玄徳道

道を語るブログです。

磐笛道

2015-10-10 19:53:52 | 奇道
正道に不思議なく、大道に奇なし。磐笛は、奇道。奇道と称する由縁は、奇なる文字を分けると「大」は上であり「可」が下にあります。大は、人を意味し、可は、不安定の意味があります。二つの組み合わせは、人が定まらず揺れるを意味します。言わば人の能力を超える神妙であり不可思議な道でもあるとも言えます。

磐笛。そして、磐笛道とは、本質を語れば、無益な道であり、無益な作業であります。
多くの人は、磐笛、岩笛、石笛は、吹けば、神秘的な、働きがあり、善い事が起きるとか、神が懸かり、超能力を得るとか、病気を癒やすとか様々な願望を掻き立てるかも知れません。しかし、磐笛を吹いても、神懸かりや、奇跡を起こりませんし、磐笛の精霊も、お陰を、下さいませぬ。磐笛を吹けば、幸運は、訪れませぬ。全くの妄想であり、現代人からすれば、無意味であります。

しかし、この無意味にこそ真価があります。古来より、無益な、作業は、有益を凌ぐ事がございます。これを、奇術と申します。有から生まれる有よりも、無から生まれる有のほうが各段に有益なのであります。

磐笛は、石笛、岩笛とも、書きます。ネットの世界では、検索したら、様々な、定義があります。縄文時代から、人と神が交わり、磐座、磐境、海、山、川や、とてつもなく、古い年月を経た樹木に対して、祭りの為に石笛を吹いたりします。あるいは神卜の為に吹いたり、癒やしの為に吹いたり、神降ろしの為に吹いたり、と様々であります。

近年では、日本霊学、中興の祖とも、言われる、本田親徳翁が磐笛を神のために使われました。親篤翁は鹿児島の人で、稲荷の眷族による神懸かりの少女を見たことから、霊学にのめり込み、鎮魂法と、帰神術を確立しました。その際の神懸りの、手段として、古事記における、神功皇后の神懸かりを模索し、古事記に書かれている琴に替えて磐笛を流用したのが、有名であります。

磐笛とは、石に穴が空いております。「石に自然の穴ありて、吹けば唱すもの」。が基本であります。

穴には、種類があります。石に空いてある穴が貫通している石と、石に穴が空いては、いるが、中途に、空いておる石。貫通していない石です。

穴が貫通している石は、貫通自在。神通りと成ります。吹き抜ければ神の石は、その意志を人に委ね尊重します。

穴が中途である石は、エネルギー源を溜め込む石でもあります。氣が溜まれば溢れる。これは元気の底上げとも成ります。

磐笛に於ける穴には、一つ穴もあれば二つ穴、多数に空いている穴があります。

穴の数は授かり主に呼応します。多才な才能が有る者には、無数の穴が授かり、二つ穴であれば、陰陽の働き有るもの、私のように一つ穴のみ授かる者は単細胞、良く言えば、一神なる御中主を信仰する者です。言わば御魂相応に出逢うと言う事であります。

私が京都の貴船にて、拝受した、磐笛には、中途の穴と貫通した穴、両方がありました。mixiの友に差し上げましたが。
また、京都の松尾大社の磐座の御前にて、磐笛を発見しましたが、中途な磐笛でしたが、御前にて、奏上。しかし、松尾の神奈備山にては、自然物、残らず、拾い、持ち帰り禁止ですので、磐座御前にて、置いてきましたが。

余談になりました。

磐笛とは、精霊石でありそれ自体が人と同じで、小宇宙を顕しております。
そして、磐笛の定義とは、「石に自然の穴ありて、吹けば唱すもの。」

霊学の大家、友清歓真翁は、「岩笛は、本来、鎮魂石と同じく、神界から、奇跡的に授かるものであるけれど、仮に相当なものを尋ね出して用いてもよろし。普通は、人のこぶし大。鶏卵大の自然石で、自然に穴が開いたのを用いる。」

霊積真人、出口王仁三郎聖師は、「天の岩笛なるものは、一に天然笛と云い又、石笛とも称えて、神代の楽器である。之に口をあてて吹奏するときは、実に優美なる声音を発するものである。此れ岩笛を吹奏するには余程、鍛錬を要するのである。」

ちなみに、本田親徳翁の岩笛は、二つのこぶしを合わせたくらいの大きさのもので、穴は斜めに抜け通り、少し青みを帯びた黒色のもので神光奇しき逸品であったという。貫通自在、神通りの石であったようです。

私が初めて磐笛を吹いているのを見たのは、十数年前です。知り合いと丹後の元伊勢籠神社と真名井神社に行きました。そこで宮津市に住まれる丹後の神人、三六九神示の小長谷修聖氏のもとを知り合いが親交があるので訪ねことによります。

