玄徳道

道を語るブログです。

令和四年七月 三六九神示。

2022-07-31 00:11:00 | 神示道
七月七日は豊(十四)受大神にも、龍宮にも縁り深き日であるぞ。

昭和五十二年六月二十七日、丹波小多利の小富士山神社で、七年間開けてはならぬと玉手箱に封をさせたぞよ。

それから七年経ちた昭和五十九年、修聖には、但馬豊岡から十八年ぶりに丹後へ帰る事となり、その導きは、小富士山の木花開耶姫でありたぞよ。

そしてその年七夕の七月七日午後七時より、玉手箱開きの神事に仕えさせたのが龍華館の七夕祭の始まりであり、この年で三十九回目の七夕の祭りさせたぞよ。

昭和五十九年七月七日龍宮玉手箱開きの神事は、それより世の元の天橋立真名井原籠宮を世に出す道の開きの始めとなりたのであるぞ。

修聖には昭和四十一年神事の道に入らせ、様々の五用に仕えさせてまいりたのは、その為でありたぞよ。

目に見えぬ神界の四九三は始め雛型で現しそれより実地の事と現れるのであるぞよ。

明けて昭和六十六月六日には真の天照皇大神を祭祀(まつら)せて、三六九の世の近まいりた事を示したぞよ。

昭和五十二年は奇しき年であって、その年六月二十一日(旧五月五日).大本金龍海の神業の折、出口直殿、龍宮乙姫の姿で現れ、一巻の筆先を修聖に渡したが、その証しと、その年八月豊岡伏の白髭すえ殿、直筆の筆先を豊岡、光の道へ持ち来たりたぞよ。

(注 光の道=兵庫県豊岡市の宗教法人。修聖昭和四十一年十一月、二十三歳の時から奉仕する。)

その筆先には「りゆう九んのおとひめ ひのでのかみとあらわれる せかいのとどめのことであるぞよ」記してあり、この筆先の神意を実らすのが龍華館の役目であったのであるぞ。

五十九年七月七日、龍宮の玉手箱開きの神事以来、神業は進み、平成の世となり真名井原籠宮の整備も因縁の御魂等の奉仕で進みて真名井神社の建替、正殿遷座の祭りもなされ、平成三十一年(令和元年)籠宮の大神輿六十年ぶりに出御の仕組みもなりて、いよいよ天照国照日の出の神の御現れの四九三が成りたのであるぞ。

(注 天照国照神は日の出の神であり、龍宮乙姫は瀬織津姫の神でもある。)

その頃より世界に新型コロナが蔓延し始め、コロナとは太陽の光冠であるから、日の出の神の出現と関係があるぞよ。

神が世に現れたら、すぐ良い事が起こると思うのが人間であるが、神が表に出る程、浄めは激しくなり、思いがけぬ事も起こり、それによって体主霊従と化しておる人民の改心を迫るのであるぞ。

人民知恵学に思い上がり好き放題の言動を重ねておれば、世は行きづまりてしまう故であるぞ。

未だに戦争をいたし殺し合い国取合戦を致しておる哀れな姿であるぞ。

皆皆助け合いの精神となれば世界は未だ未だ善くなりて地上天国、三六九の世となるのであるが天地の恵みは、むさぼりながら感謝をなさず、生命の元の神ある事を忘れ、我が身や我が国を守らむために、人類滅亡の元のなる核兵器にしがみつき威嚇しあっておる世界の様は、真におろかな事であるぞよ。

今世界は米中ロの三つ巴の覇権争いの大渦が巻き、日本もその狭間で渦に巻かれた船の如き有様であるが、国の頭もしっかりといたさねば、調子の良い事ばかり言っておると、まさに渦に巻き込まれ思いがけぬ事も起こるぞよ。

先の大戦で大きな犠牲をはらい、もう二度と戦争はせぬと神に誓いし日本であるぞ。

その事忘れては、渦に巻かれ大国の属国にされてしまうぞよ。

龍宮の乙姫と日の出の神とつれそりて現れるという真意をしかと覚り世界平和の要と立つ覚悟をいたさねばならぬ日本国であるぞよ。

(注 日の出の神、龍宮乙姫つれそりて現れるのは男島女島の仕組みであり、世界平和の要である、日本の神命の覚醒にある。)

