玄徳道

道を語るブログです。

坐道奥義、八宝。

2024-01-01 09:24:00 | 坐道
世は乱れる。

何故、乱れるのであろうか。

人は調和秩序を大切にするが、乱しもする。

何故、乱すのであろうか。

人種は、調和秩序より、自己利益を大切にする。

例え、調和秩序を乱しても、自己に利益があれば、人は許すなり。

小さな乱れは、大きな流れとなる。

それが人類を呑み込む大津波ともなりえる。


先天坐とは、人の貴種等の生まれは関係無し。

もし、先天坐をすれば、調和のなんたるかを知り得るかもしれません。

何故ならば、人の存在意義を悟るから。

それが、天皇である、日本の族長であるとも然り。

なんせ人の種は、同じ木の実。

誠による、誠実が、神により、人を分ける由縁であります。

坐すれば、開かれん。

何を開くのか。

吾が本性を開く。

開けば、ひらめかん。

何をひらめくのか、吾が神をなり。

そこで、何故、人は瞑想し、また、迷走するのか。

確かに瞑想すれば、本当の自分に還る。

また、瞑想すれば、本当の自分を知る。

しかし、そこに至るには、純粋で無ければならない。

純粋瞑想にして、初めて至る。

もし、瞑想に欲を抱けば、迷走する。

真理を悟りを開きたい、幸せになりたい。超能力を得たい、金運を得たい、伴侶家族を得たい、名誉を得たい、神と繋がりたい。

坐の基本は黙って坐り、何も望まない。


扨て、先天坐には、基本の八つの法則と言うか、基礎八宝があります。

一、塞兌。つまり、口を塞ぐことです。簡単に言えば、坐中は鼻呼吸がメインとなります。

ただ、鼻呼吸が苦手で、鼻の悪い人は、如何にすべきか。

私は幼少期より、慢性鼻炎であり、高校時代には、片方の鼻呼吸が出来なくなり、とても苦しかった時間もありました。

先天坐をしてからは、鼻呼吸で苦しいときもありましたが、坐のリラックス感により、鼻の呼吸には、不便も自然と無くなりました。

二.鵲橋。これは、スズメの橋を架けると言う意味でして、舌を上顎の歯の裏に軽く当てて、丁度、橋を架けるようにすることです。
人体には、任脈と督脈があり、独立して働いておりますが、その掛橋として、舌を上顎に軽く触れるのです。そうすれば、陰と陽、その中の真陽と真陰が出逢います。龍と虎、童子と妃女との出会いとも言い、それは、生成化育の一端でもあります。ただ、舌を上顎にに付けるのみです。後で述べる、回光に繋がる道でもあります。

三、斂神。斂とは、神を修める、治める意味であり、吾が内在する神を悟り、吾が身の内に神が宿っている事実を把握することでもあります。今の人は、外に神様がおられると、思考し、吾が御魂の存在を認識出来ておりません。しかし、坐すれば、自然と吾が神と向き合う事が出来るようになります。
坐とは、真に吾が神との交流の場でもあるのでございます。
また、人の神経の事でもあり、人の因果率は、殆ど、この神系を通して、痛みと安らぎがやって来ます。
故に、坐すれば、如何なる痛み苦しみさえも、和らぐのであります。

四、垂簾。簾をたらすとは、坐中に瞼(まぶた)を垂らすことであります。なぜ、目をつぶれとは、言わないのか。簾には必ず隙間があります。また、目をぎゅっとつぶるのは、自然ではありません。簾の如く、隙間がある事が、そこに光が入る事となります。菩薩の半眼の如く、自然による集中する機能が上がります。また、目をつむると光が入りませんし、目を開ければ、光は出てしまいます。簾を垂らすと自然と光が入ってくる意味がございます。

五、観鼻。坐すれは、人には、様々な妄念が浮かび、静かに坐ることができません。仕事、家族、今日の仕事のノルマ、色々な事を考えしまいます。妄念が起きれば、吾が神と出会えず、妄想の虜となってしまいます。そこで、瞼の隙間から吾が真ん中を見るのです。そこには、鼻があります。一生懸命見ようとせず、鼻を見るか見ないかのひとぎわの最中に、妄念を起こさないようにするのであります。

また、鼻は、顔の中心にあります。中心軸を意識する意味合いもあり、自己の中心を得る事を、神の道では、噬む、素戔嗚尊と、申します。
スサノオの御心を得れば、もはや、占い等に、頼ることは無いのです。

