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玄徳道

道を語るブログです。

運霊。日の出道。

2021-04-12 19:46:00 | 宗教
出口日出麿が叫ぶ。「まず、純真の自己にかえれ。

まじりけのない自分のみに戻れ。」


人とは、人に左右される存在。簡単に自己の本源に戻れない。

それほど、人種は昏迷している。、

文明とは誇りと傲り。物資世界と人為的宗教が交わり、そして、魂なる本源を消費する。


「他人が、笑うかも知れん。と。くらい気にして、いつも、クヨクヨ思うままをなし得ないことではならぬ。他人に迷惑をかけることは良くないが、さもない場合、バカげた理由の為に自己を殺している人々は近頃ずいぶん多い。

なんでもないことを独り気をもんだり、遠慮したりしていては、まるで、この世へなんのために生まれさせられたのか分からなくなる。

各自異なった使命をもって生まれているのであるから、各自全力をあげて、良い意味の自己完成をなしたら、それで神も、ご満足、当人の使命をはずかしめなかったというものだ。」


人とは独りでは生きていけない。

故に社会を形成し、相互互譲なる道が生まれる。

助け合い、人を羨み妬み、毀誉褒貶するが、人類の歴史でもある。

この人類の歴史に於いて、自己の使命、役割を覚る人は非情に少ないのである。

出口日出麿さんを初めて知ったのは、大本教による出版、「神仙の人、出口日出麿」です。

今から三十年前、当時、高校生であった、私は、目から鱗が飛び散るほど、感激感動し、読みました。

多く観

良く観

多く聞き

良く聞き

多くかぎ

よくかぎ

多く味わい

よく味わい

多く触れ

よく触れ

多く思い

よく思い

もって悟るよりほかに手はない。



幼少より発達障害者である私は、詞に感動しないが、この詞を然りと感涙した記憶があります。ははは。今から、三十年前も前の話し。

出口日出麿さんは、吾が師、至聖先天老祖より、笹目秀和さんと同じく、特命なる道名を賜り、「運霊」とされる。

霊を普遍に運行されるの意。霊とは一般の人の考える幽霊の霊とは別物の意味であり
、漢語辞典を開けば、神の体を表すなり。

ワールドメイトの深見東洲氏は出口日出麿さんと、面会したことが在るらしい。彼の師の独りであった、根本宏、道名は、誠乾師から、聞きました。深見氏は、日出麿さんは神仙であると述べられていたとか。

「老祖訓。…………………運霊(出口日出麿)を派して大和中央主院の責任宣霊統掌と為す。即日、職に就くべし。…………各々知りて遵え。

運霊の生まれは由って来る所あり。尋仁(出口王仁三郎)を継いで大同の法要を世界に如く者である。汝の負う責任は甚だ重大である。然も、尋仁は基を固むる時代を為し、汝は展開の時期を為す。

基を固むるは、固むるは、困難であると言えども、その実は至って容易である。展進は容易であると言えども、その実は困難である。何故ならば、基を固むる時は堅忍して信じ守れば、宜しいのであるけれども、開展に至ってはこれと大いに異なる。

必ず、時代の潮流にしたがって人心の趨勢(なりゆき)に合し、道の自然を以て人心についてこれを正し、道の平易を以て人心について、これを導く、しかる後に、世界大同の真境が出現し得るのである。

若しそうならなかったならば、我の唱える所を以て、世界宗教を統一し得るであろうか。時代は、既に同じからず。宗教また、背くものと従うもの有り。人心も並に反対するものと賛成するもの有り。

これを大にして、包まざるなき、中道を以て、世界各教の宗(とうと)ぶ、所を集めて、研究するのでなければ、宗教門徒の見解と道徳境域の区別を化(みちび)き除くことは出来ないのものである。
これ、大道が仏教と和し、回教(イスラム)と和し、道教と和し、耶蘇教(キリスト)と和し、儒教と和して、共にその精微なる奥義を参解(りかい)し、以て世界人類の互愛、互善、大楽の本と為す所以である。

