シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「悪は存在しない」(2024年 日本映画)

2024年05月15日 | 映画の感想・批評


 世の中キャンプブームだという。そういえばお隣の岐阜県にある揖斐高原スキー場がこの春県下最大のキャンプ場に変身したというし、GW連休中の琵琶湖岸も大勢のアウトドア派で賑わっていた。自分が住んでいる地域でも、かつて『サイクリングターミナル』という市の施設だった跡地に“グランピング”と称する民間施設ができ、他府県ナンバーの車でいっぱいだ。伊吹山が間近に見え、自然を満喫できる場所とはいえ、派手な装飾用のライトがケバケバしくて、周囲に溶け込んでいるかどうかは疑問なのだが・・・。
 「ドライブ・マイ・カー」で世界中の映画ファンを唸らせた濱口竜介監督の新作、信州の山中にグランピング場を作ることで起きる様々な人間模様を描いているという情報を得て、おそらくリニア新幹線建設でも話題となった環境問題について、掘り下げた内容になっているのではないかと予測して観たのだが・・・。
 オープニングは穏やかな林の中。下方から生い茂る木々を見上げるように撮っていて、そこに荘厳でゆったりとした音楽が流れる。もともと今回の企画は音楽家・石橋英子氏がライブパフォーマンス用の映像を濱口監督に依頼したところから始まったようで、その結果ライブ用サイレント映像「GIFT」と長編映画「悪は存在しない」の二本の作品が誕生することとなる。だからなのか、このオープニングシーンがやたらと長い。長いといろいろなことを考えるようになる。この林の中で、これからいったい何が起きようとしているのだろう、なんとなく不吉な予感もしてきて・・・。ともかくこの壮大なるオープニングで、観る者をどっぷりと深い山中に引き入れてくれるのは確かだ。
 続けて現れるのは主人公の巧が谷から湧き出る水を汲むシーンだ。これも長い。もう一人相方がいて、ひしゃくでいくつもの容器に水を入れて運ぶところを丁寧に撮っている。水道が通っていないところに運ぶのだろうか。いったい何に使うのだろう。一緒にいる男との関係は??ここでもいろいろな考えが次々と頭をよぎる。
 次は巧が暮らす家の前での薪割りシーンだ。この薪割りは自分も自然教室などで経験したことがあるのだが、結構難しい。一本の木をチェーンソーで4つに切り、さらに斧で4つに割る。この一連の作業をすべて見せてくれる。最初は俳優さんにしては腰が入っていて上手い方だとか、薪ストーブがあるのだろうかと思い巡らすうちに、この斧を使って何か事件が起きるのでは?この男の正体はいったい?!等、不安な要素も感じたりして・・・。
 グランピング場建設の説明会では、地域住民と計画した芸能事務所とのやりとりが何とももどかしい。森の環境や住民達の水源を汚しかねない補助金目当てのずさんな計画。説明する2人の社員も十分内容を把握できていないようで、とても支持する気持ちにはなれない。しかしこの2人にもそれなりの自分の考えと生き方があった。東京にある事務所と現地とを行き来する車中での、2人の素直な気持ちから出るやりとりを聞いているうちに、2人に共感できる気持ちも少なからず出てきて、現地の人たちともこれから先上手くやっていけるのではという明るい未来が垣間見えたのだが・・・。
 衝撃のラストをどう捉えたらいいのだろう。巧には娘・花がいて、学童からの帰り道に行方がわからなくなってしまう。果たして花は生きているのか?巧がとった奇怪な行動と、最後の荒い息づかいは何を意味しているのか??この作品の『悪』とはいったい???  
 様々な謎を抱えつつ、観る者はこの林の中を後にする。さすがヴェネチア国際映画祭審査員大賞(銀獅子賞)を獲得しただけある、想像力を豊かにしてくれる、映画好きにはたまらない作品だ。
 (HIRO)

監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介
撮影:北川喜雄
音楽:石橋英子
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、田村泰二郎、鳥井雄人

「落下の解剖学」(2023年 フランス映画)

