玄徳道

道を語るブログです。

先天坐道雑記10

2022-03-31 20:08:00 | 私的考察
ああ、坐って面倒くさい。そんな事を思う事もある。

しかし、坐(す)われない、時の事を思い起こせば、贅沢な思想である。

私は左官職人で、ごく稀に地方へ長期出張へ行く時がある。昔で言う、出稼ぎの如く。そうすると、一人一部屋では無く、二人一部屋であり、その中で坐する事が出来ない事がある。そこでは心坐を道とするが、礎たる形坐が出来ないのは、辛かったですね。

その時は身体が坐を求め、心も魂も坐を求めて、渇いておりましたよ。

なんせ、坐すれば、気が廻る。邪悪な私でも、光が吾が身体を回るのである。

この、至福は、先天の坐をした者でしか、理解出来ない。

故に、坐すると言う事は、幸せな道なのである。

私の知人に坐する神の巫女がおられ、その躍動は半端では無い。水を得た魚の如くである。

おいおい、あっという間にぬかされてしまう。

共に上下は無いが、心が純粋であればある程、坐はその本領を発揮する。

その知人は、坐して更に、神氣を集め、また、人の師となり、神に幸せを齎せ、また、世を救うのである。

坐に勝ち負けは無いが、私も負けてはいられないのであります。


いま、人の世は乱れている。

原子の機能は、修復を不可とし、人間の生存圏を穢している。また、人を服従させようと争う。

病を得ている者は、松を食えよ。

松は神の機能なり。ゆえに、弥勒の世を松の世と申す。

ああ、そう言えば、私は三回目のコロナワクチンを受けました。

私は坐する存在であり、ウィルスと共存出来る者であり、ワクチンは無用であるが、家族がそれを望むのであれば、ナンクルナイサあ。

ワクチンを打てば、二年で死ぬと言われる方もおられますが、残念ながら、死にません。

後、三十年もすれば、ワクチンを攻撃した者も、ワクチンを推奨した者も、騒いだ功が無かったのを知れる。

人間の身体は、かつて、多くの滅びを経て、なかなか、しぶといので御座います。
 
もし、人間種が滅びるとすれば、イクサ、戦の一字あるのみ。

坐する。最近は、心は竅を離れず、身は道と神を離れずを良く考えて坐しております。

坐する。そこに、心理的努力は無用。私は坐して、後は、吾が身体に、吾が内なる神に、任せております。

時折、呼吸が浅く、なだらかになり、肺呼吸がわずかとなり、身体全体で息をしている事を覚えます。

呼吸が無くても、苦しくならず、胎息している感があります。

それは、本当か嘘なのか。しかし、確実に呼吸は少しで充分となっているのです。

ははは。坐って素晴らしい。

私は、至聖先天老祖が、坐なる道を人に薦めるのは、坐により、吾が救われ、神化の道を得られ、尚且つ、地球のポールシフトに善なる影響を与え、地軸を安定させる効果があるゆえだと、考えております。






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坐難解道。

2022-03-25 19:49:00 | 道院
坐の難しいところについては、まことに不可思議なものがあり、それは、坐が無為自然にあるからであり、また、恒にして、変わらないからである。

(鬼雷述べる。人は変化をもって進化とする。されど考えてみよ、進歩とは何か。進化とは何か。悟りとは、覚え。自覚あるのみ。変化なく、任運自然なれば、人は対抗する意識なく、永遠の幸せを得る事が出来るのである。)

坐が難しいとは、心が複雑で難しいのであり、易しいとは、神について言っているのである。

何を心が難しいというのであろうか。

それは、速功(速く効果を求める)を願う心があるからである。

これは修養の大障害である。

もし、その自然に任せて、その気息の往来を聞き、神をして、身体より離れないようにすれば、霊気の感通は、自ずから玄妙な境地があり、無為にして、なさざることなく、通じることなくして通ぜざることななしの、境地があるのである。

(鬼雷述べる。先天坐法の簡単なところは、心は気の流れを感じ、さらに心を安らかに平らかにして、後は、吾が宇宙なる身魂に任せるだけである。此処に意識による工夫などすれば、自然からはなれ、人意の坐となり、神から離れるのであります。)