六、回光。鵲橋にて、任脈と督脈が合流すると、全身に氣が自ずと巡り流れます。それは、今まで停滞していた水車を動かします。
水車とは、丹田とか、チャクラとか言われる、目に見えない霊的器官でもあり、これが任運自然と周れば、身体の中でも、高次の自身と低次の自身が大調和なる光を生み出します。(魂と魄の大調和、神人合一。)
そして、この光こそが、宇宙の霊的光と同等なのでございます。
仙道では小周天とも申すのでしょうか。

七、返聴。道院の習坐には、収視返聴(視を、収め聴を、返す)があり、初坐の基本ともなりますが、ここでは、物質次元の音を受け取らず返して、吾が内鳴る神音を聞くとも言うのでしょうか、回光し、廻っているチャクラの決して聞こえない、響きを聴くと申しましょうか。孔子さんは、天命を知ってから後に耳に順うとおっしゃっておられます。
今の人は音とは、聞こえるものであり、また、霊耳や天耳とは、怪しい声や神様が喋っている声が聞こえると考えるでしょうが、本当の天耳とは、物質や、思考を無くした、魂で感じるものであると考えます。
出口王仁師は、龍神には耳が無く、真の言霊でなければ、動かせないとも言われておられますが、その通りであると考えます。
坐して瞑目すれば、外界の音を返して、吾が耳で内なる自身を観て、聴く。ちなみに荘子さんは、目で聴き、耳で視るとも、申しておられるようです。

八、守竅。竅とはエネルギーが出入りする、霊的な穴で、空が交わると書いて(漢字変換出来ず)います。故に、竅を守るとは、竅[玄関(心臓)、元頂(頭上)、臍下丹田(腹部)等]に意識を合わせる意味であるとも解釈しますが、私は、それらに意識を重ね過ぎると、着相(執着)となり、暗黒面を生むとも考えます。
先天坐は、自然坐であり、人為による努力はほどほどで、あとは静観し、自然に任せるに限ると考えます。
故に、ここで言う守竅とは、坐で得た感覚を日常生活で活用する、心坐に繋がることであるかと考えます。

今、地球は揺れていて、天災地災人災は、いつでもどこでも、襲って来ます。

その最中、常時戦場の心を持ち、常住坐臥こそが生命が奪われたとしても、霊的生物の真価を発揮すると考えます。
忙しく働いている最中でも、ふとした時でも坐の感覚を取り戻し、為す。

