玄徳道

道を語るブログです。

潜道

2023-02-01 20:04:00 | 神業道
密かに、潜り、道を修める。

神の道とは、他人に知られず、褒められず。誉められず、自己責任にして、見返り無く、ただ、天の命のままに、それを行うのみ。

故に、他人の評価は決して、得られない。

もし、神事にて、自己の行いを宣伝しているならば、それは、人事の行いにて、無形なる、神の道ではありません。

神の鳴る、道とは、他人の評価を必要とせず、人知らず、行うのみであります。

それは、人が、行う、修道、道を修めるについても、同様であります。

神業なる言葉が、ありますが、神は火水であり、嚼むであり、業とは、因果律であり、カルマであり、人の働きであり、合わせれば、無為自然なる実相を誠意にて、自らの自神(自身)を示す道でもございます。

その自神が示す道をに於いては、毀誉褒貶は全く無用であり、ただ、神命、天命のままに、自己だけが知り、四知なる、「天知る、地知る、人が知り、我が知る」概念を超え、「天が知っていても、地が知っていても、人が知っていても、吾は関せず、我が道を示すのみ。」でございます。

自己顕示を一切表さないのでございます。

これを潜道と呼ぶ。

しかし、道を宣せねば、広まらず。

宣道もまた、重要であります。

宣と潜。

潜修して後、宣化。

それは仙道でもあり、大切でございます。。。


潜宣の道。それから離れているかどうかは、審神すれば、お金を得ているか、いないかで一目瞭然なりでございます。

神の道に企業無し。

神に金銭は必要無し。


扨て、ブログなんかで、我が境地を述べるのも、本質からすれば、潜道から離れてしまいます。

すみません、ごめんなさい。

しかし、参考なる言葉も必要なのであります。

されど、真の潜道とは。ひたすら、潜り続けて、決して表に出て参りません。

この働きを為す者を「神仙」と申します。

天網恢恢疎にして漏らさず。

老祖の弟子であれば、日々の坐こそが、潜道であり、真坐道こそが、潜道の奥義でもあるのです。

名も要らず、地位も名誉も金も官位も要らぬ者ほど、始末に、逐える者は居ない、しかし、その者こそが、ひたすら、地球軸を支え、天軸地軸の安寧をもたらすのである。

世に、北極老人や南極老人を名乗る者がおられます。

名のすべきは、役割であり、自己主張では無いのでございます。

ああ、かむながたまちはへませ。


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伏見稲荷山道2。

2023-01-09 09:36:00 | 神業道
伏見稲荷山への登拝です。

伏見稲荷大社は観光客が多いので人の少ない早朝に参拝致します。

まず伏見稲荷本殿と奥宮を参拝。

その後、神宝神社に参拝。

大岩神社を目指します。


大岩神社。




此処の神様は、その神社の鱗型紋章から、アメブロブログ玉置の森ブログ、玉置の森さんは、蛇か龍かの話しでありましたが、この謹書を読むと実に、太陽神と関連しているようです。

三輪山の神とも関連しているとも考えます。

まあ、真実なる神は、己を名乗らず。

吾が師、至聖先天老祖も、吾は姿も形も名も無く、どのように唱えても良いとされて、おられ、金光大神(金光教の教祖)も、神様は、各自、好きな神様の名を挙げれば良いと、申されております。

しかし、此処も、あそこも、太陽の神と縁が有るとは、善きかな。

此処は、私のみ、唯一人が祀る磐座。

場所はだいたい知っているのですが、久しぶりぶりなので磐座の神氣を頼りにして探しました。

神気を感じましたが、磐座が見えなくて(早朝で暗くて)通り過ぎて、見つからず、「私の感合も迷信の部類に堕ちたかと」反省しましたら、やはり、行き過ぎてまして、私が神氣を感じた場所を、戻って、よく見たら、宇賀の御魂の磐座がやはり感合した場所にありました。ちゃんちゃん。