陰謀策謀に振り回される事無く大義名分の真実に目を開かねばならぬぞよ。

満天の星の中、北天に輝く北極星、北辰の神界は人類に狂わぬ神理の道を伝えんと働いておるぞよ。

さあ・・・・・今世界は伸るか反るかの大阪にかかりておるのじゃぞ。

それぞれの御魂の使命や職業の果たしに、はげみつつ、その中に人類利己主義、体主霊従の道を改めねばならぬ時に到りた事を、しっかりと覚らねばならぬぞよ。

核兵器にしがみつきて我が身我が国守らんとするような、おろかさが、人類の滅亡の道となる事に早く気づけと時鳥(ほととぎす)血をはく思いで人類の行く末を案じさえずりてあるのじゃぞ。

荒れる世界に和の尊さへの良き鏡を示さねばならぬ、ぐるりと龍宮界が守り、東方の日の出の国の日本であるぞ。

くどく、くどく申してある事、おろそかにいたしておると、足下から鳥が立ち腰をぬかさねばならぬぞよ。

我が身の倖せを願うなら、人の倖せを祈るべし。

利己主義の強い者勝ちの世は、次第に崩れてゆくのじゃぞ。

人を多く殺せば勝ちの戦争は、もうやめねばならぬぞよ。

赤き辰も赤き鬼も、もう夜では無い、日の出の世、昼の世であるから陰に隠れて悪事は出来ぬぞよ。

水火土(しほつち)の翁が取り次ぐこの神示良く聞けよ。

七月七日には、福島弁天も祀らせたぞ。

神戸の地震、東北の地震、福島原発の損壊…。

新しき世の始まりの氣づけじゃぞ。

さあドンドン鳴りひびく時告げの大太鼓、御魂の耳で、しかと聞き、真言誠(まこと)の道を歩むべし。

言霊神也 ン。

令和四年七月八日

天橋道士龍華斎 修聖拝写。



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令和四年七月八日 小長谷修聖  三六九神示霊視篇。

2022-07-30 11:49:00 | 神示道
どこかの大きな城の太鼓櫓で鉢巻をしめた、すきがけの武士が三つ巴の紋の描かれた、大太鼓をうっておられ、それは出口王仁三郎聖師でした。

緊急の招集のふれ太鼓のようで、大勢の裃(かみしも)を着た武士が大手門から城内に急いで入って来ました。

その城は秀吉時代の大阪城のように感じました。

先の大太鼓の三つ巴の紋が段々大きくなり、渦を巻き始め、その渦は大海原の大きな渦となり、その渦の中に巻き込まれそうになり、日の丸の旗を立てた小船がただよっていました。

(注 出口王仁三郎聖師の御魂は現の世の救世神でもある、瑞霊素戔嗚尊の系統である。

三つ巴の渦は、世界的には米中ロの世界を自在にせんとする覇権の大渦であり、その三大国の狭間にある日本は、大海原の渦に巻き込まれんとする小船の如くであり、しかりせよ瑞霊の顕身出口聖師が警告を発しておられる様であろう。

しっかりせぬと日本にも厳しい神の警告がある。

大阪城は世の大峠、大阪(坂)の意である。)

次に丹後の天橋立と丹後久美浜にある、橋立に似た小天橋(日間浦の松原)が見えました。

(注 天橋立は、天地を結ぶ縦の理合であり、そこには真名井神社籠神社がある。

久美浜の小天橋は夕日ケ浦の旭の間にあり、要するに日間であり、緯(よこ)であり、熊野の元甲山がある。

天橋立日間松原結びて十字となり、要国(かなめのくに)丹後の証し。)

次に佐渡金北山の満天の星の中に、一きわ北極星が輝いてました。

(注 北極星即ち北辰の神界は現の世に向けて、狂わざる神理を示して給わる。

その神理を見るものを妙見と言う。)

(注 元首相、安倍晋三氏、奈良西大寺にて銃撃を受け龍宮神界へ召される。令和四年七月八日午後五時三分)
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至聖先天老祖訓 坐道奥義、凝神調息。