その原因は、坐は妄念が無ければ、それは静ということが出来るであろうか。

いわく、その通りであり、その通りではないのである。

その通りというのは、自然だからである。

その通りでは無いというのは、強制だからである。

初めて修める者にはこの強制を用いる者が多いのである。

故に必ずしも、妄念を克服するとは言わないで、ただ、その意念を静にすると言うだけである。

もし、坐を修めて数年もたてば、その妄念を減少し、また、取り去ることが出来るであろう。

いわゆる妄念とは、これを取り去ることは、容易なことではなく、その念を止めるということも難しいことである。

故に必ず、神を守ることを以て妄念を制止するところの工夫と為すのである。

(鬼雷述べる、何をもって神を守るのか。敬を以て神を守るのである。敬とは主一無適なり、その意味は、一とは無欲であり、主(神)を慕うが何も求めない心なり。)

神を守る事が出来れば、必ず静となる。

神が静にして、後、気が固まり、気が固まれば、静中に必ず道心の機があり、道心の機があれば、妄念は起きることはないのである。

念と言う字もまた、執着するところがなければ、どうして妄念があろうか。

我々の基礎はもとより、前世から深く、智慧を備えており、ましてや、修養の功候においても、自ら無形の心においても益するところがある。

そこで必ず妄念を制止することは、自然にあるので、強制的なところにはないのである。

自然と強制との違いはほんのわずかな、間にあって、また静中における動の機もかすかな違いであって、これらの坐功によって妄念が段々と化するようになって、内修の候が転ずるに至らなければ、天行健(天の運行は健全で、永遠に止むことはない)にして、人はこれを見習って、自強不息(自ら強めて、息むことはない)と言う境地に到達することは、出来ないのである。


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令和四年三月 三六九神示。

2022-03-21 18:58:00 | 神示道
二つに、にう(ひび割れ)入りかけたこの世界、今のままではどうにもならぬぞよ。
(注 にう=陶器などのひび割れ、赤き辰、赤き鬼、独裁主義の思凝霊。)

世界人類如何にする。

赤き辰(龍)と赤き鬼、相談致して、世界を自在にいたそうと、様々の策を練り、コロナウィルスを撒き散らし、ロシアは戦争を起こしてウクライナの原発をも破壊せんといたしておるぞ。

ロシアは我が国を守らん為と申しておるが、それを為したら共倒れとなるのじゃぞ。

総べては原因結果であり、裏に隠された因縁は必ず浄化の為に浮かび上りてくるのじゃぞ。

人の不幸も病も世界の様も、みな理はひとつじゃ。

この度のロシアとウクライナの戦争も今に始まった事ではない。

長年、くすぶりつづけておりた赤き辰の野望がプ-チンを使いて浮かび登りてまいりたのじゃ。

段々とさびれてゆくロシアを立て直し出来れば、欧米やその末、世界を自在にしたい野望、その裏には中国の鬼とも相通じて来たのであるぞ。

中国は今、オリンピックの最中で世界から悪く言われぬように静かにいたしておるが、神の授けた言論の自由を権力で封じておる如きは、神の許さぬところであるぞ。

皆がそれぞれの御魂の特技特性使命を果たし、それを和と結びて、恒久平和の弥勒の世開きが神界の念願であるが中々人民の利己主義(われよし)の改心が出来ず、物質文明の陰に亡びの道を開きつつある今日であるから、やむ得ず善も悪も使いて、辛く悲しい荒事も起こして、もう金輪際、悪事はせぬと言うところまで、人類の試練浄化は続くぞよ。

その度に犠牲になる者も出来、気の毒だが、神の言う事を聞きて、皆が心を改め争いを止めれば、辛い悲しい思いをせんでも良いのであれど、言うて聞かせても解散どころか、我が思い我意地を通すばかり。

ロシアに対し世界からもう戦争は止めよと制裁を受けるは、内も外も敵ばかりで、引っ込みつかぬようになりて、尚も荒ぶり、我が身を正統化する為に相手を悪くいい、我が身の為した悪事まで相手がした如く申し、嘘偽りの言葉で我を守らんといたすのであるが、嘘の皮は、剥がれ、報いは我に迫りて来るぞよ。

とにかく、多くの者を苦しめ、犠牲にする戦争は許されぬ事であるぞよ。

外から様々諌め制裁を致しても聞かねば、内から責められ、言い訳は通らぬようになりて、我が身が消えねばならぬ事となるぞよ。

プ-チンも元はロシアを守る、我が身の思いを現す為に起こしたことであるが、武力で相手を従わせ、多くの者を犠牲にした事は、何の正義も立たぬ事であり、もうそろそろ引っ込みなされよ。

