玄徳道

道を語るブログです。

令和五年十二月 三六九神示

2024-01-26 18:12:00 | 神示道
令和五六七の年、元なり、始めなら五年も後、一ヶ月となりたぞよ。

六の年のめぐれば、六は万象崩壊、破壊と建設の動き激しく、地球、又、社会の修理固成厳しくなると示しておくぞよ。

扨ても明治二十五年旧正月、国祖国種立大神、三千年封じられて居りたが、世に出る年月契りの時来たり、丹波綾部の出口直殿の手を借りて、世の元の艮の金神の世が返り、梅で開いて松で治める五六七の世を開くと、膨大な筆先(神示)を現し、筆先の後も様々な神示(日月神示など)に神界の仕組みを現し、人類に伝えるべき事は皆言うてあるぞよ。

この年は令和五年(霊和五年)と言う、真に大きな節目の年であり、世界にもそれぞれの身にも、厳しき因縁が現れたが、ロシアとウクライナの戦争、中東の紛争、罪無き人民犠牲となり辛く悲しの事であるが、我が身が勝ちて、主張を通すまで、戦うなどというものであれば、人類は何ともならぬところまで、世界は荒れるぞよ。

六の年となれば、世界には大きな渦が巻き、地球も荒神の活動厳しくなるぞよ。

宗教思想を越えて、万民、生命の道に返り共存共生の世と開けば、未だ未だ、嬉し楽しの世が続くので有るが、皆我が身の勝つ事ばかり、考え勝っても、負けても、犠牲多きく、我が身も、相手も危なくなるような事ばかりいたして来た。

まことに、おろかな人類の歩みに気づかねば、ならぬぞよ。

我意志張り、我が身が楽を求めるばかりでは、益々荒れるぞよ。

もうそろそろ、皆が腹をわって、話し合い、お互いに慈しみ、こばりあい、助け合い、和の道を開けと申す中、人類よ、これをどうするかと、持たせてある、核兵器を使うような事になれば、人類は滅びると、そんな事は判る人民と思えども、戦を起こせば、相手を倒す事しか思えぬような、判断しか出来ぬようになるのが、人間の頭であるぞ。

この緑の地球を造り、草や木、生(は)やし、禽獣虫魚を住まわせ、その中に人類を住まわせて、万物万民共存共生の美(うま)し、国を築かんと、したのが、神界の四九三、図りでありたぞよ。

人類を襲う、獣もあり、毒虫もあるから、それを避ける為に知恵を授け、我を守る為に自我や欲を授けたが、その知恵や自我や欲が人間同士で、物金を奪い合い、殺し合うところまで、まいりたのであるぞ。

世の始め(縄文時代まで)は、人民が神の言う事を素直に聞きて(西欧も元はそうであった)恵みも、分け合い、助け合いて暮らしておりたが、知恵がある為、厳しい神の言葉に従うのみでは、我が身等の思うようにならぬと、段々と人間は神の言う事を聞かぬようになり、御陰は求め、恵みは取るが、次第に真の天地の元からの神々を封じ込め、人間の都合勝手を聞いてくれる神(思凝霊、人造宗教)のみを祀り、その末は、ローマやイスラムの帝国が絶対的な一神教の宗教を造り出し、宗教が、異なれば相手を悪神の如く申して争うようになりたのであり、真の神々を人民が下敷きにする時代となりたのであり、思凝霊や人民の我欲のおもむくままに、開いて来た今の世であるぞ。

宗教や思想違いで、辛く悲しい大戦を何度も繰り返しておりながら、未だ気づかぬのか。

また、神界はこの地球を保ってゆく為、修理固成の神業が進めてあり、風水火地震雷と、荒神を使いて、自然界には大小の災害が起こるのであり、神には結構なれど、人民は困窮いたす。