2024年05月08日 | 映画の感想・批評
フランスのグルノーブルの山深い山荘の一軒家に、人気小説家の妻サンドラと家事を担当する元教師の夫サミュエル、幼いころの事故で視覚障害を負っている息子ダニエルと介助犬のスヌープの一家が住んでいる。夫はフランス人、妻はドイツ人、日常会話は英語。
ある日、妻が学生の論文取材を受けていると、階上の夫が不協和音の音楽を大音量で流し、妨害してくる。妻は学生を帰し、息子には散歩に行くように促す。
息子が愛犬と散歩から帰ってくると、家の外で倒れている父親を「発見!」犬が異常に気付き、吠えた事で息子のダニエルはことを理解する。その時、家の中には母サンドラだけ。
サンドラは古い友人の弁護士に連絡して、状況を説明する。「私は学生を見送った後、耳栓をして昼寝をしていたから、夫が転落する物音も聞いていないのよ」
夫はベランダから誤って転落した事故なのか、自殺なのか、それとも妻が突き落として殺したのか。

一瞬寝落ちしたからか、いきなり裁判が始まっていたのだが・・・・・。
フランスの裁判なので当然フランス語を強要される。それだけでも強い圧迫感を強いられる被告席のサンドラ。
物証がほとんどない、状況証拠ばかり。夫が残した夫婦げんかの音声などによって、仲良く見えていた夫婦の実像が次々と暴かれていく。小説家として成功した妻と比べて、事故で視覚障害を息子に与えてしまった夫の無念さや挫折が浮き出てくる。
「推定有罪」か「推定無罪」か。検事の強引さがきわだつ。
対する弁護士ヴィンセントの冷静沈着さと、美しさ!(彼はしんどいお話の中での眼福シーン。)
裁判所の様子が面白い。法服を着用している。検事は赤、弁護士は白。判事は忘れた。ちょうど今、朝ドラの「虎に翼」で戦前日本の法廷シーンが描かれていて、そこでも検事と弁護士の法服の色が同じなのが面白く思えた。日本の法服には色は少々入るだけだが、フランスの検事の法廷服はまるでサンタクロース!
戦前の日本では検事の席が判事と同列の高い位置にあったことが驚きだった。現代フランスでは、現代の日本と同様に弁護士と向かい合わせなのだが、その席がはるかに高い位置にある。被告人や証人、傍聴者を見下ろす形になっている。記憶違いかもしれないが、判事や裁判員たちよりもひときわ高く見えた。

裁判は結局、息子の証言により無罪となるのだが、その過程で息子の気持ちの揺れ動くさまは痛々しい。愛犬を使って実証実験までやってみる。
判決が出ても、「なんの報奨もないわ」とつぶやくサンドラ。ずっと寄り添ってきた弁護士ヴィンセントの表情がうすく変わる。
やっと無罪になったのに、母は息子のもとに跳んで帰る気はないのか!息子の証言のおかげで解放されたというのに!
息子をハグしていても、母の手はだらり。ぎゅっと抱きしめるのは息子の方。サンドラは自分の事しか愛していないのか。
真相は一体何だったのだろう。かつて見た「レボリューショナルロード」や「ゴーンガール」を思い起こしながら、夫婦の本当は結局は本人たちにしかわからない。いや、そうだろうか。我が夫婦はどうなんだろう。
恐ろしい・・・・ヒリヒリしながら観ました。

「名脇役賞をワンちゃんにあげたい!」
と思ったら、カンヌ国際映画祭のパルムドッグ賞をもらっているらしい。
アスピリンを大量に飲まされて瀕死の目、よく演技したものです。ラストシーンでは息子のダニエルでなく、サンドラに寄り添っているのが印象的。脇役でなく、主演かもしれない。
ちなみに、作品はもちろん、パルムドール受賞!そしてアメリカのアカデミー賞で脚本賞。

ところで一言、言いたい。あれほどアルコールを飲んでアルプスの山道をドライブしても大丈夫なの?飲酒運転は許されるの?突っ込むのはそこかいな(笑)
(アロママ)

原題:ANATOMIE D'UNE CHUTE  ANATOMY OF A FALL
監督:ジュスティーヌ・トリエ
脚本:ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ
撮影:シモン・ボフィス
出演:ザンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、サミュエル・タイス



「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」(2023年 イタリアほか)

