玄徳道

道を語るブログです。

平成三十年十月四日、三六九神示。

2023-09-26 19:18:00 | 神示道
世界の国々は、誠信の外交無く、駆け引きで様々の策をめぐらせ、自主の国の利を獲んとして、道に外れた事も平気でやっておるぞよ。

軍備を調え……これからは、経済力じゃと、核兵器で威嚇しながら.金儲けの外交をいたして居るのであるが、現の世は、艮の金神が閻魔と現れて、目を光らせておるのであるから、理の通らぬ悪態は神界が許さぬぞよ。

核兵器を山と持つ国、隠れて核兵器を造っておる国も、その内、えたいの知れぬ、病に多くの人民が罹りて、始めはかくして、おるが、かくし、通せぬ、事が起こりて来るぞよ。

原発の損壊した、日本も同じ事であるぞよ。

現の世の始め、生き物の生命の種を生み出した龍宮界の皆が恵み合い助け合う、やり方で無いと、嘘偽りで塗り固め、生命より、金が大事な利己主義(われよし)の今の世は行き詰まりてしまうぞよ。

大宇宙から見て、この小さな地球の上で、醜い争いをいたして、居る人間共、余り悪態がすぎると、地球の浄めの荒事、厳しくいたさねば、ならぬ事となるぞよ。

火水(ひみず)からみての浄めであるぞ。

皆、仲良く、和となり、助け合い、戦争の無い、平和の世を願いて居る、世界の人民の願いを無視して、意地を張り.争いて居る世界のお偉方、早く改心いたされよ。

陰に隠れて、悪態を重ねても、何時迄も隠し通す事は出来ず、我が身も国も亡す原因と、なるぞよ。

カチカチ山の話でないが、尻に火がつくぞよ。

泥の舟は沈むぞよ。
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黙真人訓、善の解明道。

2023-09-25 21:33:00 | 道院
善は一切の宗家

北極真経に曰(い)う。

真道有るは、「善道に他ならず」、又曰う「吾が善、気を練り、吾が善、行を踏み、吾が善、霊を回するに如かず」と。

こうして、修養一切に関して、わが老修(道の先輩)は能(よ)く研鑽して実行したものである。

新しい修方においては、只善の一字に対して、徹底して明らかにせねばならない。

或いは言う、善の字は即ち、良い事をすることであると。

しかし、誠心ある修方にとっては、善の一字は、そう簡単な事では無いと覚える。

われわれ修人は、善を以て一切の宗となす。

つまり、善における、その範囲を詳細に分析、解明して、新しい修方のために、ここに先覚の経験や、その効果の大要を分析し.諸子と共に、これを討議、研鑽することにしようではないか。

善といっても、その種類は多い。

善に真と偽がある。

直と曲がある。

陰と陽がある。

是と非がある。

偏と正、半と満、大と小、難と易のように、善にして、その理は、際限がないものである。

善を行うに、その真理を極めなければ、いくら、自分は善を実行している積もりでも、豈はからんや、罪を造る事になる。

折角の努力も水泡に帰してしまう。

何をもって真、偽と曰(い)うか。

昔、儒教を学ぶ数人があった。

天目山に参詣して、高僧普応国師、中峰和尚に質問し、「仏教家は、善悪応報は、形に影が添うようなものだと言うが、現在、ある人は善であったが、その子孫は、必ずしも栄えなかった。これに反して、悪人の家が隆盛となっているが、仏説は真実ではない。

中峰、答えて曰う。

「俗情(世間一般の人)は、まだ、洗われて(仏の道、また、人の道を学ばれていない)おらず、正しい眼織は、まだ開かれていない。善を以て悪とみたり、悪を指して善となすのは、己の是非(自己の正義)が傾倒しているのをうらまず憾(うら)まず、して、反(かえ)って天の応報の違いを逆恨みするのか。」

