環境
細かく気にしすぎる世相
昔は大雑把
お互いが注意しながら生きることができた
現在は些細な事でもテレビニュースになる時代
でもって、キチンと細分化した決め事を求める
昔は些細なことなら物事の始まりの時点でお互いに注意しあって牽制して大きな問題が小さな出来事で処理できた
人が増えすぎたから?
いいえ、きっと一極集中によって画一化した世界を作り上げないと結論が出ない次元に突入してしまったから。
複雑なことは、実は簡単なことの寄せ集めだから、簡単な次元で処理し続けたら問題にはならない。
でも、高次機能処理を「良い事」として求めるから、より複雑な次元になり「人に機能が追いついていかない」問題が発生している。
そこで人的機能不全が起きる。
まさに、人の社会が鬱病化している。
個人が正常でも社会がそれを求めるから、そうならないと生きていけない。
病原菌の中で、病気に陥らないで生きられないのは当然なのであろう。
今後は養老孟司さんが唱えた「都市化社会」は老化する。
でも、別の都市化社会が発生する。
都市化社会が機能障害の人間たちを順番に作っていく。
その病気に侵されずに生きるためには、その社会を拒否せざるを得ない。
若くして懸命な人間はすでにある程度そういう生活を選択している。
人の世の中で何が起こっているのかを感覚で理解したからであろう。
ただ、、その理解は学業で得たものではなく、真の懸命さによって感覚的に得たものだと感じる。
人の世は「人が作った学問」よりももっと高次元で理解しないと生けない。
従って、近年のデジタルでは解けない解答を身を以てアナログで識るしかないのではなかろうか。
特にインターネットの世界はその間違った蟻地獄の1丁目1番の様に感じる。
空と海と風と太陽と山や木、その他 沢山の大自然の中で生きられるのが哺乳類としての人の住む世界であるならば、今後に起きる都市化社会は人造人間が生きる社会であり、精神は機械の様に無機質を唱えなければ生き永らえない。
人工太陽を作るくらいまでの機械化されたミクロ単位の監視社会に住みたいかそうでないか、今なら選択できるかもしれない。
その隙間に、自分たちは生きている。
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