2024年05月01日 | 映画の感想・批評
 わが国では同世代の巨匠ベルナルド・ベルトルッチの陰に隠れた存在だったマルコ・ベロッキオですが、ベルトルッチ亡き後、年長であるベロッキオが80歳を超えてまだ健在ぶりを示すどころか、問題作を放ち続けていることに敬意を表せざるを得ません。いまや名実ともにイタリア映画界を代表する巨匠の地位を不動のものとしたといえましょう。
 かれの新作は、イタリアでは誰もが知っているらしい史実「エドガルド・モルターラ誘拐事件」をもとにしています。カトリックの総本山であるイタリアで映画化するにはずいぶんと風あたりも受けたでしょうが、まずその映像美に感服し、ストーリー・テリングの巧みさにも感心しました。
 私は予備知識なく見たものですから少し戸惑ってしまったのですが、19世紀半ば以降のイタリアの歴史を調べてから見ることをお薦めします。イタリアは近代国家としての統一が遅れた国ですが、その原因はローマ教皇にあるといっても過言ではありません。諸国が割拠するイタリア半島は「諸国民の春」といわれた1848年革命を契機として国民国家への希求が徐々に高まり、1870年のローマ陥落によって教皇の天下が終わります。
 1851年ボローニャのユダヤ系商人モルターラ家にエドガルドという男児が生まれます。かれが満7歳になるかならないかのとき、町の異端審問官の命を受けた男たちがぞろぞろと同家を訪れる。乳飲み子を含めて9人の子だくさんのなかでも、とりわけエドガルドを探していると見えます。父親がいったいエドガルドに何の用件があるのか訊ねると、相手が「洗礼を受けたという密告があった」と答えます。だから審問官のところへ連れて行くのだと。
 ここは、いきなり「洗礼」といわれたって日本の観客には具体的な説明がなければよくわからないだろうと思われます。そこでちょっと解説しますと、まずモルターラ家はユダヤ教です。第二に、「洗礼」とはキリスト教特有の儀式でユダヤ教にはありません。つまり、「洗礼された子どもを差し出せ」と命じているわけですから、エドガルドが親の知らない間に何者かにキリスト教の受洗を施されたということです。だから、もはやこの子はユダヤ教徒ではなくキリスト教徒なので、おまえたちユダヤ教徒の手を離れてしかるべき教育を受けさせなければならないといっているわけです。
 なにしろ当時は教会が絶大なる力をもっていて、ローマから離れたボローニャもローマ教皇の配下にあったため、いかなる場合も逆らえないのです。父親は1日の猶予をもらって八方手を尽くしてわが子が連れ去られないようにいろいろな力を借りますが、教会は有無を言わせず少年を拉致します。手段を選ばない父親が新聞を使って教会の横暴を告発した結果、話はアメリカにまで拡がって人権を無視したやり方に世論が反発し、教会を支える財源まで脅やかします。かえってこれが教皇ピウス9世の逆鱗に触れ、意地でも少年を返すものかと頑なになる。
 多神教文化をベースとした世俗仏教社会に育ったわれわれには実感としてわかにりくい部分が多いのですが、昨今の新興宗教トラブルにおける宗教2世たちが洗脳されてゆく過程は、おそらくこのようなものなのかと想像すると、背筋に寒いものを感じないではおれません。(健)

原題:Rapito
監督:マルコ・ベロッキオ
脚本:マルコ・ベロッキオ、スザンナ・ニッキャレッリ、エドアルド・アルビナティ、ダニエラ・チェゼッリ
原作:ダニエーレ・スカリーゼ
撮影:フランチェスコ・ディ・ジャコモ
出演:パオロ・ピエロボン、ファウスト・ルッソ・アレジ、バルバラ・ロンキ、エネア・サラ、レオナルド・マルテーゼ


「アニー・ホール」 (1977年  アメリカ映画)

2024年04月24日 | 映画の感想・批評
 NYに住むコメディアン、アルビー・シンガー(ウッデイ・アレン)はアニー・ホール(ダイアン・キートン)と出会い、まもなく二人は恋仲になる。アルビーは40歳過ぎのブルックリン育ちのユダヤ人で、悲観的な人生観をもっている。アニーは明るくて、ファッションセンスがよく、プロの歌手を目指している。二人はテニス場で意気投合し、同棲するようになるが、次第に互いの生活スタイルや家庭環境の相違点が浮かび上がってくる。二人とも他にも恋人ができるようになるが、それでもまた元の鞘に収まっていた。ところがハリウッドのレコード・プロデューサーがカリフォルニアへ来ないかと誘うと、アニーはアルビーの反対を押し切ってロサンゼルスに移住してしまった。アルビーは寂しさに耐えられなくなって迎えに行くが、アニーはNYへ戻らなかった。