汝は既に道運を継承し、ここに霊化を宣揚する以上、必ず、まさに眼光を四海に放って、以て大同の妙機を悟り、知恵を人類に着(あた)えて、大道の玄諦を悟るべきである。運霊、つぶさに之を悟るを可(よし)とするのみ。」

吾が師は、日出麿さんにかなり期待をされておられました。

しかし残念ながら、第二次大本弾圧により、精神が狂うほどの拷問を請けられた。

何とか出口日出麿さんに復活して頂きたいと考える人は、香港のフーチの壇で治す方法を呈判したらしいのですが、運霊は、既に正気を喪っており、云々と根本誠乾さんから、聞いたことがあります。

ある人は神仙の世界に入っておられる。

片方は、もはや、正気を失っておられる。


ここで私は思考する。人間にとって、本質は、身魂。魂と肉体があり、初めて神人合一する。

魂と肉体の使命を遂げて完成する。

故に出口王仁三郎聖師は、人を殺すなよ。殺すなら、殺されよと。

おそらく、人を殺す事は、途方もない、カルマを背負わせられる。

当然に自分殺しも同様である。

殺されるだけならば、神はその四魂を救うなり。






無邪気なる子供ごころに神さまとおすがり申すが宜しかりけり。

神さまのあることだけが分かりたら安心立命はできるなりけり。

吾(わが)ための吾にあらで神さまの心のままの吾にてありけり。



真に神を信ずる者は、真に神を相手としてのみ行動している。ゆえに、どんな場合にでも、感謝があり、希望があり、安心がある。

しかるに、神を信ぜざる者は、つねに自己の利害を基本としてのみ行動している。ゆえに、おうおうつまずき、焦慮し、絶望する。

世に神を信ずると称している人々は多いが、真に神を信じている人は少ない。


私は毎日神さまのことで頭が一杯だ

世間の人が聞いたらフフンと笑うだろう

神さまより外に頼るべきものはないと

いよいよますます思うてやまない

神さまは私には在る

見える

聞こえる

感じるのだ

昔の私には神さまはなかった

見えず

聞こえず

感じなかった。


bye出口日出麿。




























































































































































































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御本尊道。

2021-03-10 18:27:01 | 宗教
日蓮による、教え。戦後、その教えは、発達し、日本に、有力な宗教を催された。

仏の教えの御本尊。

南無妙法蓮華経の真髄である。

南無とは、仏の詞で尊敬や崇敬を意味するらしい。

言霊学で述べれば、なんも、なり。

なんも。とは、かつて、北海道に住まうアイヌの言語で、感謝を意味する。

ふふふ。インドで生まれた、言語が仏のマントラであり、弘法太師空海が、そのマントラを日本流に受け入れた。

空海とは、出口王仁三郎聖師と同様に、神スサノオの御魂のもちぬし。

スサノオは、古事記に因れば、アマテラスと仲違いしたように溶かれておられるが、それは、人族による、思想変化による誤りである。神スサノオは、地球ソノモノ。常に太陽と伴にある存在なり。

