玄徳道

道を語るブログです。

太乙北極真経演義道2

2022-02-27 19:08:00 | 道院

「真経」のはじまりは、六つの部分から成っている。

即ち、至聖先天老祖の御心の紋様、絶対的実相(太極)とその二面「陽」(創造的)と「陰」(受容的)の紋様、訓文(教えの詞)、六箴(訓示)、四誡(戒律)、そして六銘(銘語)である。

これらの序章は、「真経」読者に、静坐を修練する前段において、自己修養に打ち込むことが必須条件であることを心に留めさせる役目がある。

この序章で特に明らかにされているのは、普遍なる宇宙(空間的、物理限界を持つ、それではなく、「世界」の意)の出現、及び万物の進化に繋がった創造の原理、並びに万物の進化、先行と継承、始まりと終わりの連続、創造と破壊の仕組み、完熟と可変成の過程などを統治する自然界の法則である。

これらによって、修行者は、「道」の基本理念を理解し、次に静坐が実際何の為にあるのかを知る事が出来るのである。

「訓文」は静坐をする者が自己修養を熱心に忠実に行うべき事を繰り返し力説している。

何故なら、そうする事によってのみ、静坐の進展が可能だからである。

坐をする者は、その生涯を通じて、真剣に忠実に「道」を培わなければならない。

このことは、彼に降り注ぐ多くの祝福を伴う完璧な幸福の状態へと彼を導くだけでなく、人類、あるいは全世界の救済、あるいは大きな災い、惨禍などを防ぎ、取り除くと言った、大いなる功徳を達成させるのである。

修行者の主眼は、悪行を謹み、善行を為すことにあるべきである。

しかしながら、「邪悪」は個々、人の中にあるのではなく、その人が悪い要素に触れた時に取り憑くのである。

人は善行を為そうと思っても、怠慢の結果、頻繁にそのことが心から抜けてしまう。

したがって悪い癖や習慣を避けるべく、大変注意を払う必要がある。

いつ、如何なる時でも、修行者は悪行に染まらぬよう、自らを守るべく用心しなければならない。

これが故に「六箴四誡」が授けられた。

「六箴」の目的は、坐における病、即ちあらゆる不適切な習慣を直す事にあり、「四誡」の目的は、それを防ぐ事にある。

「六箴」に対しては熟考をするべきであり、それによって、その底流にある本質的真理を直観的に、掴むことができる。

このようにして、修行者は自らの悪習という病を自然に察知し、自らの病がもしあれば、それを治す事ができる。

一方「四誡」については、それが記憶に留まるまで、繰り返し繰り返し、読み込まなければならない。

斯くして、修行者は常に悪行を為さぬよう用心深くなり、悪行を行う機会は極めて低いものとなる。

更にその身を律するには、あらゆる堕落と虚偽から、自らを排除し、その魂と性向が完全に「道」と調和するようにするのである。

その結果、修行者は坐において、更に進んだ段階へと、到達する事になる。

坐をする者は、坐を開始して後、全生涯を通じて、これら序章に示された全ての指示を注意深く学び、厳しく遵守しなければならない。

なかでも「六箴四誡」は、取り分け重要であり、片時も忘れてはならない。

更に坐をする者は、八つの徳(仁義礼智信忠孝悌)、的確な人間関係、正しく身のこなしと、高潔な人格が基本要件である。

つづく。


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令和四年二月八日 小長谷修聖、三六九神示、霊視篇。

2022-02-26 20:29:00 | 神示道
北京オリンピックのスキージャンプが見え、スキーの出発点の台の上に、大きな真っ赤な鬼が越中かけて、五輪の菓子のような物を手でぶら下げ、大きな口を開けて、飲み込もうとしていました。(注 赤い鬼は、今の中国を示しており、オリンピックにより、世界に、中国の国威を顕示している様であろう。)

次に真っ白な雪原に、黒光りするカラスが、三羽いる様が見えました。

(注 烏[からす]は、熊野の神の使いであり、熊野の神、素戔嗚尊等の活動を示され、白い雪原は、陰にありて世界の和を保たれている、白山菊理姫の神の働きを示し、裏にあって世界を見守っておられる神々の働きを忘れるなとの、お示しであろう。)