 アルビーは「死」が強迫観念になっていて、15年間精神科医に通っている。神経質で皮肉屋で、2度の離婚歴があり、カリフォルニアに行くとロサンゼルス病にかかってしまう。NYにしか住めないユダヤ人だ。スタンダップコメディアンで、収入はそれなりにありそうだ。アニーはブルーミングデールズ(高級百貨店)で買物をするのが大好きで、セックスの前になると不安になりマリファナを使う。ドラッグを常用していて、アルビーとの関係が行き詰まると、彼に促されて精神科を受診した。

 たぶん70~80年代のNYアップタウンに住む人たちにとっては、ブルーミングデールズで買物をすることや精神科医にかかること、離婚歴があることは一つのスティタスだったのだろう。ここで描かれているのはセレブな都会派知識人の日常で、この映画はニューヨーカーの生活スタイルを切り取ったものではないかと思う。

 恋愛を描いてはいるが、昔の恋愛映画のように愛の障壁があるわけでもなく、戦争や事故や病気で二人が引き裂かれるという悲劇もない。あるのは生き方の違いが顕著になり、夢を追うためにパートナーと別れた女性と、その女性のことをいつまでも忘れられない男性の話だ。別れた後にNYの映画館の前で偶然再会するが、その時には互いに恋人がいた。アニーが今の恋人を引っ張って『悲しみと哀れみ』(69)(かつてアルビーが見ようと誘い、アニーに断られた映画)を見に行こうとしているのを見て、アルビーは心の中で密かに「勝った」とほくそ笑む。後日、ランチを一緒にした時、アルビーはアニーの素晴らしさを改めて認識し、アニーと過ごした楽しい日々を回顧する。別れても友だちとして付き合うのは、理想的な恋愛の終わり方で、これも都会人の洗練されたライフスタイルなのかなと想像する。

 この映画にはさまざまな映画技法が使われている。観客に向かって話しかけたり、画面を分割して対照的なものを写したり、登場人物の心理を字幕で表したり、アニーの体から心だけが離脱したり、有名人を実名で登場させたり(マクルーハンやトルーマン・カポーティ)・・・観客に向かって話したり、有名人を実名で登場させるのはジャン=リュック・ゴダールがよく使う技法で、必ずしも新しいというわけではないが、ウディ・アレンはこうした技法を使ってアルビーとアニーの心のすれ違いをうまく表現している。

 アルビーはアニーとの体験をもとに芝居を作った。そこではアニー役の女優は最後にアルビー役の俳優とよりを戻すという、現実とは正反対の結末になっている。アルビーの願望なのか、妄想なのか。せめて芸術の上だけでも、理想的に事が運ぶように思ったとアルビーは語っているが・・・

 映画のラストでアルビーは小話を披露する。
<小話>
精神科医に男が「弟は自分がメンドリだと思い込んでいます」と言うと、
医師は「入院させなさい」、男は「でも卵は欲しいのでね」
<アルビーの話>
男と女の関係もこの話に似ています。およそ男女関係は非理性的で、不合理なことばかり。それでもつきあうのは卵が欲しいからでしょう。

 卵は何を意味しているのだろう。自分をメンドリだと思い込んでいる弟が産むものだから、たぶん幻想、妄想、想像、錯誤、誤解、思い込み、勘違いetc.・・・恋愛は良い意味でも悪い意味でも幻想や妄想を生み、錯誤や勘違いによって成り立っていると言いたいのだろうか。そう言えば、ウディ・アレンには恋愛妄想をテーマとした作品が多いような気がする。