この度の事は、如何に我が身に理があるとも、武力で相手を服従させる事の愚かさ、その末我が身を亡す事となる。

末代までの警告であるぞ。

鬼も邪も、人民が悪い心を改め素直な水晶の御魂となる為に、悪事の大芝居も為すのであり、人民の改心できたら消えるぞよ。

それが思凝霊(しこりがみ)であるぞよ。

さあ、日の出三六九の世の到来と申してあるが、コロナや戦争や恐ろしき事が何で起こるのかと、神を信じて来た者も不審に思うであるが、総ての事象は原因結果であり、隠れておりた悪き因縁や思いは一度は浮かび上がらせ浄化せねばならぬ神定(さだめ)である故、恐ろしき事も浮かび上がりて来るのであり、それで大掃除為すのであるぞよ。

くどい程申してあるが、核を使いた戦争を致せば、人類は滅亡であるから、チェルノブイルの事、福島原発損壊の事、この度のロシアのウクライナ原発攻撃する等、きりきりのところで、その恐ろしさを警告してあるぞよ。

これ等の警告を世界の人類肝に命じ、核を使いた世界の大戦等起こせばどうなるか誰でも判るであろうぞ。

滅亡に、向いておる人類の愚かな姿を何としても改心させ、人類を産みた時の神の最初の願い、現の地球に神人和楽の地上天国を開きたい思いは今も変わり無く世界に様々の大芝居を見せて人類の改心を、迫るのであるぞよ。

昇る日の出に闇は晴れ隠れておりた様々の事が皆ありやかに見えて来る水晶の世の始まりであるぞよ。

恐ろしき荒事の重なる世であるが、降る雪のごとに春は近まる如くであるぞ。

艮の金神国常立大神三千年の念願を実らす為に、三千世界の根底からの浄めを、いたすこの時じゃ。

こらまで、人類の積み重ねて来た汚れ穢れ罪科のある故に赤き辰も赤き鬼もはたらくのじゃぞ。

ちと、人民には判らぬ四九三(しくみ)が致してあるぞ。

艮の金神の念願実らす為、日の出の神と龍宮乙姫つれそってあらわれるのが、男島女島の始めからの神図りであるぞ。

今、この神示、読む者は、日の出神、龍宮乙姫の縁の御魂であるぞ。

荒れ狂う大浄化の今の世に、立直しの役目を持ちて生まれた事を自覚し、天地弥栄日本鎮国世界平和万民至福を祈りつつ、それぞれの場で世の闇を晴らす、一点の光となりて、歩みゆくのじゃ。

如何なる嵐も必ず止みて、日の出の光輝く日は来る。

二つに、にゅう(ひび)の入りかけた世界も末、九九理姫の働きに結ばれる日も来るぞよ。

言霊神也 ン。

令和四年三月八日

天橋道士 龍華斎 修聖拝写。



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令和四年三月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇。

2022-03-20 17:43:00 | 神示道

ロシアモスクワのクレムリン宮殿が見え、その上空の薄暗い夜空に、大きな赤き辰(龍)が火煙を吹きながら舞っており、次には、中国天安門の楼上に虎の腰巻をつけた、大きな赤鬼が鉄棒を持って現れました。

その鬼は上を見たり下を見たり、左や右を見たり、何か窺っているようでした。

そして、丹後の男島女島の中程より、太陽が昇ると、龍や鬼の姿は消え、天之橋立飛龍観が美しく見えました。

(注 クレムリンの宮殿上空の赤き辰は、今ロシアを動かしている、世界を自在にせんとする野望の思凝霊であり、プ-チンもこの辰に動かされている。

中国天安門の赤き鬼は、中国を動かしている思凝霊であり、今オリンピックの開催中でもあり、世界の動向を窺っておる様であろう。

赤き辰は欧米を、赤き鬼は亜細亜を自在にし、末は結託して世界を支配せんとする魂胆であろう。

そのような恐ろしき動きを鎮め世界に平和をもたらすのが、日の出の神と龍宮乙姫(瀬織津姫)の働きであり、日本の使命である。)

次に出口聖師が大なる伊豆能売観音の作陶をされている姿が見えました。

(注 伊豆能売とは、厳瑞、陰陽調和の完成の姿であり、禊ぎきった意(明浄正直)である。

観音とは神音、神の言霊の意である。

神意に順い、争いの無い神成(完成)の世を願っておられる姿であろう。)