次に、出雲の八重垣神社の椿の木の前に、素戔嗚尊と妃の櫛稲田姫がお立ちになられ、その姿は、大本教の出口聖師と、出口澄様、夫婦の姿と変わりました。

出口澄様の御魂は、金勝要神と示されているが、櫛稲田姫は、金勝要神の変化である。

八重垣神社は、素戔嗚尊と櫛稲田姫を祀る。

金勝要神の神霊石は、昭和五十年十月五日、但馬神鍋山の噴火口から出て、今は、龍華館にある。

神鍋山の麓にも八重垣神社がある。

大本教のお筆先、その他、神示に示された言霊が、実現して来る時代となった。

櫛稲田姫の神霊の筋は、出雲の元からの国魂の神の霊統である。

素戔嗚尊の、出現の最初の地場は、鳥取県の須賀山(氷山)であると思う。

山頂に須賀宮の遺跡がある。

昭和五十年、神鍋山の神業の日、まず、陸の龍宮奥の院、鉢伏山に参拝してから、神鍋山へ行き、噴火口の中央より、金勝要神の神霊石が出ず。

今は龍華館に、祀ってある。



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太乙北極真経演義道1。

2022-02-25 21:22:00 | 道院

太乙北極真経は、至聖先天老祖自体であり、当体である。

老祖の弟子は、これを老祖の御神体とする。たぶん。

現在、ウクライナは、孤立無縁となり、大国ロシアから侵略されております。

戦争は独裁者の自我の肥大である、その結果である。

神々は何故、天罰覿面と成さないのであろうか。

なんせ神は、自然なり。自然を以って道とするのみ。

その神に近い存在に善と悪がある。聖神、邪神。

いずれにしても、劫を化し、悪意を消すのが、老祖の弟子の使命である。

この世に争がある限り、坐し、誦経し、カルマを化す。

孤立無縁。ああ、なんて可愛そうなのであろう。

力無き正義は無力なり。

されど、道は無力の中にある、本当の世界。

故に、此処に北極真経演義の前書きを此処に写す。

「坐」は、古来より、あらゆる求道者によって、悟りへと導く重要な方途として認識され、そして修練されてきた。

しかしながら、その教えは、流派によって、大きく異なっている。

例えばある派は、内なる修養を重視するが、他の派は、外的修養を重視する。

更に教義は、世代間で受け継がれ際にも質的に変換してしまうので、結果的に坐法の標準化はなされぬままであり、求道者は、的確な方法を失ってしまっているのである。

その意味から、半世紀以上も以前に、濟南母院にて、至聖先天老祖が、静坐の原理を詳らかに解説した、「北極真経」を授かった紅卍字会の修方達は、極めて幸運なのである。

しかし、それによって益を受けるのは、漢文を解する人々に限られてきた。

日本語版が出版されはしたが、それでも、世界の多くの人々がその益を受ける事は無かった。

そこで、癸丑年十二月二十二日(1974年1月4日)に韋達氏が注釈をつけて、英訳をするという任務を担うことになり、「太乙北極真経演義」(永遠なる真理と究極的実相に関する北極真経の解説)という題名がつけられる事になった。