視覚に、頼るのは、モノの見方。それが決して真実では無い事を学びます。

道を修める者は、ひたすら見えない、聞こえない実相世界を模索しなければならないと、反省した次第であります。

伏見稲荷は、多過ぎるぐらいの多くの祠と、また、少し離れても、多くの稲荷八百万の神々を祀る塚がございます。

それを神とするは、利益を求める人の思念でもありますが。

人の欲望の数だけ、祠があり、塚があります。

かつて、稲荷山を探索した時に、その一族を隆盛させた、稲荷神を祀った稲荷塚があり、今は山上にて、誰も祀られず、廃棄された場所もあります。

当然に、真に祀られているのは、豊受大神また、宇賀之御魂ではございません。

人の利益のみに応える、キツネの相姿をした、霊魂であります。

それらは、祀られている以上、繁栄を約束しますが、一度反故にしたら、祟ります。 

両親が稲荷信仰を大切にしてきたのに、跡取りが、迷信と馬鹿にすると、その子孫に祟ります。

言わず、自己の運勢が弱くなった時を見計らい、脳内にシコリを現すのです。

祟りとは、どういう仕組みなのであろうか。

人知れず、悪意を脳内に囁き、動く。

故に祟りとは脳の萎縮であると吾師、老祖は申されております。

先祖代々の恨み辛みを受けている、人は、酒を飲み理性が弱くなると、その本性の中に潜んでいる魔が現れて、暴れます。

因縁が強く出ている人は、酒を飲まなくても人格が豹変いたします。今の言葉で言えば、直ぐキレます。

勿論、酒を飲めばそれが顕著となります。

子供でも判る正しさを理屈でも知っていますが、とても頑なに、それを拒否し、否定致します。

道理がまるで通じません。

世は不思議にて、求めれば与えられる。得られますが、されど、必ず、失うものがあるのです。

必要以上に求めない節度が大切であります。

扨て、祟りついでに私のお話しを。

私、鬼雷は、父親が自殺しております。

東京大井町のビルから、転落死。

父は借金で蒸発し、行方不明となり、長い年月が経ってから、自殺した事で身元が判明いたしました。

父の母親、私からしたら、祖母は、肺癌により亡くなっております。

真実は知りませんが、お寺の住職によると祖父は早くに亡くなり、祖母は母子家庭の為に女性を売り買う商いに手を染めておられたようで、自殺した父もその誹謗を受けていたようです。

私は、幼い日には、女性の恨み辛みの幻覚を見せられました。

人を不幸にする者には因果律が子孫にまで、確実に働くのです。

祟りに対応する手段としてば、坐にて、氣を集め脳髄を回光させること、また、神仏への信仰(神交)により、神氣と交わる事が大切です。

また、お経を唱えること、道院には神伝の経があります。

また、出口王仁三郎聖師の霊界物語も音読する事でも効果を発揮、致します。

言霊により、徐々に因果を弭化するのです。

よく、救霊とか浄霊とか除霊とかの言葉を聞きます。他者や団体に高額なお金を払い、因縁の清算を行うものです。

溺れるモノ藁をも掴む。

天地の律法があるならば、お金で全てを清算出来る事はありません。

なんせ、貨幣価値とは、経済にこそ適用するからです。

お金で神様は動きません。真心あるのみです。

そして、自己の救済は、自己にしか出来ません。神も幇助することしか出来ません。

人は、自ずから道を切り開き、因縁雲も斬り祓う道を歩む事を希望致します。



ああ、かむながたまちはえませ。




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神業なる道

2023-01-01 19:19:00 | 神業道
ああ、人類の歴史とは、戦争の歴史である。

ああ、滅びるかな、道。ああ滅びるかな、人類。

道は滅びず、人類が自ら滅びへと誘導しているのである。

この情報化社会.互いに共存する中で、善なる働きと、悪質な働きがある。

神の道に生きる者は、善悪の情報は鵜呑みにせず、ひたすら、吾が神を顕すのみ。

多くの神人は、人類の業を肩代わりして、次世代へと繋ぐ役割がある。

それは、人知れず行う御業なり。

されど、神業を繋ぐ役割があり、神界より、その是非を伺い、顕す事もある。


神の業とは、簡単に述べれば地球の苦しみを我が身で受けることである。


蓋し、人なる身でそれを受けるのは、地獄の拷問より凄まじい。

故に神もまた、それを乗り切らせる為に守護するのである。

金光大神師、出口直刀自、王仁三郎尋仁聖師、日出麿運霊師、五井昌久昱修師等はそれを為して来られました。

さて、日の本御国には、代々ロイ、口伝にて、受け継がれて来た神法があります。

その口伝の法により、一国の罪穢れを祓う事も可能でございます。

老祖の弟子であれば、先天坐と、神伝の咒や経がございます。

天皇家には、その要領の神法が示されておられます。故に天皇家による御祭祀は形だけで無く、神に届く真の御祭祀でなければ、この神威を発揚出来ないのでございます。ああカムナガラたまちはえませ。