2022-07-26 20:28:00 | 道院

道は修坐を以て帰根復命の源(もと)とする。

坐は凝神調息(神を凝らし息を調える)を以て収視返聴の要訣となすのである。

修方は求修(老祖の弟子になる)した最初に、坐院掌籍(教坐を許された指導者)によって修坐と竅の指導を受けたのであるが、これは、後学にとっては、一生涯の成敗に関する重要なキーポイントとである。

すべての修道の過程、坐の意義については、努めて詳細にわたって解説すべきであり、これを勝手に指示してはならないのである。

何を帰根と言うのであろうか、それは混元の始めの先天の炁に帰ることである。

何を復命と言うのであろうか、それはをその先天の本性に復えることである。

坐に臨んでは、先ず凝神調息して、心神を収摂し、意念を黙視し、虚無の竅(無形の竅。人身の部位に、意識しない、着想しない。悟って覚えることのみで発露する)を返り観て、以て気息の往来を聴くようにするのである。

以上述べた事については慧心(無相の理を悟る心)のある修方であれば、直ちに、これを理解することが出来る。

しかし、悟りは悟りで別である。


また、能(よ)く解説することが出来ても、己自身が坐に臨んだ時には、多くが茫然として、その実を履行することが出来ないのである。

いわゆる言うが易く、これを行うのは難しいのである。

まして、中下のたぐいの者は、それこそ、求修して、長年にわたり、毎日間断なく坐を続けていても、この修の道程、坐の意義については茫然として理解していない者が多いので、ただ、坐りさえすれば、それで事終われりと思っているのである。

嗚呼、このような修坐をして、一体心身において、何のプラスがあるというのであろうか。

故に坐に臨んだ時は、努めて、心を放下して、凝神調息し、収視返聴を以て入門の第一歩の工夫となるのである。

それには軽々微々として以て、気息の往来を聴くのである。

この、聴の一字を軽視してはならない。

もし、気息にすこしでも浮操するところがあれば、自分自身の元神もまた、必ずこれに従って消耗散失して、本竅に返って、煉丹の主宰となることが出来ないのである。

坐功が長年に渡って深い者は息を聴くことができ、有のようでもあり、無のようでもあるという際は、これ凡息(普通の鼻からする呼吸)が將に停止して、胎息が現れようとするときで、本心もまた、見ることができるのである。

ただ、心の物(心とは物欲に偏り易い)となるや、非常に霊妙にして最も走りやすい。

そこで、必ず気を以てこれを純化するのである。

もし、息を聴いて以て心神気息を収摂することを知らなければ、神を凝らすことは難しく、息を調えることも難しく、元神もまた、終(つい)には心息と相依ることは難しいのである。

故に、息を聴くという一つの方法は神を凝らすところの要訣である。

もし、能(よ)く神を以て気に入れ、息を煉って神に帰すれば、清気は自ずから昇り、濁気は自ずから降り、一身の内外は自然に清く寧(やす)らかとなり、身は清く体は寧らかな候に至ることが出来れば、清空の気は時々(つね)に吾が一身の上下内外の間をめぐっていることを瞥見することが出来る。

これは、胎息の発動だけに止まらないのである。

この時には、とりわけこの胎息が尋常のものではなく、乃ち未生以前の元気であり、既生以後の真霊であるということを知らなければならない。

そこで心にこれを得れば体となり、性にこれを得れば用となり、天に在りては枢となり、地にありては軸となり、人に在りては帰根復命の原(もと)となる。

人として、聖を希(ねが)い、賢を希い、天を希おうとするのであれば、この胎息を捨てて、外に造作する道は無いのである。

吾が道は、百年以来、各地の修子で能く、この意義を明らかにしている者は千人中で〇〇人だけである。

法会が満期となるとき、諸子はこの修途の坐の意義において、詳細に精しく研(きわ)めるので、時機は再び来ないので、各々は慎んで悟るべきである。

要するに静功が、虚の極静の篤き候(注)に至り、ただ、この心が識ることなく、知ることのない地をあきらかに照らすことが出来れば、則ち、神と息が立ち、気は神に従って融合し、先天の一団の胎息は、自ずから識ることができるのである。