韋達氏は即刻その作業に取り掛かった。

そして昼夜をおかず可能な限りの勤勉さと誠意をもって作業をした。

この困難な仕事の完遂するまで、まさに寝食を忘れて没頭しつづけ、それに対して同氏は永遠で至高な益を得るに至った。

即ち世界中の人々をしてこの「真経」を理解せしめ得る端緒を設えたのである。

この「真経」は、地球上のあらゆる生命を永遠なる至福の域へ、済度と救済の源へ渡河せしめる貴重な筏と見做されている。

済度とは、人の魂と徳性の精製が、その人の本来の質、霊的生命、先天不滅のエネルギー、創造的叡智を先天の炁胞の状態へと回帰せしめることを意味している。

救済とは、人の自己修養の結果として生じる輝く光、活発な叡智の大いなる統合が、人と神から惨禍を取り除く事を意味している。

この救済において、明白なことは、正しくない人の心を救って、再び正しく設えることである。

それを達成するために、個々人は静坐の修練に耐え抜き、肉体的物質を変容させ、あらゆる後天的誘惑と因縁を断ち切らなければならない。

この達成は偉大なることである。

何故偉大なのか。

それは、済度と救済の効果が、将来において、際限なく拡がり、多くの人々、それも数えるに余りある多数の人々が災禍から、救済されるほどな高まるからである。

例をあげて、比較してみよう。

一般的な言い習わしによると「一つの生命を救うことは、七層の仏塔を建てることを凌ぎ、善意は、八千の善行功徳を生む。」と言うことだが、多くの生命を救うことと、たった一人の命を守る事の間に優劣はない。

また、たった一人の善意の転向は、人と神に大惨禍を回避せしめる大いなる益と比較する事はできない。

将来における、救済と済度が、際限なく計り知れないと言うのは、正しくないことであろうか。

さて、我々は、此処に「真経」の英訳を携えているが、これによる、人類の救済、済度のための有形無形の益は、極まり知らないものであろう。

「真経」は、静坐を主題として扱っているので、「真経」の学習は、それをよりよく理解することを欲するのであれば、静坐と共になさなければならない。

疑問や困難を生じた場合は、その解答を静坐と、疑問や困難が存する、「真経」の経文との関連に、ついて掘り下げて求めるべきである。

このようにして、「真経」のより深い意味内容を把握することが、容易となるのである。

それを理解し、説明するのが、不可能に見える難解なくだりについてさえ、静坐を通じて理解すべきなのである。

この事は、自然科学の学習における科学理論の実験的検証と同様である。

「真経」の完璧な理解は、それを通じて直観的な理解が起きる静坐の修養なくして不可能なことである。

「真経」の主題が静坐であるから、「真経」を理解せんとする者は、静坐の修練をも、またしなければならない。

然しながら、静坐の目的とは、静坐をする事ではなく、それが「道」の開眼へと導く経路であることにある。

したがってこれは、求道者全てにとって必須要件なのである。

もし、ある者が「道」を培おうとしても、静坐の修練をしないのであれば、道の原理について、理解することはできない。

もし、ある者が静坐をするが、「道」を培うことがなければ、静坐の真価や、静坐の最中に起きる、秘的な変性の過程を掴むことができず、最大の益を導く、最も自然な静坐の状態へと到達することはできない。

更に加えて人は、様々な、段階の理解を経ることによってのみ、静坐の目的が、自らの創造的叡智(霊)を磨くことであり、人類の災禍、惨禍を取り除くことであり、彼らを変容せしめ、救済する事にあることを悟るのである。

ということであれば、静坐の目的とは、「道」の目的と同じものである。

そこで、自己修養と「道」への究極の開眼に打ち込む事はなく、静坐することができ得ようか。

つづく。



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令和四年二月、三六九神示。

2022-02-24 21:18:00 | 神示道
天から降る縦の五六七(弥勒)が横の地の三六九(みろく)と結ばれて



結ばれて弥勒となりて、弥勒の世に成るのであるぞ。

それを地上天国とも、日の出の世とも申すのであるぞ。

神人和楽の美わしき国を、この地球の上に開かんと、世の元の艮の金神、国常立尊は、人類を現の世に住まわせたのであるぞ。

世界人類は何十億あるとも、龍体から変化させた、人の身に一人残らず、親神あり、その神霊を分けて鎮めてあるぞよ。

その折、丸裸の人類が、立派に成長する為に、艮の金神は、自由意志と知恵も授けたのであるが、それが為、人類は、元の親神、国常立尊のやり方があまりにも厳しく自由にならぬと、艮の方へ押し込め、自我と欲の固まりの思凝霊を人間の願いを聞いてくれる神と、崇め祈り三千年の月日が立ちたぞよ。