天地災は、人類の力では自在にならぬぞよ。

様々な試練浄化で気づけてあれども、人類の身にしみておらず、未だにむごたらしい、殺し合いの戦争をいたして、我主義、我意地張りて、争いておるぞよ。

その愚かな恐ろしい、やり方を掌返し(てのひらがえし)てみなされ、共に助け合い、足らざるは補いあえば、どれだけ楽しく豊かな世の中になるか。

我が身の我欲に、お互いにとらわれ、我も我もと求めるばかりで、お互いに苦渋の道を開いておる、今の人民であるぞ。

今のままでは、益々、厳しい争いの氣が浮かび上がりて来るぞよ。、
良く良く、神の言う事を聞きて、万民共生の平和の世を開きなされよ。

何時迄も、意地張りをいたしておると、天地の荒神は、地震雷、噴火の気づけも、起りて来るぞ。

令和六年、六の気が動けば、一段と破壊と建設の修理固成が激しくなるぞ。

瀬織津姫の神を始め、祓戸の神々の浄め、激しくなるのじゃ。

(注 瀬織津姫神=天照大神の荒魂 撞賢厳之御魂天疎向媛命とも称される。六甲山系を神体山とする。廣田神社の祭神である。仏教では弁財天となる、また八大龍王ともなる。天照国照日の出神の妃であり、水氣をもって浄化の力を発揮し給う。祓戸四神の筆頭である。東北早池峰山、十和田にも鎮まり給う。)

ロシアやウクライナの戦争、中東の紛争、日本地図に当てはめれば鳴門の渦の清めとなる事を知り、お互いに勝利と平安を求めつつ、お互いに辛く悲しい犠牲が増える事を真剣に考えねばならぬぞよ。

様々の荒事もある、八九十の四九三、越後から島原雲仙五島に通る、白山火山帯も動き、白山菊理姫の共存共生、括り結びの道、動きて来るぞよ。

卯の年を送り、辰の年を迎へ、艮金神、世界の根底から、立直しの神業、一段と進み、世界の動き一段と厳しくなる事を記しておくぞよ。

世界の荒波に、ほんろうされる、日本の国。

内の浄めも厳しくなるから、国の頭もよほど腹をすえて、おらねば、腰をぬかすぞよ。

言霊神也 ン。

令和六年一月七日示

龍華斎修聖拝写。
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令和五年十二月 小長谷修聖 三六九神示霊視篇(令和五年十二月八日示)

2024-01-24 19:16:00 | 神示道
神代、国譲りが行われたと伝える、出雲、稲佐の浜が見え、その浜にある弁天島の周りを恵比寿様と大黒様が、荒々しく砂を踏み鳴らしながら、舞っておられました。

その弁天島の上にら弁財天が立たれて、その様を見ておられましたが、弁財天の姿は、段々、白山菊理比咩神の姿に見えて来ました。

(注 大黒神とは、インドの破壊を意味する暗黒神(鬼雷注 マハカーラ)とか、三宝(仏法僧)の守護(鬼雷注 麁乱神)をし、飲食を司る神とか、日本の大国主命との習合とか、様々な解釈が、なされているが、一般に恵比寿之神(事代主命、亦、彦火火出見命)と合わせ、七福神中の福神とされている。

荒々しく舞っておられる様から見れば、エベス大黒大車輪で出雲をいずくも(何処も)、すなわち、世界の事と受け取れば、英米ソ(ソ=ロシア <エビス>と)大黒(中国)大車輪で、令和六年からの世界の大国の大統領等の選挙で、世界が荒れる事や、また、地を踏み、ちらして、おられるのは、地が震う、地震の気も感じるところである。)

次に、出口王仁三郎聖師様が、高砂の神島の上の碑の前で記念しておられ、そのそばに、一匹のウサギが出て来て、手を合わせるような姿をしていました。

(注 神島は、瑞霊が長年封じられていた、神島で、瑞霊の霊統の出口聖師が開かれる。

平成十四年、我々の神島神業の折、事実白兎が、神島に居た。

卯の年は、令和五年、次は令和六年(辰)であり、令和五六、七(みろく)の年、六年の大事を、示されたので、あろうか。

六は万象崩壊の数意であり.変動の年と言える。)

令和五年年末、十和田湖より、青龍の出現を感ず。

青龍は、刷新の気であり、破壊と建設、地震を意味する事もある。

(注 刷新=全く新しくする。)