さらに数人が問うて、「善と悪はどうして、相反するや。」

中峰曰う。

「例えばどんなことか。」

儒者一人が言う「人を罵り、人を殴ることは悪であり、人を敬し、人に礼を尽くすことか、善となる。」

中峰曰う、「未だ然らず。」

また、一人が言う「財を貪り、矢鱈に取得することは悪であり、清廉潔白を守ることは善である。」

中峰曰う、「未だ然らず。」

数人は互いにそれぞれの所見を述べたが、中峰は「そうではない」と。

中峰曰く「人に益することは善であって、己を益する事は悪である。

人が益することならば、たとえ罵ろうと、殴ろうとも、これは、皆善である。

これに反し、己の益することは、たとえ、人を敬し、礼を尽くしてもみな、悪である。

人に益することは、[公]である。

公は即ち真となる。

己に益することは、[私]である。

私は即ち偽である。

また、良心に根(もとづ)く者を真と言う。

他人の形だけ真似るのは偽である。

無為にして為すのは、真。

有為(人為)にして為すのは、偽である、

人に益することと、己に益することと、これ(悪)をよく分解して修行上の規準とするならば、一心の妙法は、その経験と思慮によって時々刻々、簡潔にして明白となるものである。」

何を以て正、曲と曰うか。

今の人は、謹厳といわれる士を見て、おおむね、善なる仁というだろう。

しかるに、聖人はむしろ、狂狷(変人)の方を取る。

狂は、積極性を有しているが、短期で小中に拘束されない。

狷は、進所出退を厳行するが軽挙を肯じない。

謹厳居士は、同郷の者を是(よし)とはするが、聖人は、偽善者と見る。

つまり、郷里に在っては表面恭順を装い、内心では奸智策謀を有しているからである。

これ、一般世人の善悪観と聖人のそれとは、全く相反していることは、明白である。

以上の推論を以て種々、取捨選択すれば、すべて誤っている。

およそ天地の善を福にし、悪を禍いにすることは、聖人の是非する所と同じであるが、世俗の取捨と、相反するものである。

善を為さんと欲すれば、只見た形ではなく、須らく心の奥から浄めて、世の為、世を救うという心こそが真の正である。

少しでも世に媚び諂う所あれば、曲である。

少しでも世に憤る事があれば曲であるし、純粋に人を愛するは正である。

純粋に人を敬うは正であるし、これを弄ぶようならば、曲である。

何を以て陰、陽と曰うか。

善を行っても、これを人に知らせないことは陰徳である。

人に知らせたならば陽善である。

陽善は世に名声を享ける。

陰徳は天から報われる。

名声も幸いであるが、しかし、造物主からは忌む所である。

名声を享けて、もし、実が伴わなければ、必ず不測の禍いがあるものである。

これに反して、罪なくして、悪名を被せられた者は、その子孫は急に栄えるのである。

何を以て是、非と曰うか。

昔、魯(孔子のおられた戦国時代)の国に一定の法があり、すべて諸侯にそれぞれ家臣や侍女を政府より、奨金を得て、買い戻しをする者は貰える制度であった。

当時の官吏や宮廷の役人は、罪を犯せば、家中の者が皆、奴隷となって終身、自由を得られなかった。

ある義人が金を出して、これらの家臣家僕を自由の身に戻してやろうとしたので、魯の国人は、これを義挙とし、魯の政府もまた、金を出してこれを褒賞した。

子貢(孔子十大弟子の一人)は、家臣を贖ったが、政府からの金を受けなかった。

孔子はこれを聞いて、「間違っている。聖人が事を為すには、一般の世俗に影響しやすいのように、百姓町民に道を教えてやらねばならぬ。魯の国には富める者は少なく、貧者が多い。金をうけることを潔しとしないが、何をもって贖ってやろうとするか。今後も諸侯が、人を贖(か)わなくなるだろう。子貢の賢明は理財に適い富む事であろう。金を受け取らないことは是と思ったが、豈図らんや、是は大非であった。」