人類の自由と知恵の働きで、ここまで、物質文明も開け、楽な世となりたが、その文明が人類の滅亡にもなる事を、もうそろそろ氣づかぬと、間に合わぬ事となってしまうぞよ。

この地球の人類一人一人に、役目を授け、その時代相応の神芝居をさせて来たのであり、神と言えば、人間の勝手な願いを聞いてくれる、ものぐらいに思いておるが、これからは、現の世を修理固成、世の元の艮の金神 国常立大神が須弥仙山なる富士の山に腰掛けて、世界に睨みをきかすから、主勝手の利己主義(われよし)は許さぬぞよ。

世の元からの神々を押し込めた岩戸(言霊止)は、そこらの戸を力って、「がう」と、開けるようなわけには、ゆかなから、人間の利己主義の思凝(岩戸)を打ち砕く為、この三千年、幾度もの戦争や疫病や災害、様々の辛い悲しい苦渋をさせて、この地球に生かされて居る事が、腹の底から判るまで、厳しい試練浄化は止まぬと申せるぞよ。

神と言えども、利己主義の思凝霊もあれば、悪神邪神と言われるのもあるが、世の元からの、天地自然と共にある生命の源の神々は、様々の試練浄化に苦しむ人民を見て、早く心を改めよ楽になれよと、大難を小難にて、助けてやりたい、親心であるぞよ。

大正八年(大本神諭)から「えべす、大黒(英米ソ[ロシア]大黒[大国中国])あらわれて、おおづち、こづち、ふりまわし、たけび、九[く]るい、つひに、つきにすすみ、きたるぞ、おそろしき…佛[フランス]様まで、ねじはちまきの大車輪と」世界に大渦巻く事が示してあるのだから、日本も腹帯を締め直し、調子に乗らぬよう慎重に致さねば、世界の変わり目の大渦に巻かれてしまうぞよ。

