現代人は肉体の感覚を無視して感じないようにしている。
どう言うことか。
先日、黄色い銀杏並木を大勢の人が観光しているテレビを見た。
情報番組である。
何かしらの違和感を感じたのはどうしてだろうと疑問を持った。
私の違和感を自分以外の人がどう感じているかわからない。
ただ、その情報番組では、観光しているはずのとても多くの人たちが、みんなスマートフォンで写真を撮っている。
そこに甚だしい違和感を感じた。
考えた。
例えば、江戸時代では多くの人がそういう現場を観光しているとして、どういう行動をとっていたか。
きっと黄色く染まった銀杏並木を目と身体と心と風を感じる肌と季節の匂いを感じながら、頭の中ではきれいだなぁと言う言葉を言っていたに違いない。
ところが、だ。
今の人は、まず先にスマートフォンがある。
そして、画像がある。
動画もある。
次にSNSがある。
その時間、そのために費やした時間が終わると、その後は何を感じるのだろう。
なんとなく「SNSにアップする画像がちゃんと取れただろうか」と考える時間が続くのではないだろうか。
人生の有限な時間の中で、自分の肌で感じるもの、五感で感じるものをあまりにも疎かにしていないだろうか。
人のことは言えない。
他人事だとは言えない。
私自身がそう感じるから恐らく他人も似た様な者だと思う。
考えることと情報分析をすることだけだとしたら、それは当然AIにできる。
むしろ、AIの方ができる。
では、人間は、人だけができることは何か。
人は肉体があるから、機械とは違う。
AIではない。
ところが、現代人はその肉体をできるだけ排除してしまって、後に残るのは、情報処理のためのAIのみではないかと言う気がする。
そう考えると、黄色い銀杏並木を眺めに行った人たちがやりたい行為は、ほとんど多くのAIが代理してくれるだろう。
私も歳をとった。
老人になって、肉体が老化して、五感が貧弱になった。
不便な五感を苦痛と痛みで耐えながら生きていくような身体にどんどんなっていく。
今よりもっと正常だった肉体の時に感じておけばよかった、やっておけばよかったことが今になってたくさん思い浮かぶ。
そこにはAIは必要ない。
むしろ全く逆の方向に向いている。
こういう時代をもたらしたのは一体何なんだろう?
何が人をここまで勘違いさせたのだろう。
そこから先の疑問は未だに解けない。
疑問が解ければ、既に答えがあるだろうが。
発展と進歩がもたらしたものは、自らの否定だったのか。
そうとも感じるなぁ。
あるいは、自分たちは、哺乳類と言う動物から別のものになろうと足掻いているだけなのだろうか。
そんな気がしてる。
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