されど、天皇家に頼らず、我が身にてそれを行えば良いのです。

人はすべからく、天と地を繋ぐ存在であるから。

それは、キリスト教、洗礼でも、古神道、禊流でも、修験道でも、教派神道でも、慈愛が窮まればなんでも善いのです。

なんせ、神業における行法とは、地球を慈しむ真心あるのみ。


吾が師、至聖先天老祖は、日本人から知られぬ神でありますが、出口聖師は、国常立之大神と審神されました。

老祖がどのような神であれ、それを信ずるも信じないも縁であります。

されど、その多くの人に知られぬ神は、鎮悪弭劫の道を示す。

私も、老祖の弟子も、道院や各地にありて、鎮道弭劫経をもって、各地の劫カルマを弭化するのであります。


神業に於いては、一個人や家族郎党の幸せは願わない。

そして、それは、国の為でもない。

地球、ひいては神の為に行うのみ。

その地域の磐座磐境にて、神々と共に御業を発揚するのです。

私的には、磐笛の精霊の扶けを得て、神々眷属神と共に為すのでございます。

無形無声の存在によりて、無形に劫を弭化するのであります。

そして、神の業を為す者は、差別心を持っては、ならない。

民族、動物、植物、昆虫、魚類、岩石などに至るまで、その宿る霊を吾が同胞とせねば、神なる御業は行えないのでございます。

私は未だにそのような心構えを得られておりませんが、本当の神伝なる御業を為すには、尋仁聖師のように、全て存在を愛さねばならない、また、出口すみ承仁刀自のように、ゴキブリと友になれる慈愛が必要であると思考致します。










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自然神との感合道。

2022-01-05 21:40:00 | 神業道
正月休み最後の日、一月四日、六甲山、日の出の神の磐座(鬼雷の自称)へ行きました。

去年は越木岩神社へ行こうとしたけれども、途中に火事で道路が封鎖されており、仕方なく、保久良神社へ行き、そのまま、金鳥山を越えて私のマイ聖地、日の出の神の磐座へ行きましたが、今回はチャンネルが合った感覚があり、赴きました。






人には、必ず、マイ聖地が備わっております。

私が初めて、神を感じたのは、宮城県仙台市です。いやその周辺。

小学生の時、義父が運転する車に母と私と姉が乗っており、私は寝てしまい、あるところに止まり、降りた瞬間に、そこに神が、居られると感じた事がありました。何処の神社仏閣であったかは、わかりませんが。