(注 老子は道を養い、玄を求める方法を人に示して、「虚の極を致し、静の篤きを守り、吾以てその復を観る」と、これは明修の士が玄関を得ようととすれば、ただ浮華を収歛して、一に篤実に帰するだけで、神は虚に凝らし、気を静かに養い、虚の極を致し、静の篤きを守れば、自然万象ことごとく空となり、一真を抱いている、故に易経では復は、それ天地の心を見るかというのである。)



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出口日出麿運霊道、うわずべりの学問。

2022-07-21 19:49:00 | 天道





一昨年の秋のことです。

亀岡の光照殿が九分九厘出来上がって、二千貫(七千五百キログラム)もあろうという庭石を、山の手から庭へ引っ込もうとした際のことであった。

大石をのせた木馬の梶をとったのは、当時天恩郷で献労していた、開安国(ひらきやすくに)氏であった。

斜面の板橋の板橋の上をスルスルと滑り始めたと思う途端、あわやという間もなく、開氏の足よりも車の方が加速度で滑り出したからたまらない。

梶棒の手をゆるめるとともに、車の角で、身体全体が跳ね返されて、反対側にのめってしまった。

それを下敷きにせんばかりにして、スルスルと車は下まで滑り落ちた。

見ると、開氏の身体は、あたかも蛙を地上にブチ投げたようになって、もはや、虫の息であった。

そこへ、出口王仁三郎聖師が飛んで、お出でになって、渾身の力を込めた、ご鎮魂になった。

その時、師の頭髪は、ほとんど逆立ちになっていた。

「ウーン」と言って、開氏は目を見開き「痛い痛い、背中が痛い!」と連呼した。

見ると右の肩の下の背部が赤に染まっている。

聖師は開氏の口に何やらお含ましめになり、お館にお帰りになったが、それと同時に発熱されて、ちょうど、開氏の瘡所と同じ箇所が終夜痛むのであった。

さて、開氏は、そこから戸板に乗せられて、宿舎に運ばれ、招電によってその夜、綾部より来た整骨医安井氏の診察と結果によると、右背の肋骨が三本折れているとのこと。

その夜、安井氏は、病床につきっきりであったが、開氏の苦痛が案外少ないので、奇異に思われていたが、翌朝になって、出口聖師が昨夜は大変な発熱で、右背が痛み通しであられたと言う事を耳にして、「なるほど」と今更ながら、生き神さまの感を深くしたそうである。

私はその際、そこに居合わせた者であり、なお、出口聖師の身体は、始終、こういう事があることを以前から知悉しているので、別段、事新しいとも何度も思わなかったが、始めてこんな事実を見た人達は、随分不思議な、有り難いことに思って、固い信仰にはいったそうである。

これについても、私は始終思う事であるが、今の世の学問はあまりに、上滑りで、その範囲も案外狭いものであり、霊的干渉、霊的相応という事実については、ちっとも分かっていないと
言う事である。

出口日出麿。

鬼雷述べる。

物事には、必ず道理があり、事に終始あり、先行するところを知れば即ち、道に近し。

ふむ。世には、皆が知る現実世界があり、蒙昧な想念世界、霊界があり、ふつう人や霊能者には、見えない聞こえない理解できない、釈迦やキリスト、モハメット、孔子、老子が到達した、実相世界がある。