話がそれてごめんなさい。

南無妙法蓮華経。

日蓮の生きた時代。

貴族による神道や、その他の仏教も、領地や僧兵を持ち、民の為の教えを発揮せず、多くの民を損なっていた。民を害していた。

ゆえに、日蓮は、人を救える道、救済への道を学び、法華経こそが、この国、日の元御国を救うと信じ、広宣流布を実践された。

日蓮が当体とした、御本尊とは、如何に。

国祖国常立尊、地球神である。


天人合一。


今の多くの人。御本尊とは、幸せを呼ぶ、宝だと思考される方が多い。

お金が多く入れば、幸せ。人付き合いが巧くいけば幸せ。信仰し、病気が治れば幸せ。同じ考え方、同じ、神や仏を信ずる者が集まれれば幸せ。

まあ、人の幸せは、人の欲望だけ、存在する。


此処で述べる。日蓮は、自己の幸せの為に、御本尊を感得、感化、感合しては、いない。

日本国、救済と良心の為に、法華経の真髄、観音力を得たのである。

日蓮の御本尊とは、日蓮の誠。誠心に、地球自体が感合された。

故に、日蓮の発する、「南無妙法蓮華経」は、人智を超えた奇跡を現したのである。


多くの宗教信者は、知らないかも知れないが、御本尊とは、外から来た存在では無い。学んで、拝む存在でもない。

自己の道に因り、感得する、吾が生きて来た道の集大成であり、吾が内在する、神であり、我自身の本当の姿、魂の存在なのである。

それが、御柱となり、仏では、大灯明、大法灯となる。

これを日蓮は、御本尊と呼ぶ。

是を知れ。












































































































































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真、スピュチュアル道。

2020-02-13 19:56:27 | 宗教
スピュチュアルとは、霊的世界感。

これは、人の想念により、産まれた世界。

例えれば、ヨーロッパ神界。

多くのエンゼルは、天使と神による兆しと、人による想念体による、神人合一。

天使は観たことが無いと言われる、日本の霊能力者には、感化出来ないが、エホバの愛は、全ての民を幸せに、導きたい。これが本質。


まあ、天使の存在の基本が、人の妄想によるが
。。。


スピュチュアルに救われた人もあり、弊害を受ける人もいる。


まあ、人の歴史を紐解けば、人が人を害するが、人の歴史。

いやいや、その中には、救いもあり、愛もあり、安寧と争いがあったが真実。

ふうむ。やあむ。せしる。


今のスピュチュアルの多くは、神霊と想像力を以て道とする。翻れば、スピュチュアルの根源とは、人の妄想であり、原始、日本の神を知る人には、理解は不可能でもある。

想念界による働きは、月を拝めば金が入り、パワーストーンを得れば、富を、得る。願い、イメージすれば、与えられるとする引き落としの世界感。


ふふふ。それを為せば、我が魂が喰われる。

で、で、で、詰まる所を問えば、、、、、、、、スピュチュアルを真実、真となすは、無欲なり。

当然、スピュチュアルを仕事とし、金銭を得る者とは、日本の悪魔、我良し、偲凝霊の憑依を受けし、者なのである。。。


スピュチュアルとは、自然の精霊の意義がある。しかし、人がその感化を自己自身の為に、儲け姿勢を見せれば、それは、敗れるのである。


スピュチュアルとは、ナチュラルスピリット。人間の損得を抜きにした、地球規模の働き。

経済を、救済を、差別を、思想を、全て、上下の価値観無く、己の本質を素直にあらわすのみ。


総意。真鳴るスピュチュアル道とは、永遠のただ働きなのである。
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信仰の道

2014-09-14 16:33:36 | 宗教
信仰は、人の自由意志です。ここに強制があれば、道を誤ります。ちなみに先天の坐にも強制がありません。部位(チャクラ、丹田等)に着相(執着)することなく、人為をすて、自然のままに坐ります。邪念が出てもそのままほっときます。無理に無空、無想になることは、強制になります。無理に強制するとさまざまな弊害が生まれるといいます。だから無為自然のまにまに。

覇道でなく王道の坐なのです。覇道とは全てを力で民を従わせる事です。王道は、民意を尊重し、無為自然の徳により治める事です。

神様に感謝するのも信仰。祈願するのも信仰です。子は、親を親しみ頼み、親は、父母を大切にし、祖父母は先祖を大切に崇拝し、先祖は、神に基づきます。

人により、神様を祭り、拝み拝し、媚びへつらい、供物をし、わが身の幸福を願い、わが一族の繁栄を願います。人としての情では、当然かもしれません。人間とは我儘ですよね。

祈願される立場の至聖先天老祖と云う神様は、このように述べています。「外に神を求めるのではなく、内に道を見出すのである。」と。決して、自分に供物をささげたり、敬い拝し、奉るなと言う事でもあります。人の親心と同じで、自分の面倒など、除外して、自立してほしいと言うことです。それよりも、自己の内なる神に、道に目覚めて欲しいのです。