 最後に面白い話をひとつ。『ボギー!俺も男だ』(72)という映画がある。ウディ・アレンが制作した舞台劇を映画化したロマンティック・コメディで、『カサブランカ』(42)のパロディと言われている。この映画の原題である“Play it Again、Sam”は、『カサブランカ』の中でイングリット・バーグマンがピア二ストのサムに「思い出の曲をもう一度弾いて」と頼むセリフに由来すると言われている。ところが実際には『カサブランカ』の中に“Play it Again、Sam”というセリフは見当たらない。ずいぶん昔、アメリカ人の友人が『カサブランカ』を目を皿のようにして見たが、そんなセリフはなかったと興奮気味に語っていたのを思い出す。映画のタイトルになっているぐらいだから、みんなあるはずだと思っていた。

 実際には“Play it, Sam. Play <As Time Goes By>” 「あれを弾いて、サム。『時の過ぎ行くままに』を」と言っているようで、原題とは微妙に異なる。作り手にまんまと思い込まされていたようだ。ウディ・アレンのいう恋愛もおそらくこんな幸福に満ちた勘違いのようなものなのだろう。(KOICHI)

原題:Annie Hall
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン マーシャル・ブリックマン
撮影:ゴードン・ウィルス
出演:ウディ・アレン  ダイアン・キートン



12日の殺人(2024年 フランス映画)

2024年04月17日 | 映画の感想・批評
 2022年第48回セザール賞(作品賞/監督賞/助演男優賞/有望若手男優賞/脚色賞/音響賞)を受賞した本作。ネット情報だが、セザール賞は、いわゆるフランス版アカデミー賞とのこと。確かに、とても良かった。
 実際に起きた“未解決事件”を基にしたフィクションである。フランスの自然豊かな田舎町が舞台。10月12日深夜、女子大生クララがパーティーの帰り道、一人で歩いていると、突如ガソリンを掛けられ、生きたまま焼かれ、翌朝、焼死体で発見される。事件を担当することになったのは、その前日に、警察班長を引き継いだばかりの若い男性刑事ヨアン(バスティアン・ブイヨン)。事件を担当することがあまりなかったのか、被害者感情に偏っていってしまうが、次々と男性容疑者が浮かび上がり、皆、彼女は奔放な女性だったと証言すると、決して、罪を犯した犯人は許せないのだが、被害者を見る目が変化していくのである。偏見無し、先入観無しで捜査しなければいけないが、刑事も人間である。誰が正しいのか、真実は何か。前任班長のベテラン刑事(ブーリ・ランネール)は自らの家庭の境遇と重ねてしまい行き過ぎた取り調べをしてしまう。それを止められないヨアン。「〇」or「×」では判断できない自分も居る・・・。
 後半には、女性の判事と刑事が登場し、仕切り直し捜査が始まる。偏った見方ではない捜査方法で、解決するかと思いきや、空振りに終わってしまう。作品冒頭に“未解決事件”と宣言されているにも関わらず、刑事達と一緒に捜査している気持ちになっていた。
 時折挟まれるヨアンが自転車トラックで自転車に乗るシーンが、ヨアンの気持ちを表現しているようで、映画らしい。ファーストシーンからラストシーンに繋がる。前向きな気持ちと捉えられ、良い効果が生まれていたと思う。
 殺人事件の犯人捜しなので、「サスペンス」という宣伝PRだったが、内容は人間ドラマで、自分も相手の風貌や雰囲気、自らの偏見等で、色眼鏡を掛けて相手を見ているのだろうかと考えさせられる作品だった。
 因みに、同年2022年の作品賞候補「ダンサーインParis」も、一人の女性の成長を描いた作品でとても良かった(私の2023年度ベストテンにも入れました:2024年1月10日発信「シネマ見どころ」)し、2023年第49回の作品賞を受賞した「落下の解剖学」(米アカデミー賞で作品賞含め5部門にノミネートされ、脚本賞受賞)も、夫の謎の死の真相究明する過程で、夫婦関係や幼い視覚障害の息子との関係を描いた作品で見応えがあった。「セザール賞」今後注目かも。
(kenya)

原題:La nuit du 12
監督:ドミニク・モル
脚本:ジル・マルシャン、ドミニク・モル
撮影:パトリック・ギリンジェリ
出演:バスティアン・ブイヨン、ブーリ・ランネール、テオ・チョルビ、ヨハン・ディオネ、ティヴィー・エヴェラー、ポーリーヌ・セリエ、ルーラ・コットン・フラピエ、ピエール・ロタン、アヌーク・グランベール、ムーナ・スアレム