると言う事は、効率を良くしようと言うことにつながっていきます。
したがって、他人の意識に支配されないためには、他人の目線を気にしないとか他人を気にしない行動を取ることもやや必要になってきます。
ただ、他人を一切無視すると、それはそれで困ったことになります。
なので、そこはほどほどにというのをプラス加味しないといけませんな。

しかしながら、それでも焦りが出てきますがな。
困ったことに、です。

そこでさらに考える。
焦りは欲求であろう。
つまり、効率の悪い法を選択しようと思っているのだが、それでも焦ってしまう。
効率が悪い方を求めようと言う諦めの精神を持てない。
焦りとは、欲求の一つではないかと言う気がしてきた。
つまり、焦りたいという一つの欲求がある。
そういう意味にもなる。
欲求がある。
ある意味、他者よりも容易に立ちたいと言う欲求が焦りにつながる。
そこには必ず他者が存在している。
他者がいなければ、比較する人間関係がそこにはない。
そうなると、結論は人間関係であり、人間関係とは、人を相手にすることだけではなくなっている。
人が関与する様々な物事に対して人間関係が存在していて、そこに他者との容易性を求める心が発生する。
そこに焦りと言う感情が湧くのであろう。
つまり、焦りは人間関係に起因する。
人がいなければ、焦りは存在しないのかもしれない。
人がいなければ、焦りではなく、もし発生することがあるとすれば、それは恐怖だろう、と。
不安と焦りは同類の部分にあるのかもしれない。

したがって、焦りを排除するためには、そこにいる人を認識しないようにしなければいけない。
ところが必ず人はいる。
そして、人を相手にしないと今の世の中の行動は先に進めない。
そうなると、とにかく何かをするためには、人間関係が必ず通過点として存在し、そこに焦りが発生する。
焦りは回避できないものだと一旦諦めて、そこから考え直しする必要がある。

焦りを低くするには、焦りが発生しない環境に自分の居場所を持ち込まなければならないように思う。
焦りが発生しないと言う事は、人間関係において、他者との比較ができないところにいなければいけない。
そうなると、優位性が存在しないけれども、劣性も存在しないと言うことになる。
自分より劣っていると言う劣勢が存在しないので、他者との比較自体がないと言うことになる。
結果として優位性も求めないと言うことになる。
つまり、比べることがないところに行かないといけない。
そういう道を通過しないといけないと言うことだだろう。
それは一体どういうものなのか?
どういう生き方がそういう道になるか?
そういう道は存在しているか?
そういう生き方は存在しているか?
結論としては、人がいないところに行かざるを得ない。
と、いうことだろうな。

ここまで考えて思うこと。

効率的なことと焦りの感情が湧くことは、
それは比較的類似した問題点を含んでいる。
効率的に物事を進めようと言うから、焦りが起こる。
そのために、効率的に物事を進めないようにしたら、焦りが消えるか?
ところが、そういう焦りは本能から出ている。
そうなると、ややこしくなる。
本能を断ち切るという行為は、自分自身にさらに蓋をすると言うことにも向いていく。
食欲とか性欲とか、そういうものに蓋をしようにも、どうにもならない問題が潜んでいる。
だったら、どこかに解放せねばしようがあるまい、と。
それが、焦りが湧いている途中にどうにかしないと蓋ができないものもある。
また、蓋をしようにも蓋ができないものもある。
そうなると、垂れ流しになる。
焦りを垂れ流しにすると、非常に厄介なことになる。
狂鬼乱舞である。
焦りを消化する方法がいるが、そもそも解消とは消費か?
狂鬼乱舞である。

とても難しい。

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