修聖氏は、霊覚者で当時、阪神淡路大震災を預言された事で一部の神業者の間で知られる存在でした。

修聖氏の自宅で会談後、神殿に案内され、磐笛と言霊歌を拝聴したのです。
知り合いは、そこで修聖氏から磐笛を貰っておりました。私は、内心羨ましかったのですが、知らぬ顔をしておりました。

私が初めて、私の磐笛と出合ったのは、十年前に家族と京都の天橋立へ日帰りで旅行に行ったときです。天橋立海岸には、少なからず石があります。当時から、何気に磐笛を探しておりましたが、穴の開いた石など、なかなかありませぬ。海岸沿いを家族と散策しながら、無意識で、砂に埋もれている石を拾いました。その石は、卵二つ分の石で真ん中に一センチぐらいの穴が貫通しておりました。上から、下にかけて、細くなる穴です。

磐笛得て吹きましたが、空気が抜ける音がするだけで、音はなりませんでした。相当練習しました。ある時、音を発しました。
貫通しない、中途な石は、息吹を逃がす時、音が鳴りやすいです。
貫通した穴は、息吹が抜けるので、唇を密着し、息当たりにより、音が発生します。

音が鳴りだしたら、音階を授かると申すようです。即ち授音です。

二度目の磐笛との出合いは、奈良の丹生神社下社、側の丹生川にて、拝受。川の中で見つけました。おそらくこの磐笛は、元は、土器や瓦のかけらが、自然に風化したものです。貫通した石であります。

三度目は、京都の貴船神社、側の貴船川。二つの磐笛を吹いて、気がつくと隣にありました。この貴船川は磐笛のメッカでありまして、貫通、中途の石が多いです。貴船山に登った時も、同様に奇岩を多く見つけました。

その他、私が磐笛を賜った地は、伊勢の五十鈴川。京都伏見の稲荷山。大阪住吉大社。兵庫県の廣田神社。奈良の三輪山とダンノダイラがある巻向山の間にある渓流。

磐笛とは、人が見つけなければ、ただの石です。しかし、それを見つけ、磐笛とするは、人の真心、そして、神器、神具となります。精霊石である 磐笛達は、実に聖人、賢人、神人を待っているのです。

霊能者の世界では、石に霊が寄り、自然石は、持ち帰るな、磐笛を吹くと霊が寄りやすい、などと申される方がおります。
そもそも、太古の時代、神と人は、一体でありました。当然、霊界の存在も希薄であります。人類の歴史と共に霊界は発達し、人の心は、幽霊や動物霊に心を奪われ、知識の発達と共に迷信を生み出し、霊界もそれに感応しました。即ち、霊や霊界とは、想念界です。人が生き、心で思念するエネルギーが、溜まり霊界となったのも真実なるたとえであります。
人が、神なる魂と肉体との間に思念を持つようになり、今の人間ができたのです。ゆえに、人と神に間があるから、人間なのです。人は、心を尊重し神に依存し、自己の内なる神に見向きしなくなった由縁でもあります。

基本的に、石とは、無機質であり、先天的元気が備わっております。そこに本来は、霊の介在は、ありませぬ。

何故に、石に霊が寄りやすいと述べるのであろうか。

石に寄るのではなく、人の心に寄るからであります。霊界とは、想念界。悪魔や邪気が嫌いと憎悪、意識するだけで、そのものが寄り付く世界です。人は、偏った知識で生きています。全ての人は本来、皆、霊能者ですが、それを特別、特種と考え、霊能者に依存し尊敬し畏敬をされる、人間が多いのが実情であります。

磐笛を吹いたから、霊が寄るのではなく、吹き手に、神に通じる、真心なく、誠をあらわせず、その吹き手の、心のありようが、表れるだけなのであります。

多くの霊能者は、すぐに、霊云々を持ち出すのは、御魂相応に、自己の心が霊界に通じるだけの話しです。

神に通じる者は、霊を語らず。道を明らかにするのみです。

霊に通じる者は、神を語るに奇異を持って誇りとし、人には、霊を以て、脅し、自己を貴いと尊敬せねば、短気を発するなりです。


磐笛を神社で吹き、いつ頃からで、あろうか、磐境、磐座で、吹く事が、楽しくなってきました。そこには、望みなく、願いなく、吾と磐笛、そして、磐座のお互いの宇宙を顕し、交わる、無形の感合あるのみです。

磐笛と音は、ピ~と鳴らすのではなく、ユ~と鳴らすのが良いと先人は、云われておられます。私的には、磐笛には、穴の形がそれぞれで形違いであり、息吹に相応する世界で在る以上、音は、自然のまま、が一番であると考えます。吹き手が、誠を掲げ真心込めれば、ピ~であろうが、神に通じるのであります。

「故、その八重事代主神は、天岩笛を
製りて、皇美麻命に奉りて、祝ひ給ふ。」

「これほど、自然が作り上げた物で面白い物はない。」



平成二十九年十二月三十日。誤文の訂正と文書を加筆いたしました。
コメント (8)
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