子路(孔子十大弟子の一人)は、溺れる人を救い、その人は牛を以てお礼にした。

子路はこれを受け、牛を貰った。

孔子は喜んで曰う、「今後、魯の国で.多くの人が溺れる者を救うであろう。表面だけを見れば、子貢が優で、子路は劣で、これは現時点を以て論ずるからである。それでは、将来の流弊は大である。善を為すには今後の流弊如何をよく顧みて、一人の行為だけ、適すれば、良いというものではなく、一身のみさえ、相合すれば良いものでもない。」

大衆の力が良く行えるか否か、天下に利害が何に多いか、少ないのか、衡(はか)って事の是非を弁(わきまえ)るのである。

何を以て偏、正と曰うか。

昔、呂文懿公が大臣を罷めて帰郷した時、海内の人々は泰山の如く、北斗の如く仰ぎ迎えた。

ある村人が酒に酔って呂文公を詈(ののし)ったが、公は動ずることなく、下僕に曰う「彼は酔っているから、門を閉して謝った。(酔っ払いには帰ってもらった)」

翌年、この人は殺人をして死刑を判決される。

呂文公は、これを悔いて曰う、「われ、その時の酔っ払いを懲らしめれば良かった。わしが厚い心を以て、その悪をここ迄、養っておった事を計り知らなかった。」

これは善心を以て悪を行うことになる。


また、悪心を以て善事を行う者もある。

ある所に、一つの自家のみが栄える富家があった。

丁度飢饉で荒れた年、飢えた民主が白昼、町に於いて掠奪、暴行を働いた。

これを受けた県の役所はこれを処理しなかった。

暴徒は益々勢いを増し、まさに大乱とならんとする時に、富家がその首領を捕らえ、懲らしめて、その争乱は遂に息(や)んで了った。

本来は正者は善を為し、偏者は悪を為すことを、知っておる。

しかし、善心を以て悪事を行う、正中の偏。

悪心を以て善事を行う、偏中の正。

まことに、微妙な次第であるが、道を修め、心を修める者は、明白に理解出来るのである。

何を以て半、満と曰うか。

易に曰う、「善は積らなければ、名を成すに足らず、悪は積らなければ、身を滅ぼすに足らず」。

積もることは満つることである。

怠慢は、不満ということである。

次の様な話がある。

ある娘が寺に行った。

施しをしたいと思い、身体のあちこちを探して、僅かに二文の金を全部施した。

この時、それを見た大僧正は自ら、その娘の回向を行った。

後日、娘は富貴の身となり、数千金を携えて、施しにやって来た時、大僧正は、弟子に回向をやらせた。

娘は問うて言う「昔、二文を施した時、大師、御自分で回向をしてくださった。今、数千金を以て施したが、大師は弟子に回向をさせたのは、何故か」大師は曰う「昔、二文を施した時、その心は甚だ真であった。私自らでなければ、その徳を報いられないからだ。今、高額を施すといえども、その心は二文の時ほど、真(まこと)ではない。弟子で十分である。」

これは二文が満であり、数千金は半である。

かつて、鍾離(中国八仙の一人呂祖の師)、呂祖(中国八仙の一人)に法授して曰う、「この法によって鉄が金になる。金をもって、世を救いなさい。」呂祖曰う「何時までも変わらないか。」鍾離曰う「五百年後に元通りに変わる。」呂祖曰う「この弊害が五百年後の人に及ぶ。吾はそのようなことは願わない。」鍾離曰う「仙を修めるため、先ず三千の善行を為さねばならない。汝の一言は、三千の善が円満となる。善を為さんとして、善に執われないならば、至るところで成就し、皆、円満を得る。もし、善に執着すれば、終日勤勉し能(よ)く励んだとしても、得る所のものは半満である。