伊勢白山道氏が述べる内在神ということでしょうか。(ちなみにこのお方は、坐禅や瞑想に否定的なようです。)

相対世界、物質世界において、お金があれば、幸せだという方もいます。ものがあれば、素敵な恋人がいれば、欲望がかなえられれば。人の幸せは、欲望の数だけありますね。

しかし、お金も地位も名誉も民族も関係なく、人の根源たる「道」を見出すことが、人としての真の幸福なのではと私は、考えるのです。

そして、信仰していれば、幸せになれる事はありえません。信じても、救われません。自己の中に、唯一の内なる神こそが、自分を救えるのです。

信仰せずとも、如何に、自己の内なる宇宙を発露する者こそが救済出来るのです。その道は芸術であり、音階であり、吾が道であるのです。

「人心を捨て、道心に還る。」「人心惟れ危うく道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、允(まこと)にその中を執れ。」


<2014ー9-1。記事を一部訂正致しました。>

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伊勢白山道と老子

2013-12-01 13:23:06 | 宗教
まず、伊勢白山道リーマン氏には耳が痛い話である事をお許しください。また、善良なる信仰熱信で常に感謝想起をされている伊勢白山道登山者の方々には御不快と思われる方がおられると思います。あくまでも、私、個人の見解であります。どうか寛容な心で読んでいただく事を希望致します。

かつて、私は伊勢白山道リーマン氏のコメ欄に参画させていただいておりました。現在は、鬼雷のハンドルネームでは掲載される事はありません。正し、他のネームに変えると容易く、アップして下さいます。当然、厳しい意見は載りません。少々、オベッカを使い、ヨイショすれば、簡単に掲載して下さいます。
何年か前に、リーマン氏のブログで「神の計画」という言葉が文章の中に出てきましたので、私は彼のコメ欄に「神様は自然の基であり、「無為自然」あります。天地を育み、悠久なる宇宙を運行され、人間如きの知覚ではその全容を感知する事は出来ません。人間側や幽界なる存在が勝手に経綸や計画としているに過ぎません。神様に計画はありません。・・・」
特に質問をしたわけではありませんが、リーマン氏から返答がありました。ただし、私が書いたコメントをリーマン氏の都合のよいよう全文を載せずにカットし、返答を頂きました。
「。。。では、何故進化が起こるのか考えましょう。何故、ビックバーンという呼吸をするのか考えましょう。それは生かしたかったと言う事。これを計画と言います。」
一部、龍神界や仙界では経綸や神の計画という神示と称するものを出しておりますが、あくまでも幽界が主宰であり、多くの霊能力者は幽界なる世界を垣間見、憑依され、霊言や自動書記と言う容(かたち)をとっているようです。普遍意識や内なる神に目覚めた霊覚者の書物を観れば、根源たる神は大いなる宇宙の運行を司り、あくまでも人間の自主性を大切にし、時には天助も授けますが自立を望んでおられるようです。そこにあるのは大いなる愛でもあります。無償の愛、無為の愛です。

リーマン氏の霊覚(リーマン氏を憑依する幽界の存在による霊能力。リーマン氏はその憑依する幽界の存在を眷属神と名付けておられる)リーディングによる老子は9次元(リーマン氏特有の次元の存在で1から11まである。)とし、「。。。老子は北極星から来た魂。。。。老子は同じ国へと何度も転生した。。。。(その理由は)中国が大国となること、住民が理解する知能を有するからです。」
北極星云々は、神秘性を高めたい、眷属神の指示であるのでしょうか。霊能の世界は想念の世界ですから、100通りの見方もあり、それをまともに受ける純粋な信者は可哀そうです。老子は道徳経の中で、民は少なく、国は小さく、文明は発達しない方が世の中は良く治まると書いていたのですが、中国を大国にする?。意味が不明な所はやはり、霊能力だからですかね。多くの霊能力者は自己の観た世界が正しく、自己を憑依し、霊力を授ける存在を神とし、盲信してしまい、偏るのです。