最後に世界五色の人種がオリンピックの五つの輪の如く、大和(大輪)の世を開かねばならぬのが、この日本の神命である事を決して忘れてはならぬぞよ。

独裁者中心の共産で無く、神中心の共生共産共存の世を開くのが、神の念願であるぞよ。

世界の国々も又、人民も意に添わぬ者を、武力や暴力で無理矢理従わせ、世界を一人占めにするような事は、神は許さぬぞよ。

されど、何事も無く、世は変わらぬぞよ。

荒事無ければ、新事成らぬのが、現の世であり、皆で与えあいら和と成らねば、諍い絶えぬ現の世であるぞよ。

諍いとは、言葉の争いの事じゃ。

話は和に通ず。

話し合いの大事、忘れてはならぬぞ。

皆で助け合わねばどうにもならぬ事は、様々の災害の折、教えてある事、忘れてならぬぞ。

真の神は、大宇宙、大自然の中に、不可思議な力を持って現れ、万物に生命の恵みを垂れ、誤りの事あれば、警告を発し、永遠の時の流れを司るのであるぞ。

厳しき中にも愛のある、荒和の働きあるのが、神の奇しき働きであるぞよ。

人間の求める御利益の的となる体主の思凝霊(しこりがみ)は、現の世だけの御利益、霊界までの導きは、してくれぬぞよ。

現の世だけ良ければ良いの体主霊従(からたま)の世から、霊性を磨き、霊なる世界の親神の元へ帰る、永遠の安心の道を開くのが令和(霊和)の世の神図りであるぞ。

白山菊理姫の神氣を受け、神素戔嗚尊、現の世の浄めに出で立つぞ…。

その妃、櫛稲田姫、出雲の元からの神であり、金勝要神より出でし、神霊であるぞ。

龍宮の御宝を真世の為に活かしゆく、道を開くぞよ。

その神霊の元は但馬の神鍋山であり、昭和五十年十月五日の噴火口の中より、神霊石を出してあるぞよ。

さあ、要とは、腹じゃぞ。

腹をすえて世の流れを見ておれよ。

目先の損得に走るなよ。

神国日本と申してあるが、どれだけの神に守られて居るか、かみしめねばなるまいぞ。

日々大切に今今の事、たゆまず、勤め果たしてゆくのじゃ。

それぞれ、授けてある御魂の一役、立派に果たせば、世界は時計の歯車のかみ合うが如く、正しき、時を刻むのじゃ。

厳寒の冬を堪えて、梅の花、咲く腹が来る。

暖かき日の光に雪も解け、大地うるおす、水となり、稲の稔りの元となる。

無駄無き神の図りぞよ。

我が身の役目、果たそうぞ。

言霊神也 ン。

令和四年二月九日

龍華斎修聖拝写。
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至聖先天老祖訓、世界人類を救う、道。

2022-02-22 19:06:00 | 道院

道には、声も形も無いのに、どうして、その中から、喜びを見出すことが出来ようか。

また、道に対して、色々な説明があるが、いずれも、皆、想像も及ばないものであって、どうしてそれを楽しみとすることが出来るだろうか。

このように思い込んでいる人々は、少なくない。

吾が道の修方(老祖の弟子)にとっては、むしろ、声も形も無く、限定されてないからこそ、その喜びと楽しみも、極まる所が無いのである。

今は、この宇宙間に曾つてない一大危機に遭遇しようとしている。

人々は、日常茶飯事において、災難が押し寄せてくれば、それを感じ取る事ができるし、その災難による苦痛がどんなものであるかは、今更、言うまでもないことである。

道(坐)を行なっている修方は自らを考えてみよう。

諸子(老祖の弟子)が道に入ってから今日に到るまで、その志が順調に進んだであろうか。

また、その心身が不安で落ち着かないと言うことがあったであろうか。

諸子は、現在、一般の人と異なり、その心が安定して、悠悠自適の境地に恵まれていることを、悟るべきである。

このような、快適の境地を味わうのと、単に人生の苦しみに耐え、誰からも同調されずにいる世間の人々と比べて見れば、その差は正に天と地ほどの違いがある。

どうして、このような、差が出てくるのであろうか。

たとえ、道に声や形が無くても、心身の苦痛に直面した時、そこに、道があれば、それが精神的支柱となり、その苦痛が除かれるか、又は緩和され楽になるのである。

そこで、諸子が先ず自分の帰依する処を知り、その後の心に向かうところを正しくすれば、心身の快適が求め得られる。

吾はこのような、求道心を喜ぶのである。

勿論、中には世俗の七情六慾に引きずられて、にわかに浮世の障害を乗り越える事が容易で無い者もいるであろう。

しかし、諸子がもし、欲を少なくし心を清める事に、あらん限りの努力をするならば、今後道を求めて行く過程において、自然と測り知れないものを得られるのである。

吾が道が世の中の人々を救済するのに、人々が俗世間との交わりを絶って、始めて道を語ることが出来ると、するものでは決して無い。

修道する者は、今居る処が即ち道のあるところであり、自分自身を修めるところによって、道を求めて行けば、その中に道は必ず発見出来るのである。

このようにすれば、その身、それなりに道が宿り、道はそれなりに、全てのものを包合するのである。

そうすれは、人間世界に在るがままの身で、道を体得され、また、人間世界に在るがままの、得道の身で世の中を救う事が出来るのである。

そこで知らなければならない事は、自分自身を錬磨し、道を明らかにし、世の中の人を救おうとすれば、いたずらにこころを高遠な事に馳せらすことなく、最も身近な日常の言行を慎むだけで、充分な事である。

現代人は、ややもすれば、道を掴みどころの無いものと決め付け、世の中の実情に合わないものとして、嘲笑し、さもなければ、神話や怪談のたぐい、又間に見えぬ、奥深い幽玄なものとして考えている。

これらは、いずれにも、自分の身をもって道を行いつつも、その真実を体得しようとせず、単に自分の欲望を満足させようと図っており、それらは、功利主義で誤った見解に陥っているのである。