(鬼雷注。平成六年十二月二十八日朝、三六九神示。
(夜 八戸沖地震起こる、)

此の日本は龍体と申してある。
さあ、十和田の湖より、鳴り起こる。火の氣、水の氣、どんどんどんどん響き渡る。さあ、震う、震う、龍体が身震い致す。
八大龍王の御現れじゃ。
日本金龍体のよみがえりと言う事なり。
日本の人民上から下まで眠りておる。
その眠り、揺り、起こさねばならぬのじゃ。
揺り起こして、日本のまことの使命を覚らせねば、此の日本世界にはびこる、オロチ(唯物主義)に呑まれてしまう事となる。
平穏に見えてまことに危ないこのときじゃ。


さあ、猪の絵に龍の氣を入れようぞ。
氣を入れて守りといたす。
千頭の猪と申してある。
さあ、それぞれ〇九十(まこと)でつとめて下されよ。
子の年より、亥の年と一めぐり、愈愈終わりなり始めなる亥の年とめぐるぞよ。
新しき世の生命の芽ぶきの為に、大地に氣をためて震うぞよ。
身震いいたす龍体と言うなり。
新生の氣、御現れ目出たし。)

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黙真人訓 真修道。

2024-01-17 17:45:00 | 道院
各地では、災劫が頻発して多難である。

吾が道の堅誠にして、仁慈憐憫の士は、みな誠心でこれを弭化(災害が起こす、因果のカルマを消す)しようと、吾が師(至聖先天老祖)及び、各教の教主(釈尊、キリスト、マホメット、老子、孔子、最澄、空海、王仁師等等)、ならびに聖神仙仏に祈っている。

吾が師及び各教の教主、聖神仙仏は、各方の誠願に感じて、再三各聖神仙仏、各教教主及び、各真人菩薩に一致して、合霊弭化するように、訓を伝え、その功効は、大きくない、ことは、無い。

しかるに、災劫が出現するのは、これを推し測るのは、難しいようであるが、それは、どうしてであろうか。

化し去るところの、劫は無形にあり、それが化す、ハジから造られ、生じるハジから、有(業が形となる)となるのは、劫を造ることが、人心に在り、また、測り難いものも、人心に在るからである。

人心は、何を以て、知らずに覚(し)らずのうちに、劫を造るのであろうか。

そうではないのである。

人心には、善があり、悪があり、善となったり、悪となったりするのは、みな、物欲に因って蔽われ、私心に引きずられるからである。

時には、知っているようであったり、昧(くら)まされているようであったり、時には明らかなようでありながら、これを押さえることが出来ずに、故意に犯している。

また、定見なく、主宰なく時には、その理を明らかにせずして、ただ、目前の勢いで為すべきことを為すのみを見て、為すべからざる事を為して、それが顕現されることを見ないのである。


これを為して覚るに至っては、すでに事前に明らかに弁じ慎んでおもうことが出来なかったので、既に為した後に、過失を改めることは出来ない。

事に出くわしては、前者の鑒(かがみ)を参考にせず、遠い先の結果を明らかにすることがないのは、みな錯縦粉雑のところがあり、左右逢源(自然にこれを用いて尽きることなく、これを取りて、竭きることなく、自由自在である)で、玄微の機を徹見することが失われるのである。

これによっても、人の一心の変化は事の正理をつかまえる事は難しく、また、事ごとにその真を得て、その正道正理をつかまえることは難しことが分かるのである。

一般の人は、このような状態であり、善く修める者も、また、このような、状態である。

吾が道院の修人が求修するときは、みな、大願を発し、第一に「修」を願うのはニ字(功候・一こい願わくば、功候を修めさせ給え。)
は、大いに修めることを発顔している。

[注 道院に求修し、老祖の弟子となるには、神前にて、四つの誓願を言わねばならない。一つこい願わくば、功候を修めんことを。願わくば真諦を得さしめんことを。願わくば上乗に到らんことを。願わくば衆生を度せしめんことを。]