次に出口直刀自が天野大社(丹生都姫神社)へ参拝の様が見えました。

(注 出口直刀自は艮金神の筆先を明治二十五年から取りつがれたが、その御魂は、丹生都姫の神より出ていると言われている。)




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天災人災を化す道。

2022-03-19 19:34:00 | 坐道
地震や台風などによる災害は、人間の因果における、原因と結果に因るものなのか。

中華における、天命思想では、政事、祭り事を行う、天子、皇帝、天皇の政治が善であれば、自然災害は治まり、帝の施政が悪ければ、また、為政者に誠と徳が無ければ、業は劫を呼ぶ事となり、世は乱れ、民は困窮すると言う。

帝の行いが天災に繋がると言うが、どうであろうか。

確かに聖徳による感化は、世を治める。自然災害も業をも和らげる、かも知れない。

原因があり、結果がある。故に、明治の世から令和にかけて、そして、その後の時代の三世も、乱世である。と考えます。

世も乱れ、更に人の心が乱れる結果でもある。

何を以て、世が乱れるのであろうか。世の乱れは、人の心に即応しているからである。
物や金が生命よりも尊しとする思考。
そして先ず、人を救う為の宗教が物や金によりて成り立っている。故に宗教は乱れ、それを唯一とする人民は盲信し、更に世の乱れに拍車をかけるなり。

また、人々は目に見えぬ、神を素直に感じず、また、繋がれず、宗教や偶像に神を見出そうとし、盲目となる。

内なる神と出逢えるすべを悟れない。


さて、日本天皇の役割とは、日本神霊界の霊的族長である。

故に、常に、更に、民をもって吾が家族と為さなければ、族長とは言えない。

それは、血筋では無い。志なり。天命への悟りなり、覚悟なり。

人の血筋は、地球の木の実であり、皇族貴族の血筋と平民の血筋の、違いは、人間による思考でしかない。愚かなるかな。

さて、日本の天皇が人民の為に祭事を行い、誠心によって、神が応えれば、世の天災は無くなるのであろうか。

人々が弥勒の心を取り戻し、大和の心に添い、大道の道を歩めば、天災が無くなるのであろうか。

否。

天災とは理不尽なり。悲しみの連続。人種への淘汰。

三六九神示では、多くの天災台風地震等は、人を改心させる神の手段の如く描かれているが、それは、本当なのであろうか。

地球史では、今まで、多くの文明が興隆し滅んで来た。

そして、多くの善男善女が、理不尽の地球の隆起振動により、無くなり、悲しみの輪廻に囚われている。

いずれにせよ、神ならぬ身には、人智を超えた神の御心は判りずらい。

天災は理不尽なり。されど人災は、明らかに因果律とカルマによる。

人が起こす戦争とは、我良しの心から生まれるが、これが劫と膨れれば、自断となり、人自らが、人類を終焉へと、滅びへと、人種が消え去るのである。

私は、幼少期より、人類の滅びを望んで来たが、今は、次の世代への礎とならんと欲する。

さて、理不尽と人災は、今まさに、人種を淘汰しているかのように、見える。

かつて、出口王仁三郎聖師は、駿河における大地震の被害を抑えるために、三陸方面に、大震災をおいやったため、岩手県の釜石で大津波が起きて、被害が大きかったと、アメブロの「瑞霊に倣いて」に書いてありましたが、吾が道は、鎮道弭劫経道である。

災いを他所にやったりはしない。

劫を化す。化する働き。カルマを消すのである。

吾が師、老祖より、伝授された、先天坐法は、天と地の狭間の中にある、人体において、火と水、陽と陰が交わり、化育する。

生成化育が、宇宙の働きである。

坐によりて、身体の神秘が交わるが故に、神霊が是を尊び、惟に応えるのである。

弭化とは、この宇宙の化育による浄化のはたらきでなのである。

至聖先天老祖の真経を唱えれば、消劫の働きがあるのは、この為であり、まして、真経の実践なる坐道。その働きは、無限である。

もし、あなたが、名も要らず、地位も名誉も、金も官位も要らず、この地球と言う星を愛するのであれば、坐を以て道とし、吾が宇宙の坐軸をもって、地球の柱となし、地球のカルマを化し、地軸の安泰を行うべきである。是を知れ。

ただ、先天坐は、無為自然であり、その功果は直ぐに得られないが為に解りにくいのである。




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