諸子が歴史について見れば、すぐ判るように、眼前の功利主義のみに、目が奪われて、算盤を弾くような事は、従来の道を修めるものの眼中には、無かったことである。

たとえば、事実上、利益を得て、それが道に帰因するとしても、これらの利益は副産物であり、枝葉末節に過ぎないのである。

しかしながら、これを長い目で見れば、修道へのたゆまぬ努力の結果による、その報いは、ある一時の利益による報いよりも遥かに大きいのである。

これらの事は決して例外では無いのである。


末世における道の衰退以来、目に余る人心の頽廃に対応する治療薬として、仁義の教えが盛んになると、その賛否をめぐって論争も激しくなる。

そこで本来の渾厚の気(人間が本来持っている穢れる以前の良質の気)は日に日に薄れ、人心は生まれつき持っていた霊性を失い、漸次大勢は、下流へと向かう一方である。

時代が更に降って、今日に及ぶと、人心は益々低俗卑猥となり、たとえ、第一義的な仁義の道を説いても、耳を貸す人はいないのである。

それなのに、形もなく、声もなく、名もなく、相もない、大道を人々に知らせる事は難しいのである。

更に、この大道によって、自らを修練し、優れた人材となり、世の中をよくするということは、さらに難しいのである。

しかしながら、吾が道の修方諸子は、幸いにも、既にこの道を人生における、一大目標とし、大原則としているのであるから、いつかは、諸子の影響如何によって、めざめて、道を求めるようになるのである。

ただ、ただ、汚れた世俗は、人に重圧を加えている。

修道者として、これをどのように突破するか。

それは突破するのではなく、破られ無いようにし、その影響をいかにして、受けないようにするかが、最も大事である。

これこそが汚れた世界にいながら、それに染まらず、清浄を保つことであり、それは、いわゆる"世俗に居て世俗を離れる"ということで、これこそが、大道の妙諦である。

諸子が大道の妙諦を得たいと思うならば、先ず心に主宰を確立させることが最も必要である。

さらに、外界からの誘惑によって迷わされないようにすれば、自分の心の安定を保つ事が出来るのである。

これは、静坐の修養の如何に掛かっており、要するに形の静坐だけでなく、日常生活の中で動いている時も、片時たりとも、これを揺るがせにすることはしないのである。

そこで、平静になれば、心は自然に安定する。

心の安定が出来れば、吾が身には、常に主宰が存在し、清明の気が充実して来るのである。

そうすれば、吾が身がわざわざ、世俗を離れなくとも、居ながらにして自然に凡俗を超越することが出来る。

このような、功用(はたらき)を修得して、始めて、日常の災難から、宇宙の大危機まで、救う事が出来るのである。

これが修得者として、自然に発揮することのできる第一等の能力である。


人間の意念が働く以上、偏向からたやすく、免れる事は出来ないのである。

自分の意識に偏りがあっても、その行為が必ずしも、不正とは限らないが、多くの者は性急に功名を求め、到る処で自分で作った壁にぶつかっている。

それくらいの誤りはまあ、小さい方であるが、遂には、世界を救済しようとする、道心までもが、挫折することになる。

自分の意識に偏りがあれば、ある局面に対して順調に行くが、他の局面に変われば、始めからか、または、途中から壁にぶつかってしまうことになる。

これは、心の偏りによって人間社会において、融和出来ないからである。

このように、融和しなければ、大道の本体を失うことはことになり、則ち道の生成化育を失うことになるのである。

だからと言って、いたずらに低級な俗世間の事に没頭し、これと妥協するようなことがあってはならないのである。

吾がこのように、語るのは、今日の社会全般にわたる、弊害として、人々が私利私欲のみを貪り、個人の享楽に走り、国家社会や公のことなど、眼中に無いからである。

道理を無視して、私情に左右されれば、心は一方に偏り、必ず論争を引き起こし、そこで、仲間や党派を作って争い、それこそ社会不安や戦乱が止むことがないのは、実に此処に原因があるのである。

このようになってしまった世界は、重病人と同じで。その病巣の奥まで、治療する手段は一つしかない。

即ち、理を明らかにし、教えを盛んにして、七情六欲に偏る考えを抑制することである。

しかしながら、これを治療しようとしても、自分が持ち続けてきた誤った観念を改めなければ、どうして人を救うことが出来るであろうか。

吾が嘱望する、修道の人々よ。

重病であるこの世界の病源を探究し、その対処療法を施す為に深く悟り、その処方箋もって、先ず、自分自身を治療し、その後で、他人の治療に応用すれば、世界の重病も癒すことが出来るであろう。

諸子がこのように心を存して、道に邁進すれば、わが、道の身をたて世を化するところの、日も遠からず来るのである。







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