修めるところのものは、なんで何であろうか。

内功を修めるのか、外行を修めるのか、一心を修めるのか、一身を修めるのか。

心は身の主であり、心を如何にして以て修め、自ら、吾が心を渡(すく)うことが出来たか否か。

或いは、言うに修坐は、即ちこれ吾が心を修め、以て自ら渡(すく)うのであると。

修坐する人も心は、それぞれ同じでは、
なく、気質もめいめい異なっている。

しかし、誠で、修めることが出来れば希望がある。

ただし、いくら坐ってみても、大きな進歩がないようである。

一体いつになったら、自ら、吾が心を渡い、以て自ら吾が身を度(すく)い、以て衆生を渡い、以て、一切の災劫を有形無形の中に、化すことが出来るのであろうか。

この中の道理を話してみると、非常に容易であるが、これを行なってみると、実に、容易なことでは無い。

それは、一個人の心が後天的に成長する過程
の中において、各人それぞれ、環境があり、各人それぞれの因果があり、その各人の環境を超越することは、自分では不可能であると思っている。

君の環境を超越しないで、君はいたるところで、いろいろな事務と日用の人の守るべき道の間において、動定言行挙止の際に於いて、切実に功を用いることが出来たかどうか、顧みることが出来たであろうか。

この第一句の意義は特に重要であり、この第一句を実践することが出来なければ、上乗に到り、真諦を得て、衆生を度することが出来ないので、その上に四つの願いもみな、切実に求修することは出来ないのである。

度(すく)いは、吾が心より、する事が一切の災劫を弭化する本である。

吾が心を渡(すく)うことが出来て、はじめて吾が身を渡うことが出来、吾が身を渡うことが出来て、はじめて吾の行を修め、吾の功を成すことが出来る。

吾の功を成して、吾が心は自ら化し、吾が身の劫を化し、吾が一身の災難を化す。

吾が一身の災難を化して、吾が一心の因果罪業を弭(な)くし、はじめて、われ、自らを渡(すく)う心をもって、人を渡い、自ら、この身を化し、劫を化する事が出来る。

全ては、第一句の修は、その功を成し、功はその行を成すことに在る。

内外に偏することなく、道慈が平行して進めば、自然に、その真の功候を得られ、自然に上乗に到り、真諦を得て、一切の衆生をことごとく渡(すく)い、一切災難を弭化することが出来る。

そこで、はじめて、坐功においては、その浩然の気を成し、その先天の炁を充す事が出来る。

先天の炁は、充すことに因って、固まり、息息綿々として、上下四方に通じる。

これを真炁が発動するといって、一切の有形無形の災劫を運化するのである。

もし、四つの願いよって順を、追って進んで功候を得るとなく、心性一身の中において、功夫を用いるのでなければ、たとえ、能(よ)
く、真炁の動きが突然見えたとしても、また、それによって吾が心身を渡うことは、出来ず、かえって魄魔に乗ぜられて、一切の災劫を化することが出来ないだけでなく、吾が一心一身の因果も弭(な)くすことが出来ず、化することも出来ないのである。

これは、すなわち、大道真修の深遠な道理を平易で、身近に説いただけである。

男女、掌長監職修、各々は、みな、このこの、災劫不測の時機に、このわずかな光陰を大切にして、一切の不真不正の仮相を放棄して心を回して、渡いは、吾が心よりし、化するは、吾が心よりし、吾が一身の先後天の三宝を渡い、これを固め、これを運(めぐ)らせ、これを化し、吾が心、吾が身を渡うことが出来れば、一切の因果災劫魔難は、自ずから消え、自ら化してしまう。

先天の炁霊性を以て、一切を弭化すれば、必ず大道真諦上乗を得証して、衆生を渡化して、石門(かつて、六万年前に、先天老祖が降臨された場所。)で発顔して来たことを完成させる事が、でき、再び輪廻の苦しみを受けることは、無いのである。