大小の極致も同じである。

衛仲達(宋の官吏、夢にて鬼に拘束され閻魔に引き合わせられる)の訴状を以て、生涯の罪悪を化除する事が出来た。

その一念は万民の上に有るから、その功徳もまた、斯く不可思議である。

だから天下に志しあらば、小もまた、多であり、志が一身にある者は多もまた、小である。

大小の計量は如何に心に存するかということである。

何を以て難、易と曰うか。

昔、二年を要して僅かに得た給金があった。

人の夫妻をまっとうする為にその給金を全部与えた。

また、十年貯蓄したものを全部、他人の借金を代わって返済し、人の妻子を活かした。

さらに、ある老人は子供がなく、幼女の奴隷がいたが、これを郷里に帰し、金を支払った。

これらは、皆、為し難い処を為し、忍び難い処を忍んだので、天は福を以て特に厚く報いるのである。

富と財がある者や、勢力のある者は、徳を立てることは非常に容易なようでも、それを為さないのは、むしろ、自爆である。

貧賤の者は礼を尽くすことは難しい。

この難しい中を能(よ)く為せば、それは、貴いことである。

根本問題は、いわゆる、難とか、易とかの問題ではなく、すべては、一心にして、善行を実践するにしても、この一心を肯(うべな)うか、否かにかかるのみである。

以上は、簡略に種々概要を列挙したが、各位の参考の一助とされたし。













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三六九神示。苦悩道。

2023-09-20 21:34:00 | 神示道
知るほどに、学ぶほどに、理を知るだけでは、頭でっかちとなるばかり、何が何だか判らぬようになるぞ。

迷路に迷い込むぞ。

目の前真っ暗となるぞ。

それからが大事じゃ。

神を信じて迷いなされ、悩みなされ、苦しみなされ。

神を忘れては真っ暗のままじゃ。

神を信じ、御魂ある事信じておれば、そこに光が見えて来る。

暗い程、一点の光も明るく見える。

目の前に忘れておりた、道が見えて来る。

有難いぞ。

道を求める誠あれば、神は、道の光と現れる。

御魂から光が出る。

縁ある人をもって導き助けもする。

悩み苦しみは、御魂の成長の為と申してある。

御魂をおおう思凝の殻を割る為であるぞ。

焦ってはならぬ。

ひたすらに、真の神を信じよ。

利己主義(われよし)の思凝霊(しこりごみ)に魅入られたら、神理が見えぬようになり、楽を求めて、我欲の道に走り、真の神の道から離れてゆく。

されど、ラクと思い一時はすっきりしたと思う道が、明き盲が道に、さ迷う如くなる。

神を信じて、迷いなされ、苦しみなされ、悲しい時は泣けば良い。

苦あれば、楽ある道をしっかりと、かみしめる事が神交の大事であり、道の開けて、御魂から、光が差すぞよ。

(注 人の霊魂には、神の分霊の御魂(直霊)と肉体霊魄がある。魄は自我、感情、欲を司りる。魂魄の調和が大事。)





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先天坐道雑記12

2023-09-19 20:19:00 | 私的考察
先天坐とは、何の為にするのであろうか。

はっきり言って、これを行じたからと言って、霊能力も超能力も身につかない。

かつて、笹目秀和仙人は、出口王仁三郎聖師との関係から、大本と道院結びを託され、鎮魂帰神術(大本では鎮魂法帰神術を霊法としていたが、あまりの発狂者と妖言者が続出し、正神界と神との交わりより、邪神界の神と交わる者が続出し、出口聖師は、鎮魂帰神術を断念されました。)の変わりに、先天坐をもって、鎮魂法の代わりとし、大本信者に、説き、また、機関紙をもって、大本と道院は同一であると、説かれたようですが、大本三代教主は、拒否され、中の道院と和の大本は、袂を別れた言われがあるのです。

鎮魂法とは、人の真心による接霊に於いて、神人合一を為す法であり、一種の霊能力を得る法でもあるが、その道は途絶えつつある。(神界が働かれておられない。)

鎮魂法と先天坐は全く別物で、先天坐とは、その本源に還るためであり、簡単に言えば、赤子に帰る、無垢な赤ちゃんに還り、赤子の心で世界を見通す、それを天目を得ると申します。



さてさて、先天坐を学ぶ為に、面倒なのは、道院紅卍字会の存在がございます。

この団体には、神伝により、綱則があり、紅卍字会に入り、老祖の弟子に請願(必ず、弟子として道名が拝名される。)しなければ、秘咒を得られず、北極真経を得られず、先天坐法は、伝授出来ないとあります。

