ごじゃっぺ日記(旧、看悶日記)

京都生まれのにわか茨城県民による雑多な日記です。内容に一貫性はありませんが、どうかひとつ長~い目で見てください。

終戦記念日、中島飛行機跡地

2010-08-15 16:25:17 | 日記
今日は終戦記念日。
ポツダム宣言を受諾し無条件降伏したのだから「敗戦」記念日という意見もあります。個人的にはその通りと思います。
ただ靖国関係者、一部戦没者団体、産経新聞などの極右メディアから見れば、自虐史観だと攻撃対象になるのでしょうか?
逆に皇国史観の亡霊が彷徨い続ける方が怖いと思いますが…。

好き勝手書きつつ、戦後日本が65年前の今日始まったと考えれば、言論の自由が保証されている現代社会に感謝する日でもあるでしょう。

ところで65年前の話、私が住む群馬の田舎も戦争とは無関係でなく、むしろ強固に戦争と結びついていました。
自宅に隣接する山、本ブログによく登場する山ですが…

以前書いたかもしれませんが、大家さんの話によると防空壕があったそうです。
こんな田舎に空襲がと思われるでしょうが、昨日の群馬県立歴史博物館の展示資料によると、
我が町の空襲による死者は111名を数えるそうです。都市ではない狭小な田舎町にすれば多大な犠牲者数です。

その理由は実に明白。↓写真の左は三洋電機の東京製作所。町の中心部に広大な敷地を有しています。

戦争中から三洋電機だったわけでなく、当時は中島飛行機小泉製作所。海軍用航空機の製造工場でした。

そして我が町と太田市とまたがるエリアには、

スバル運動公園と、富士重工業大泉工場、スバルロジスティクの広大な敷地が広がっています。
ここは、戦時中の太田飛行場の跡地です。
写真ではかすんではっきりとは写っていませんが、写真中央の電柱のはるか後ろに山が見えます。
この山は太田の金山。麓に中島飛行機太田製作所がありました。いまは富士重工業スバルの太田工場です。
飛行場跡地を反対側に回り込むと、

前後の道は狭いのに、今のスバルの正門に突き当たるまで片側2車線の広い道になっています。
この道は、中島飛行機で完成した機体を太田飛行場まで運搬するための誘導路だったようです。

そういうわけだから、太田を中心とした中島飛行機の工場群は米軍の本土空襲の最重点攻撃目標でした。
太田は東京大空襲に先立つこと約1ヶ月前の昭和20年2月10日には空襲を受けています。その後複数回の空襲があったようです。

終戦間際になって、8月5日前橋、8月14日伊勢崎と群馬県内諸都市が空襲にあってますが、
先の博物館資料によれば、前橋/伊勢崎空襲が焼夷弾による都市の焼失が目的だったのに対し、
太田の空襲ではほとんど焼夷弾は使われることなく、通常の高性能爆弾が使用されたようです。
すなわち、攻撃目的が中島飛行機の工場群の完全破壊だったことを示すものでしょう。

軍需工場が攻撃目標とはいえ、犠牲者の多数は、女学生はじめ学徒動員や一般市民だったということは容易に想像が付きます。

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