これが自分(黙真人)の深く切に祝禱(いの)るところである。

時期が移り変わって、道運はこれが為に否となり、滞(とど)こうりし、従って種々の現象が発生している。

一つには、各方の功候の練磨を経て、一つには、道運のしからしめる(そのような結果に至らせる)ところである。

然し寒冬の滞(とど)こうり、塞がっていた、機は将に尽きんとして、春機の動きが、既に朕(きざ)している。

望むところは、各地の男女掌長監職修各方が、過去の一切を水に流して、新しく、合霊して、和気を保ち、以て有形無形の災劫を弭化を助けるようにし、曙光の機を凝らし、運(めぐ)らし、忠心より、誠で合し、共にその機に応じた佳(よ)い朕(きざ)しを、成じ、以て漸次、春に生じて夏に盛んになるように隆盛に転じることを期するのである。

自分(黙真人)は厚く望む。



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坐道奥義、八宝。

2024-01-01 09:24:00 | 坐道
世は乱れる。

何故、乱れるのであろうか。

人は調和秩序を大切にするが、乱しもする。

何故、乱すのであろうか。

人種は、調和秩序より、自己利益を大切にする。

例え、調和秩序を乱しても、自己に利益があれば、人は許すなり。

小さな乱れは、大きな流れとなる。

それが人類を呑み込む大津波ともなりえる。


先天坐とは、人の貴種等の生まれは関係無し。

もし、先天坐をすれば、調和のなんたるかを知り得るかもしれません。

何故ならば、人の存在意義を悟るから。

それが、天皇である、日本の族長であるとも然り。

なんせ人の種は、同じ木の実。

誠による、誠実が、神により、人を分ける由縁であります。

坐すれば、開かれん。

何を開くのか。

吾が本性を開く。

開けば、ひらめかん。

何をひらめくのか、吾が神をなり。

そこで、何故、人は瞑想し、また、迷走するのか。

確かに瞑想すれば、本当の自分に還る。

また、瞑想すれば、本当の自分を知る。

しかし、そこに至るには、純粋で無ければならない。

純粋瞑想にして、初めて至る。

もし、瞑想に欲を抱けば、迷走する。

真理を悟りを開きたい、幸せになりたい。超能力を得たい、金運を得たい、伴侶家族を得たい、名誉を得たい、神と繋がりたい。

坐の基本は黙って坐り、何も望まない。


扨て、先天坐には、基本の八つの法則と言うか、基礎八宝があります。

一、塞兌。つまり、口を塞ぐことです。簡単に言えば、坐中は鼻呼吸がメインとなります。

ただ、鼻呼吸が苦手で、鼻の悪い人は、如何にすべきか。

私は幼少期より、慢性鼻炎であり、高校時代には、片方の鼻呼吸が出来なくなり、とても苦しかった時間もありました。

先天坐をしてからは、鼻呼吸で苦しいときもありましたが、坐のリラックス感により、鼻の呼吸には、不便も自然と無くなりました。

二.鵲橋。これは、スズメの橋を架けると言う意味でして、舌を上顎の歯の裏に軽く当てて、丁度、橋を架けるようにすることです。
人体には、任脈と督脈があり、独立して働いておりますが、その掛橋として、舌を上顎に軽く触れるのです。そうすれば、陰と陽、その中の真陽と真陰が出逢います。龍と虎、童子と妃女との出会いとも言い、それは、生成化育の一端でもあります。ただ、舌を上顎にに付けるのみです。後で述べる、回光に繋がる道でもあります。

三、斂神。斂とは、神を修める、治める意味であり、吾が内在する神を悟り、吾が身の内に神が宿っている事実を把握することでもあります。今の人は、外に神様がおられると、思考し、吾が御魂の存在を認識出来ておりません。しかし、坐すれば、自然と吾が神と向き合う事が出来るようになります。
坐とは、真に吾が神との交流の場でもあるのでございます。
また、人の神経の事でもあり、人の因果率は、殆ど、この神系を通して、痛みと安らぎがやって来ます。
故に、坐すれば、如何なる痛み苦しみさえも、和らぐのであります。