その道院綱則をものともせず、老祖の愛娘、きらく仙女さんが著者「生きる意味と方法」を書いて下さり、原本は少ないようですが、電子ブックとして、ネットで掲載されておられるようです。

先天坐法は、天界に於いては秘中の秘として、天界の神々が更に上天に昇る秘宝とされる、描写が、北極真経には演がかれておられます。

そして、紅卍字会の統掌(会長、責任者)は、正当な手続きを得ずに、先天坐を行う事は、天界の規律を乱しまた、世界に混乱を与え、自らとんでもない業をつくるから、そのような、行為は、辞めるように、言われておられます。

しかし、真経は、道なり。

道の存在は、如何なる人であろうが、そこに志せば、開かれる。


そして、日本は神道。

「三千世界、しんとうのよにいたすぞよ。」

こんなお筆先あったけ?。

神の道も、簡単に、いえば、自己の守護神、身魂の素性を悟り、その神の働きを成す。

先天坐。自らの本質、魂を悟る道。

自ずから、赤子に還り、自己の本分、天命を明らかにする。

ただし、そんな、人間が少ないから、先天坐も道院も、人気が無いのでもある。


いずれ、開かれた門は、必ず閉じる。

故に、今の東京総院は、自社に、居座らず、地方の求道者の為に、地方に飛び廻り、縁ある貴重な、縁者に老祖の弟子として、先天坐の伝授を致すのが、上策かと思われるが、皆様は、如何に思われるのでありましょうか。
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三六九神示、闇光道。

2023-09-14 19:21:00 | 神示道
天之御中主の神氣は降る。

天橋立、真名井神社の建替えも成り、五四五四(いよいよ)、三千世界の、立替立直し、厳しくなる時節とめぐりあえたのであるから、世界の事から、人民の事から、これまで隠れておりた因縁が、善きにつけ、悪しきにつけ、皆、浮かび上がりて浄化されるのであるぞ。

人民は、何事も無く、平穏に暮らしたい、元気で長生きしたいと、思えども、あるだけの因縁が浮かび上がりて来るから、これほど、信心いたしておるのに、何で、こんな事になるのじゃとら神を疑いたり。

うろたえ、騒がねばならぬ事も、出来て来るが如し。

どんな事が起こりても、神を信じてある者は、大難を小難にいたし、現の世で肉体の持たぬ時は、霊界で救うよう、神は、見守りておる事を忘れてはならぬぞよ。

何事も無く、調子良く行く時は、神様は有難い、感謝せねばと、言うておりても、事が起こりた時こそ、御魂磨きであり、御魂調べであるから、心いたさねば、ならぬぞよ。

闇と光と申すが、闇の中で芽ぶきとなり、成長となりゆくのが、神理であるぞ。

三千年このかた、聖人賢者と言われる者が現れ道を説いたが、人類は利己主義の争いから、ぬけ切れて、おらぬぞよ。

禊の為に未だ未だ、苦しき節を越さねばならぬぞよ。

世界中に隠れておりた、因縁が浮か上りてまいるから、これまでの条約が反故になったり、次々に変事が現れてまいるぞよ。

神が表に現れたら、すぐに善い世になると思うてあろうが、三千世界を根底から改めるのが、神の念願であるから、人民の都合通りには、まいらぬ、これからの世であるぞよ。

されど、神を信じ日々、至誠(まこと)で生きておる者は、案ずる事は無い。

御魂の親神が導きて、節を越させ、世の元の親神に縁を結ばせるぞよ。

天候を見よ、晴れの日ばかりでは、無いぞ。

雨や風の日もありて、大自然の生命幸倍ふのじゃ。

闇ありて光の有り難さも判るのじゃ。

そのこと、しっかり、腹に入れておらぬと.これからの世は通れぬぞよ。


祈るのじゃ。祈りとは、受けて立つ覚悟であるぞ。

新しき一歩であるぞ。


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