ちなみに、ある方の質問に対し、リーマン氏は「。。。老子を解釈できる人は今の日本に居ないと思えば良いです。」と主張しておきながら、自分のみが老子を解釈できると言わんばかりに、「超訳 老子」をブログで書きだしました。老子を解釈し、訳をつけるのは自由なのですが、訳の上に「超」をつけるのは何故なのでしょうか。私は伊勢白山道リーマン氏の奢りが観えたような気がしました。それゆえかリーマン氏がブログを書籍にされた時は反省されたのでしょうか、谷川太一という変名を使い「柔訳 老子の言葉」とされておられますね。ただの「訳」に出来ないのでしょうかね。「超」も「柔」もリーマン氏の自尊の現れなのでしょうね。

また、ある質問では「論語や老子、初期仏典の中には東洋の叡智や生きて行く上で大切な愛、慈悲、施し、思い遣りなどのヒントになる逸話や箴言も沢山含まれていますがそういう古典を「自分道」を生きる上でのヒントとする読み方については問題ないと考えておりますがリーマンさんの見解はいかがでしょうか。?」伊勢白山道リーマン氏はバッサリと「。。。読んだ事は忘れる事です。」
しかし、伊勢白山道リーマン氏は御自分の著書「老子の言葉」のみは、いつも手元に置いて、読んでいると言っています。読者にも買え買えのアピールです。おおよそ、彼の質問の回答は、自分勝手なのかもしれません。

古典や書物は幅広く偏らず参考程度に多く読めば良いとおもいます。

また、リーマン氏は老子こそが内在神の正体を知っていたとされて、驚かされておられますが、リーマン氏が普遍意識に辿りついていない事を自らが暴露している事なります。「内在神」と言う言葉が広まる前に、神言会の上野公園氏は「良心神」を宣言されておられますし、出口王仁三郎も内なる神に言及されておられる。キリスト教でも「内なるキリスト」「内なる光」を顕わし、禅でも「祖父母以前の自己本来の面目」内なる悟りを顕わしています。老子は、「大道」「無為自然」をあらわし、太古の王道は「道心」修道を顕わす。伊勢白山道氏は自己の内在神を掲げる為に老子を利用されている感があります。
実に「内在神」が伊勢白山道リーマン氏の専売特許ではありません。太古より、語り継がれている道であるのです。

伊勢白山道リーマン氏は「老子の言葉 写真集」を発売されました。上下巻とし、易経を真似て、陰陽にしたと言われております。老子の道徳経が40章+41章あり、それをお得意のリーディングにより、「私の感得では、老子の81章は「易経」を凌駕しています。まさに宇宙を表現しています。」
その理由と言うのが老子は9次元×9次元で81。40章+41章で81章であり、易経は上経30+下経34で64の形象しかないので、81の老子の方が勝っていると言う、小学生的発想です。
古典には様々な学びがあり、それを学ぶ人間側により、その自己の宇宙は狭くも広まりもするのです。老子が高く、易経が低いとする伊勢白山道氏には偏見があるようです。
ちなみに易経は孔子が本がボロボロになるほど熟読したほどの経典であり、占なる道も含まれますがそれが本質ではありません。天地人、三才の道を包尽し、陰陽、二爻を以って組織せられた64卦384爻の中に道が表現されています。上は天地の理、神明の情より下は修養処世の要諦にいたるまでに余すところなく包含されているのです。