四、垂簾。簾をたらすとは、坐中に瞼(まぶた)を垂らすことであります。なぜ、目をつぶれとは、言わないのか。簾には必ず隙間があります。また、目をぎゅっとつぶるのは、自然ではありません。簾の如く、隙間がある事が、そこに光が入る事となります。菩薩の半眼の如く、自然による集中する機能が上がります。また、目をつむると光が入りませんし、目を開ければ、光は出てしまいます。簾を垂らすと自然と光が入ってくる意味がございます。

五、観鼻。坐すれは、人には、様々な妄念が浮かび、静かに坐ることができません。仕事、家族、今日の仕事のノルマ、色々な事を考えしまいます。妄念が起きれば、吾が神と出会えず、妄想の虜となってしまいます。そこで、瞼の隙間から吾が真ん中を見るのです。そこには、鼻があります。一生懸命見ようとせず、鼻を見るか見ないかのひとぎわの最中に、妄念を起こさないようにするのであります。

また、鼻は、顔の中心にあります。中心軸を意識する意味合いもあり、自己の中心を得る事を、神の道では、噬む、素戔嗚尊と、申します。
スサノオの御心を得れば、もはや、占い等に、頼ることは無いのです。

六、回光。鵲橋にて、任脈と督脈が合流すると、全身に氣が自ずと巡り流れます。それは、今まで停滞していた水車を動かします。
水車とは、丹田とか、チャクラとか言われる、目に見えない霊的器官でもあり、これが任運自然と周れば、身体の中でも、高次の自身と低次の自身が大調和なる光を生み出します。(魂と魄の大調和、神人合一。)
そして、この光こそが、宇宙の霊的光と同等なのでございます。
仙道では小周天とも申すのでしょうか。

七、返聴。道院の習坐には、収視返聴(視を、収め聴を、返す)があり、初坐の基本ともなりますが、ここでは、物質次元の音を受け取らず返して、吾が内鳴る神音を聞くとも言うのでしょうか、回光し、廻っているチャクラの決して聞こえない、響きを聴くと申しましょうか。孔子さんは、天命を知ってから後に耳に順うとおっしゃっておられます。
今の人は音とは、聞こえるものであり、また、霊耳や天耳とは、怪しい声や神様が喋っている声が聞こえると考えるでしょうが、本当の天耳とは、物質や、思考を無くした、魂で感じるものであると考えます。
出口王仁師は、龍神には耳が無く、真の言霊でなければ、動かせないとも言われておられますが、その通りであると考えます。
坐して瞑目すれば、外界の音を返して、吾が耳で内なる自身を観て、聴く。ちなみに荘子さんは、目で聴き、耳で視るとも、申しておられるようです。

八、守竅。竅とはエネルギーが出入りする、霊的な穴で、空が交わると書いて(漢字変換出来ず)います。故に、竅を守るとは、竅[玄関(心臓)、元頂(頭上)、臍下丹田(腹部)等]に意識を合わせる意味であるとも解釈しますが、私は、それらに意識を重ね過ぎると、着相(執着)となり、暗黒面を生むとも考えます。
先天坐は、自然坐であり、人為による努力はほどほどで、あとは静観し、自然に任せるに限ると考えます。
故に、ここで言う守竅とは、坐で得た感覚を日常生活で活用する、心坐に繋がることであるかと考えます。

今、地球は揺れていて、天災地災人災は、いつでもどこでも、襲って来ます。

その最中、常時戦場の心を持ち、常住坐臥こそが生命が奪われたとしても、霊的生物の真価を発揮すると考えます。
忙しく働いている最中でも、ふとした時でも坐の感覚を取り戻し、為す。

そして、息坐に、至る。



たかが、先天坐法。されど先天坐法。

此処で、坐とは黙って坐るのみ。

瞑想との違いは、如何に。

世に鎮魂法、また.様々な瞑想がある。


先生の言う事を聞いていれば、幸せになる。

先生の言う事を聞いていれば、間違いが無い。

それらは、全てが間違っておられます。いや、私は、そう考えます。

先天坐には、強制もなく、師は、神鳴る、先天老祖。

先生に、従うも学びでありますが、先生の遣り方を真似ても、貴方の内なる神様は、本当に、それを臨んでおられるのでしょうか。

いずれにしても、己が、自ずと、目覚めることが大切であります。

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