玄徳道

道を語るブログです。

魔と道、挽回の先天坐法

2012-09-10 22:21:28 | 坐道
早朝に太陽が昇り始める瞬間、黎明の気を浴び、気を食べると、心は清々しくなり、人は皆、神であり神の子であり、好悪も無く、民族の垣根を越えて、解かり合え、真に和することが出来るという思いが湧き出ます。この何気ない、無邪気な心こそ、道心であります。
道とは、歩むべき生命の元であり、太乙北極真経では、道胞、即ち「先天の炁胞」と述べられ、五教(道教、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教)の宗であり、根源なる至高の存在なのです。道院という団体では、根源鳴(な)る存在をを「至聖先天老祖」と述べています。
一部の宗教団体、霊能者ではこの神を北極星、北極神と述べたりしていますが完全なる誤りです。木を見て森を見ず、川を見て大海を知らず、半端な霊覚でしか捉えていませんね。

道、道心と相反する心が魔であり、欲心であります。人には好きな人、嫌いな人がいます。この好悪の根源こそが自己の中の欲望であります。人類発祥以来、その想念の蓄積が幽界の存在であり、悪魔の正体でもあります。そして誰しもの心には魔が存在するのです。ゆえに、吾が道が高まれば、魔も相対し、高くなるのです。

魔の正体は自己の欲心でありますが、自己の欲望を取り除く事は、今の現世の社会生活ではほぼ不可能です。様々な情報を得ている事態が興味心という欲であり、自身の生命エネルギーである「気」がそれにより消耗している真実を理解していても、どうすることもできないからです。

しかし、気の挽回する方法こそが坐であり、古より真理の探究者がこころざした法であります。しかし、坐することにより、真理を得た教えが長い年月を経て、人から人へと受け継がれていく中で、法が捻じ曲げられたり、魔の障壁があり、真実なる真我、内なる神との出会いである坐法が、下法である、人である師への恭順や信奉、帰依とされてきました。

ここに於いて、至聖先天老祖は人類の救済の筏、宝筏として、先天坐法を世に降ろしました。

しかし、それは、残念ながら、石門の弟子(六万年前より繋がる有縁の士)にのみ伝経されたにすぎません。

道院には道統があり、神様が決められた網則があり、道院に求修された方しか、先天坐を伝授されません。その門は狭いのです。ましてや日本の道院が隆盛し先天坐が世に広まる事は今後ありえません。中国発祥の教えなど、日本人の心に深く感化される事が無いからです。

しかし、老祖の意を汲み、道院の垣根を越えて、その救済の法を広めようとされる方もいます。(「生きる意味と方法!」の著者、炁楽仙女さん等。)

先天坐により、気を挽回し、心中に真炁を合し、天人合化を為したのであれば、道心は輝き、人心の中にある欲心は即座に霧散するのです。是を道院では真人とよび、妙山(神界)の働きを為す者となるのです。


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根源への回帰道

2012-09-09 19:03:02 | 天道
人は一つの小宇宙です。自己の本来の姿を知り、明らかにする事は道であります。これらの人を真理の探究者と謂います。
釈尊は若き時に、愛欲、性欲、物欲、名誉欲、差別欲、ありとあらゆる欲に、真実はないと全てを放棄しました。家族、地位名誉の放棄、これを「大いなる放棄」と述べます。涅槃への活眼でありました。しかし、真理欲、悟り欲は持ち続けていました。すべての生物を苦しみから救いたいと言う欲もあります。菩提樹の下で、悪魔、魔王との最大の相克はここにあったと私はかんがえます。

しかし、釈尊はそれら、魔王に克つのではなく、魔王すら受け入れ、涅槃に立つことが出来ました。中道を見いだした釈尊は、悟りし者「仏陀」と称されています。

涅槃とは安心の境地であり、宇宙意識であります。宇宙は限りなく流転し、生生化育を為しています。陰陽が常に交わり全ての気(炁)を集束し、放出しています。人もまた同じなのです。

ちなみにニートと言う言葉がありますが、家に閉じこもり自分だけの意識で物事を感じ、親に餌を与えられる人ですね。宇宙の意識が陰陽、相克しながら交わる以上、善悪、吉凶があろうとも、人と交わることがやはり道です。道が無ければ、怠惰であり、魂は腐ります。これは、死んでも変らぬ無限地獄であり、魔的存在以下でもあります。

坐して神の光を感じ得る。祈りにより神の意識に触れ光を得る。慈善を為して愛の光より神を感じる。これらはすべて道であります。ここに多くの宗教教祖の誤りは、得た光を至極当然とし、自己の宇宙のみに停滞させることにあります。
神光を得て、多くの信者や人々を救うのですが、人を救いたいと言う欲と、救ってあげたと言う名誉欲が、自分のみを特別な存在とさせ、自分が得た神の光のみに固執してしまうのです。ここに於いて、多くの教祖が邪道、魔道へと知らずに陥るのです。

全ての宇宙は交わり、流転しています。人も小天地、小宇宙である以上、その流れ、無為自然の流れに即さなければ、とても地球意識、宇宙意識に触れる事は不可能です。

先天炁と呼ばれる宇宙エネルギーは常時我々、人体に流れています。しかし、人間側の欲心により、拒絶されるのが今の人の真実です。素直で純朴な赤子の様な心であれば簡単に得られるのですが。そして今の人は先天炁を得ても、娯楽や趣味に気が奪われ、人体に於ける霊的機関、宇宙意識への関門、チャクラを顕わす事が難しくなっています。

イエス キリストは神の光を得てもそれを私服すること無く、自己の宇宙から、神なる根源へと光を返しました。是を上天に接すると申します。

光は神より発し、我々人に降り注いでいます。その光を無為自然に感得し、自己の宇宙を通して、他者を救済し、そして、根源へと回帰させる。これこそが根源神への回帰であり、全てを救済、済度を為す慈光となります。ここに、自分が救済するという欲心はありません。

真の地球、真の宇宙の安寧を為す者こそは、教義経典に囚われる事が無く光の循環を為す者なのです。


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