吾が師、老祖(至聖先天老祖、太乙老人、天帝老祖、大国常立之大神)は、先天後天を明らかにされ、人の天命を悟る道を明らかにされた。

人の霊明は、その神を存し、その気を充すことで、精が結ばれる。

精が結ばれれば、神が凝り(神が集まる意)、神が凝れば、性は善となり、霊は明らかとなり、炁は充ちて、後天より、先天へと返る。

先天の三宝とは、炁 霊 性であり、性は炁の体であり、霊は炁の光である。

後天の三宝とは、気 精 神であり、精は気の体であり、神は気の光である。

三宝とは何ぞや。人が道を修める。修身する。坐する。修業を通じて、遍く、誰でも得られる、神が与えて、賜る宝であります。

大本教では、鎮魂を病気治しとされる意味合いがあります。

鎮魂とは、轉霊の法であり、審神の本筋であり、神を結ぶ機能を有するのであります。

故に鎮魂とは潜修、即ち、人知れず、行う道であり、鎮魂石を以て転霊の業を磨くのであります。

鎮魂法で修練が積むと、鎮魂印を組まずとも、人差し指で病を治したり、扇の先を当て直したり、活用は自在となります。

世界で羽ばたく、ケンヤマモトさんの一本指整体の本質とは、彼自身は、熊本の震災のボランティアをされていた時に、天から降ろされと言われておられましたが、正に鎮魂の法であると考えます。

先天老祖は、六万年前に先天の炁包により、遍く全ての生命を救われました。

出口尋仁聖師もまた、鎮魂により、自己の性霊を削り、瑞の御魂の如く、多くの人々を救われておられました。

実際に、その場で人を癒す力とは、不思議でも何でもなく、誰にでも備わっている機能でございます。

しかし、同じ動作をし、治せる治せないの不明が起きるのは、物事の本質を悟っているか、いないかと違いによるものと考えます。

多くの人は、人を救って有名になろうとか、欲が絡むと蒙昧となり、その転霊を活用する事は難しくなります。

また、人を救う前に、吾が身を救われなば、本源にたどりつかず、また、無私な心でなければ、虚霊は働かずです。

出口王仁三郎聖師や出口日出麿師のご鎮魂は、限りなく、愛ありて、他人の苦悩を我が身に受け入れる度量が神に近かった所以でございます。

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出口日出麿運霊道、日本人の使命。

2022-07-14 19:09:00 | 神示道
日本人はまだまだ、一番、日本の有難い国であり、日本人の得難い人種である事を自覚していない。

日本では、古来、八の数を数の極とし、中国では九、アイヌ族は六なりという。

(鬼雷、運霊導師の言語に感化を受けて述べる。

出口日出麿運霊導師は、大本弾圧により、その日本人に拷問を受け虐待され、精神に異常をきたされた。

本源に還り、日出麿運霊さんの元親神の日の出の神も同様に太古より、虐待を受けてまいりました。)

日の出の神に奉る歌。

「みこのかずにはいらずと

太平洋の一つ島

よもつ島にながされし

那岐那美ニ神のご総領

あしにまかせてあし舟の

世のことごとを経(へ)めぐりて

いつかはみよに いづのめの

深きしぐみの玉手箱

あけはなれたる朝ぼらけ

不二のみ山に立つけむり

げに日の本の神姿なれ。



竜宮城の乙姫と

誓いも深き海の底

底ひも知らぬ皇神の

情けのむちにうたれつつ

家なき里に帰りては

心もとぢぬ冬氷

春風ふけよ東風来よと

待ちこがれたるみろくの世

一度に開く白梅の

かをり床しき朝(あした)かな。



三千歳に咲くてふ桃の今年より

開きそめけむうれしさを

何につつまむからごろも

たもとゆたかに舞はむかな

袂ゆたかに舞はむかな。


(鬼雷述べる。最近は、日本に住み、日本人として、暮らす人を在日として差別化をされる方もおられ、また、コロナワクチンを悪の元種とされる方もおられ、また、亡くなられた方の死に方がおかしく、死んでいないなどと述べられるお方もおられ、日本のマスコミは嘘ばかり述べて、真実を話していないなどとあります。

私は坐の道を歩んでおります。現の世で得られる情報、人の欲による動静、世界の陰謀、政治の利権、宗教の特権、自然破壊による利益、人種の思想による欲望の数だけ、さまざまな人の傲慢さを感じます。