私の小学校時代の心は、世界征服を目論み、世界を破滅させようと、厨二病に罹っておりました。今でも中二病は、治っておりませんが。

故に悪の心は自然でしたが、その、車から、降りた瞬間の、神との出逢いであるかは、わかりませんが、「ああ、神様がおられる」と、感じた感動は、今でも覚えております。

太陽の光となんとも、言えない、温もりの優しさ。愚かな、小学生時代、初めての感合。

まあ、後ろの百太郎が大好きであった時代でもあります。


さて、人は神に逢いたい時、神社に行きますね。

それは、善い行いでございます。

神はあなたを待っておられます。

されど、それをさらに超えた、世界。

自己の克己により、限界を超えた、聖地。

それは、自己の善悪の因果も含み、また、天の命を晒しめす、誠の世界。自己の唯一の感合のみで会える聖地。

本当の神が坐す天地。

本当に望めば、案内される場所。

私は大阪に来て以来、住吉大社が好きでした。

しかし、奈良の大神神社は、好きでありませんでした。

ある時に、大神神社の聖地にして、御神体でたる三輪山に登らせていただきました。

その時の感動はなんとも言えない、素晴らしさがありました。

登拝して、初めて、三輪山の真価を判らさせて頂きました。

御神体である三輪山に登ると祟りがあるとか、けしからんと、不敬であるとか、それは、人それぞれ。

私は祟りがあれども、それは、構わない。それよりも、三輪山の神との神交。

登れは、三輪神仙界が拡がる。

三輪の神は、その当体である神山に登る人間を愛されておれると。

そして、神と本質とは、天地の運行。自然の生成化育です。そこに、人が交わると、天地人、神そのものの宇宙となります。

六甲山は、鷲林寺に於いて、麁乱神との出会いがあり、剣坐における、萎縮と憑依、解放と六甲大神の本質との試練あり。。。





保久良神社の八代竜王との邂逅、そして、珍彦こと、天照国照、日の出の神との出逢い。

ちなみに、弥勒とは、三十六相化身するらしい。

三輪の神。六甲の神。合わせて三六。

語呂合わせかも知れないが、わたしは三輪の神、六甲の神にも、仕えておるのであります。



此処で告知です。なんてね。

六甲山には、八百万の神々が天地人なる人を待たれておられます。

簡単にいえば、六甲の神は貴方との感合を待たれておられる。

六甲山を磐座を好きな方は、マイ聖地を持たれておられる方も、多いと考えます。

伏見稲荷大社で、例えて言えば、「必ず繋がる社がある」と言われます。

私なんかで言えば、稲荷山の大磐神社と私独自の稲荷山の磐座、そして、なんか親しむ、天龍神社。

稲荷と飯成の神。人間の衣食住を助ける神様であり、それを狐と混同するは、人間の勝手であり、神使は確かに狐の姿もあり、龍の姿もとられる。

まあ、祟りを恐れる人間は、スの神を知らず。

ス神とは、スベル神。大宇宙そのもの。

大銀河の神に親しめば、眷族を神と観る事は決してございません。


四国高知の津野山の神々に親しまれる、双子の姉妹は、確かにマイ聖地を得ておられる。

しかし、何事も悠々として得た結果では無い。

地球の痛み、人の差別を、我が如くして得た結果であります。

此処で難しいのは、人が楽して、安楽に臨む世界に神は居られないと言う事。

苦悩の最中、真剣に悩み、苦しみの最中、そこに有り難みを感じる心、そこに神が現れるのかも知れない。

個人的には、苦しみも嫌だし、病気も困る。楽して神と逢いたいが、神の道に安楽や快楽は皆無なり。

苦悩を乗り越えた、結果として、喜びを与えられるのみ。かも。

神の道は、真に苦しい道であると、出口ナオさんは、矢野シンさんに述べておられましたね。。。

「狭い門からはいれ。

滅びに至る門は大きく、その道は広い。

そして、そこから入って行く者は多い。

命に至る門は狭く、その道は細い。

そしてそれを見出す者が少ない。」


そして。


「善き種を蒔く者は、神の子である。

畑は世界である。」


この大天地の令和三年。その最中、私は思いがけず、マイ聖地を得た気になっている愚か者でございます。

それは、孤独な私を憐れんだ神の奇蹟であったのかも知れない。

ただ、道を歩めば、必ず、同行者が現れる。それは、神であり、友であり、同志である。


様々な、軌跡の最中、私にも同志ができつつある事、邪悪な私に、とっての奇蹟。

すべからく、ありがとうございます。











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天橋立道。

2021-12-21 17:35:00 | 神業道
幾億万年、奏多の中の一厘の仕組み。

多く少なく、神業を道とする者は、一重に天橋立を目指すなり。









はるばる来たぜ、天橋立。

かつて、二十数年前に、道院の修方、老祖の弟子であられた、(今もです。)人生の裏側のブログを書いておられるシタテルヒコさんに連れられてやって来ました。

彼を通して三六九神示の小長谷修聖さんも知りました。

彼は老祖の弟子であり、私の兄弟子で、彼の独特の神との感合、現臨と言われる道を歩んでおられます。詳しくはブログをご覧下さいませ。


天橋立には、元伊勢籠神社があり、その奥宮には真名井神社があり、多くの神業者が寄り付く場所でありますね。

私がシタテルヒコさんに連れて行かれた、およそ、二十数年前、真名井神社は、ひっそりと神軌をエガイテおられました。磐座の隣で坐も、出来ましたし、当然に垣根などありませんでしたね。