それでも、老子を世に広めた功績は、立派であります。


最近では伊勢白山道リーマン氏は本の出版を続け、伊勢白山道は世に広まりつつあり、多くの人が5%運動は確実に行っておられるのに文明による自然災害は増え、異常気象による天災も増えています。5%運動の効用は如何にあるのでしょうか?。伊勢白山道を信じ、リーマン氏が掲げる神を信じる人に癌患者の方がおられます。よくコメント欄で見かけておりましたが、病はますます悪くなられておられました。完治しないのは何故なのでしょうか。先祖供養を行い感謝すれば、細胞の歪みが治るはずでは?と考えます。。感謝想起は自然災害を防災するとされるが防げていないのが現実であるようです。尚且つ、感謝は人を容易に覚者へと覚醒させると称していますのに、伊勢白山道から覚醒者が出ている様子を感じません。何故でしょうか。彼のコメント欄を見れば一目量然であると言うことが解かりました。

伊勢白山道リーマン氏が出した本に「読むだけで人生が変るたった一つの方法」があります。リーマン氏はこの本を質問者に対し、伊勢白山道の知識がない者、未熟な者に、悩める、苦しむ者に本を読め読め、再読再読とこの本を暗誦できるほど読めと言っておられるようです。ここに実は落とし穴があると考えます。内在神を見出すには、自己の努力、真心込めた社会生活、自分の道しかありません。しかし、リーマン氏自身が伊勢白山道で言う外在神の働きをされておられるからです。何故ならば、本を読んだ人間は、それを盲信し、それが真実であると思い、リーマン氏が創った言葉の像を内在神であると思い、惑わせるからです。内在神は覚醒です。自己覚醒です。覚神に他者は一切関与しません。本来、基本を学べば。伊勢白山道から離れ、自分道に帰依しなければならないのですが、多くの登山者はリーマン氏のみが絶対であるように盲信しているのが現状であります。これでは宗教熱心な信者が教主に盲信するのと何ら変わりがないのですから。


葦原瑞穂氏著「黎明」より

「その人の霊的成長に関わるもので外部から簡単に答えを与えてしまえば、その人の疑問から解放されるかもしれませんが、その人が自分の内側からその答えを引きだした時に得られる、大きな進歩を奪ってしまうことになります。普遍意識は宇宙の全てを経験している無限の叡智ですから、自分にとって未知なものはありません。ですから「解からない」という否定的な想念を持つことや外側の書物や誰かに答えを求めることは、この普遍意識と自分との分離の波動を生じることによって、誰もが持っている智慧の通路を閉ざしてしまうことになるのです。
従って普遍意識の顕現を今生でめざそうとされる方は、今後いっさいの答えを外側に求めることなく、自分の内側から引き出すように努力されることが、御自身の確実な進歩につながると言うことを理解していただきたいと思います。」

普遍意識、共有意識に関する、リーマン氏への質問で「人類の共有意識に溶け込んだ方はキリストや老子、男性ばかりで女性にはいないのでしょうか。女性は難しいのでしょうか。」リーマン氏返答「。。。生理が終わってから可能性があります。」
生理は、女性の体内の無為自然の働きです。覚醒し、普遍意識や共有意識のに目覚めることは、内なる、真なる自分、真我が顕現することであり、神である魂の働きなのです。ここに肉体はその影響を受け、細胞の歪みは正され、生命が活発になるのです。生理は関与しません。


「道の道とすべきは、常の道に非ず、名の名とすべきは常の名に非ず、無名は天地の始め、有名は万物の母、故に、常に無欲にしてもってその妙を見、常に有欲にして、以ってその窔を見る。この二者は同じく出て、名を異にする。同じくこれを玄と謂い、玄の玄、これ衆妙のもんなり。」

老子の道徳経は、多くがその根源に遡って語っており、相対的な次元には陥らないのであります。

「大道は無為にして、自然に任せる。そこでどうして特別なる秘伝等その必要があろうか。もし各部位に分けて説明すれば、何千何万となるが、一たび執着すればその妙用を失うのである。
道は先天に本づき、修は自然に属する。自然の修をもって先天の道を悟るのである。先天の法に随って輪(めぐ)り、以って後天の気に合すれば、気は貫通して滞ることはないのである。それなのに、どうして特殊な秘伝など用いる必要があろうか。たとえ、法があると思えば即ちその法に迷わされ、また秘伝があると思えば即ちその秘伝によって惑わされるのである。」


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