玄徳道

道を語るブログです。

至聖先天老祖と弟子道

2014-11-24 17:57:35 | 大道
至聖先天老祖。どこの神社にも、祭られていない神であります。大正時代に、中国で道院紅卍字会が発祥した際の主催神として、世に出ました。日本では道院と大本教の提携により、大本皇大神=至聖先天老祖となり、日本でも祭られるようになりました。大本教の出口王仁三郎聖師が至聖先天老祖を大国常立之大神、天之御中主之大神であると、審神された結果の所以であります。
現時点では宗教団体教祖達が至聖先天老祖を、北極の神、北極神界の主催神、伊勢外宮の神などと称されておられます。

至聖先天老祖を何神であるか、捉えるところは個人の思想と御魂相応です。しかし、至聖先天老祖出現された理由は、「塵世の衆生がその善なる先天の本性を迷失したる為に、戦乱災劫を造り、これを憐れんで、老祖はかつて一度も公開されなかった秘訣を以って法となし、五教(仏教、道教、儒教、キリスト教、イスラム教)の奥旨を統合し、以って用となし、世人悉く、その仁善祥和の本性を習得せしめ、世界をして平和に相互扶助せしめ、以って大同盛世(差別をつけぬ極めて公平な世の中、すなわち天地と一体になる)の境に達することを人々にこいねがい希望するために至聖先天老祖は降臨されたのであります。」

世が乱れ、大地が塗炭に還り、人類と生物を死滅から救うために顕れた神が至聖先天老祖。先天の一炁胞。

私は、人々が老祖をどのように捉えるか、等は人それぞれの勝手で良いと思います。あくまでも御魂相応。

老祖出現により、その老祖の門に入った者は必ず、道名が与えられます。道名を拝命した者こそが、老祖の弟子となります。それは、老祖が六万年に初めて降臨された時よりの縁。道名を拝命した者は道院紅卍字会から入った者、別な宗教団体から入った者、ワールドメイトから入った者、様々です。全ては縁であり、道名を持つ者こそが老祖の弟子でございます。

至聖先天老祖の弟子は、先天坐の秘と心印を得ることが学ぶことが出来ます。老祖の当体ともいうべき、太乙北極真経は消劫の言霊秘法であるとともに、先天坐法の奥義書でもあります。

先天坐法とは坐を実践することにより天人合化の道に至ります。心を鎮め、妄念を放出すれば、気が調います。気が体を正常に周れば、血液は速やかに流れ、脳と臓器は活発になります。体に元気が出れば、更に気は体を廻り水車の如く、各丹田、チャクラを鈍い回転から解き放ちます。これが潜在能力の開花です。チャクラは回転力を増し、輝き出します。ここに、物事からの執着に離れ、真の内なる神との出会いがあります。これを私は「小周天」と呼びます。

内なる神に目覚めた者は神の真実を悟り、外なる神への依存から解き放たれます。ここに、はじめて外なる地域の神々と対等に出会い、交わりが無心に出来るようになります。ここに、先天坐を行すれば、自己が御柱となり、神々との交流と、御柱は地球意識と触れ、坐柱はポールシフトと交わり、地球を安定にさせるのです。これを私は「大周天」と呼びます。

吾が師、老祖は坐をとても、大切になされておられます。先天坐を学びながら、それを行わない者は是を悟らねばなりません。老祖が悲しみます。

老祖の弟子の役割でいえば、未だ、潜伏する劫を弭化(災害や災いが起きる前に、先天の内にその因を抹消すること)することであります。

老祖の弟子たちは、秘伝の鎮心経、神化呪をはじめとする、多くの神呪経を唱える事ができます。各地域に散らばっているために、道院内で誦経による弭化、消劫が出来にくいのが現状です。しかし、日本には多くの神社が、神域があるので、神々と協力し、潜伏する劫を化することができます。老祖の弟子は縁ある神と合化し、悪業を化さねばなりません。
道院の秘伝の言霊を使えるのは、なんせ、老祖の弟子のみであるのだから。

炁楽仙女さんの著書で「鎮心経」がたま出版で発売されておられるので、老祖の弟子たちは参考にされれば良いとも考えます。


戦争が起これば沢山の人々が死にます。家屋や自然が燃え焼かれます。地震が起きれば、他の災劫も誘発し、津波、火事、家屋の倒壊により、不幸が訪れます。台風は土砂災害を呼び、風雨も人を不幸にします。そして、災害の因とは人間の悪想念、悪業が地球に潜伏し、地球から破裂するように引き起こすのです。故に老祖の弟子たちは、目に見えざる兆しを坐により、神呪、経により、弭化していかねば、多くの悲劇を生むのです。


人の多くは個人的悩みを抱えています。仕事の悩み、人間関係の悩み、家族、恋愛もろもろ。そして、多くの人が苦難の道を歩んでおられます。しかし、個人の悩みとは永遠です。尽きることはありません。しかし、ここで、一念奮起し、世の幸せの、多くの人々の安全のために、活動していただければ、個人の悩みをその瞬間忘れることが出来ます。これを「大義」と申します。義とは人の為であります。そして、その因果は必ず廻ります。善因は善果に、悪因は悪果に。それが早いか遅いかはわかりません。

しかし、果を求めず、大義に生きる。私は悩みも、苦しみも未だに尽きませんが、「義」は確かに気分が良いのであります。

コメント (26)
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