が、近年、悪さをする輩が多く、垣根が出来てしまいました。

なんせ、多くの人は、運気や力を得たいが為に、磐座に触ったり神木に抱きついたり、おまけに磐座に登ったりと、さらに賽銭を盗んだりと、神を畏れぬ諸行により、真名井神社には垣根が出来てしまいました。

まあ、触る、セクハラ。これは男女でも今は一般常識となります。

太古の時代であれば、視ることによって、奪おうとする、眺望。

現代では、触る事に寄って奪う、感触欲。

やれやれだ。人は既に神より宝を貰っている。

分不相応であれば、因果が働き、奪った分は衰えるなり。

残念でありますが、仕方が無いですね。

多くの人は神の機能を欲するが、神の為に働く存在は、参拝される人の三厘(3%)しか居ないのでございます。

「此処の神はお陰を求める神ではないぞよ。」

さて、天橋立とは、私の神業の源点であります。謂わばルーツ。

私が水業を初めたのも此処が原点。


真名井神社の神水を各所(引き篭もりの鬼雷が出来る範囲)に神交いたしました。


私が初めて磐笛を授かったのも此処が源点です。




天橋立海岸にて、手に取った石を海で洗ったら貫通した穴がある石でした。貫通した石笛は音を鳴らすのが割と難しいのです。授音する迄に苦労致しました。



再、はるばる来たぜ天橋立ぇぇぃ。

引き篭もりの私からしたら、最大限の遠出なり。

本来は、神を満たす方と来る予定でしたが、天候の不順により、また、私の独自の神業の為、独りとなりましたが。

小長谷修聖さんも本日は地鎮祭と忙しく会えずじまいでしたが、私は人に逢いに来ている訳でもなく、ただのあかんやの左官屋が、仕事をさぼり、いや、腰痛養生の為に、いや、真名井の神と交わる、信仰(神交)の為に来たのでございます。

それだけだ。です。

今日は日本晴れ。









天橋立駅から徒歩で元伊勢籠神社へ向かいます。。。












途中に、天橋立神社があり、お参りします。

此処で水業。今回はダンノダイラの水源の水から住吉大社の大海神社の井戸水から、天橋立の磯清水と真名井神社の御水と気が移りました。












元伊勢籠神社です。

正直、私は此処では何の感化もありません。

私は三六九神示を受ける為に、籠神社の会員となっていて、今日年会費を納めました。

参拝後、真名井神社へ。











真名井への参道から途中かなり、気持ち良くなって来ます。和らかく暖かい気が充満しております。







いやはや、天罰覿面。

無意識に看板の写真を撮ってしまいました。ごめんなさい。此処は撮影禁止です。

三輪山も登れば撮影禁止となります。

人間のモラルが酷くなると、垣根が出来る結果となりますね。

本当にすみません。

ただ、敢えて載せたのは、此処は太陽の神。月の神を祭る斎庭であり、太陽の神は日の出の神。月の神は龍宮の乙姫であり、日月が交わり、生物が生誕した真実が有るという事。

国祖国常立大神。豊雲野大神。の元のニ神の降臨された地であると云う事。

此処で磐笛 祝詞 経 咒を奉唱。

平日なのに、割と参拝者が多くおられましたが、恥ずかしさを消して、年に何度も来れないので、精一杯、吹き、経を挙げました。

来られた参拝者の方々、変なおじさんが怪しい事をして申し訳ありませんでした。

最後に私が秘事をしようとした所、誰もいなくなり、神との黙契を果たして、良かったです。自己満足です。

帰りに天橋立海岸にて、天の石笛を賜りました。

貫通している磐笛でございます。

冠沓の元の宮より現れる伊吹を込めれば音霊と鳴るなり。

天と地と人と音玉交われば全てを和ます誠と成らん。

古きより待ち続けたる神の笛誠の人の共に歩まん。

鬼雷の事では無いので悪しからずでございます。







神の道 安心安楽 事外れ 厳しき道なり 吾を磨く道なり。














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