全ての人が幸せになる想念が出ておりません。

善意のようで悪意で、開く情報操作、その逆も然りです。

そして、自分が納得した、偏った情報を鵜呑みにし、赴くままに流されております。

坐の道は虚に帰る。産まれる前の胎児の真奥に帰る。それだけです。それを一と申します。

一とは何か、無欲。無欲ゆえに無極に立ち、太極を演じる。

無欲では、何に対してもありがたしと、あるのみで御座います。

情報操作もどうでも良し。

故に、出口日出麿さんが言われた、日本人の特殊さを、日本人が八百万の神々に通じる霊的咀嚼力を素晴らしいと考えます。

何故特殊なのか。全ての宗教が喧嘩せず仲良く調和出来るからです。当然に歪み合もあるのでしょうが、そこにおいても、外国と違って殺し合わないからです。今現在は。

日本では、宗教戦争といえば、天草史郎による島原の乱があるかもですが、当時のキリスト教は外国の手先となり、キリスト教を餌にし、植民政策が横行しておりました故に、故に、神がその様な戦争も起こってしまったと考えます。

未開族にキリスト教の感化を与えつつ、尚且つ植民地にするは、神の道ではありません。人を不幸にする覇道で御座います。

私は日本人の定義とは、日本に住まう全ての人(外国人も含む)であると考えます。

長い目で見れば、日本とは土着の原住民と渡来人、漂流人、全ての地球人の血が集まっている交じる民族であると考えます。

天皇もかつては、渡来人の末裔でして、土着の日本島の民族人ではありませんでした。

つまり、日本の神々は全ての地球人を、いや、宇宙転生と言われる人々もおられるようで、全て霊的基準を持ち合わせている宇宙人地球人がこの神島なる日本に集めた仕組みが御座います。

姿や色、人種に差別化なく、日本に住まう人を日本の神々に因られた、日本人で御座います。

そこには当然に、善種あり、悪種あり、邪種あり、聖種あり。

美醜善悪聖邪全てが寄り添う。


三千世界一度に開(八)く梅の花。

私は日本に生まれた事に感謝致します。

例え給料が安かろうとも、ごろごろ出来る日もたまにはある。飢えに困らない。神様がおられる神社が近くにある。

家族を愛し、本当に愛するは、他人なる伴侶なり。

妻や旦那を生涯大切にすれば、不義や不倫なんて起こるはずはありません。

家庭の平和は、世が乱れぬ道でございます。

逆に家庭が平和で無ければ、世が乱れるのでございます。

そして、家族の平和を唱える宗教もあります。
お金がかかる宗教は、商売です。もうかりまっせ。

神様にお金はかかりません。

宗教にお金がかかるとは、幹部が贅沢する為でございます。

真の宗教人とは、自ら正職を持ち、ボランティアで神に仕え、人に施しを与えるのです。

もし、貴方が信じる宗教の教主が、信者に食わしておられるのであれば、それは偽者です。

かつて、大本教の出口王仁師は、黎明時代の大本信者(当時、集団生活をされておられた。)を食わせる為に必死で働いておられました。

日本人は幸せであります。
そして、足る事を知れば、人は簡単に幸せになれるのが日本で御座います。

即ち、大和魂とは、大調和力であり、八百万の神々が一つとなりて、結ぶ。

今の人は「道」を聞けば大いに笑うと。

道とは、修身であり、克己復礼であり、自らの本源に還るにあり。

そして、神国、日本だからこそ、神人合一の道が現臨し、人の神の斎庭なる、神社が多くあられる。

今の人は、幸せとは、物欲嗜好であります。

しかし、道を歩む者は、神と繋がれる事が本当に、真実の快楽であり、瞑想を超えた、超至福の道であります。

出口日出麿さんは、残念ながら、魔の殲滅のカルマを受けてしまいました。

善の相反する力による贖い。イエスも然り。


要するに私が悪かった。小さかった。

まだまだ、幼稚園へはいったばかりだ。

これから懸命にみがかねばならぬ。

瑞の御魂さまの大慈大悲が、この頃になって、心の底から分からせていただきました。

こんな私のようなものにさえ、かように迄もいろいろとして、お救いあげ下さるのかと思えば、立ってもおられぬ気持ちになる。

なんにも分からぬくせに、いっかど、分かったつもりでいた事を恥じます。

一切は、これから、やり直します。

非常に愉快に、有り難く驀進いたします。

神さま、どうぞ、どこまでもお目をかけ下さいませ。

出口日出麿運霊。







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