そして、息坐に、至る。



たかが、先天坐法。されど先天坐法。

此処で、坐とは黙って坐るのみ。

瞑想との違いは、如何に。

世に鎮魂法、また.様々な瞑想がある。


先生の言う事を聞いていれば、幸せになる。

先生の言う事を聞いていれば、間違いが無い。

それらは、全てが間違っておられます。いや、私は、そう考えます。

先天坐には、強制もなく、師は、神鳴る、先天老祖。

先生に、従うも学びでありますが、先生の遣り方を真似ても、貴方の内なる神様は、本当に、それを臨んでおられるのでしょうか。

いずれにしても、己が、自ずと、目覚めることが大切であります。

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坐息道

2023-11-06 18:53:00 | 坐道
坐と言うのは、この息を運化する。

運んで化する。

この息を真坐息と呼ぶ。

しかし、この息は、非常に難しい。

我々が息といえば、それは呼吸である。

呼吸とは、肺により連動し、空気の恩恵を受け入れて、不用なものを排出する。

はあはあ、スウスウ、して、音が聞こえるのは、本当の呼吸では、ございません。

動物も植物も呼吸します。

そして、植物の呼吸とは、聞こえない。

けれども、植物が呼吸しているのは、水の中に入ればすぐ解ります。

水の中に植物を入れると泡が出ます。酸素、また、二酸化炭素を吸収して、排斥している事実が、あるからです。

人の呼吸も、坐すると、今の呼吸から離れます。

口で呼吸しない。鼻で呼吸しない。

当然に、最初は、口と鼻を使って呼吸しますが、坐に深く根ざすと、呼吸を忘れて、呼吸がだんだん細くなり、呼吸しているが、わからなくなる。

そうすると、身体全体の細胞が勝手に、自然と呼吸しだします。

これを胎息と申します。

ここで、述べる、胎息と言うのは、特別な呼吸ではありません。

なんせ胎息は、全ての人間が経験しているからです。

生まれる以前、母の胎内に存在する時に、口や鼻で呼吸せずに、身体全体で呼吸していました。

オギャと生まれ、外に出た赤子は、即座に肺による呼吸に変わり、泣き叫びますが、胎息とは、人ならば、元に還り、出来る呼吸なのでございます。

人は知識を増やし、欲が増えて!留まる所を知りません。

自己の存在が滅びるまで、その探究心は止みません。

しかし、一度でも、胎息となり、生まれる以前の自分自神をしれば、この世の価値観とは、脆く、滅びへと向かってると、感じることでございます。

多くの人は、オギャーと生まれて、腹が減った、人の世の雑音の不快感、お尻に不快感、お母さん、かまって〜よ、お父さん、ウザい、などと、欲望に目覚め、それにより、生まれる以前の価値観を忘れてしまいます。

坐とは、生まれ以前の己を知ることが出来るのでございます。。。

古の道家は、「人間は、鼻で呼吸するが、神仙は、足の裏で呼吸する」と。

それは、嘘偽りでは無いのでございます。




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自然坐道。

2023-10-28 18:07:00 | 坐道
坐するとは、瞑想とは、ただ、黙って坐る。

損も、得もなく、ただ、坐る。

そこで、自発があっても、強制しては、ならない。

そこで、無理をしては、ならない。

自然に坐れるか、坐れないか。

もし、自然に坐る事が出来ないのであれば、坐は、辞めるべきである。

「自然にまかせていると、何時か早い人は早く、遅い人は遅く、何事も急ぐ事は無い。

坐とは急がないでやって下さい。

もし、それを、坐することを強調すると、今度は、枯寂になってしまう。

これは、どう言う事か。

丁度木が枯れたのと同じように、芽が出ない。

化しない。

変化上昇しない。

坐を強制し、何がなんでもしなければ、ならないと、坐すると、枯寂し、枯渇し、自己の神をも苦しめ、内鳴る神を削り、自らの御魂を滅ぼしてしまう。

瞑想とは、かつての、古の修道人でも、仏教でも、儒者墨者、耶蘇教、回教でも、坐する事は、修行に於いて、上乗の境地に至るためには、必然の道でありました。

その最中強制して、坐する者は、枯渇し、逆に道を失ってしまいました。

努める者は、報われる。

しかし、勉める者は、道を失う。

強制して、坐ると確かに静かになる。

しかし、気質は変化しない。

強制して、坐り続け、そこから、動かないで、髪の毛も髭も伸びて、百年もそこから動かない。

そうすると、とうとう、石になってしまう。いや、石なってしまった。

吾が師、至聖先天老祖は、ここで述べる。

「そんな石のようなに、なるならば、いっそ、坐をやらない方が善い。」

こうなると、もはや、助からない。

今世に修道が出来なくても、まだ、来世がある。

強制して、坐すよりも、また、来世を待って修道した方が、石になるよりも、まし、である。

(注 鬼雷述べる。かつて、自然岩石から上乗なされて、天使になられた存在もありますが、人から岩石になるのは、自らの生成化育を辞めた証しであり、いずれ、親神から賜った御魂も塵となります。)

もし、あなたが、悟ろう、永遠の生命を得ようと、無理して、強制して、坐するのであれば、生命は全然無くなり、死にもしなければ、生きる事も無く、元神から頂いた、玉をも失い、塵に還るのみである。

しかし、坐さねば、道は開かれん。

坐とは、かんながらたまちはへませ、なり。

坐とは、自発、努める、克己復礼。

多少の強制により、矯正するのみ。
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鎮魂道。

2022-06-15 10:00:00 | 坐道
神の黙示は、則ち、吾俯仰観察する宇宙の霊力体の三大を以ってす。

一、天地の具象を観察して真神の体を試行錯誤すべし。

一、万有の運化の毫差なきを以て真神の力を思考すべし。

一、活物の心性を覚悟し、真神の霊魂を思考すべし。

霊学の要は浄心にあり。


神がその人に伝授される。

その証しである鎮魂石をもって、そこに、意識を集中する。

その証しである、磐笛を以て、神界と人界を宥和するのであります。

鬼雷述べる。磐笛とは神霊を呼ぶ為の神石ではありません。人と神と磐笛の精霊と共に、地球を癒す、神と人と精霊を和す、音霊の発露で御座います。

共に神縁ある身魂に授かれし神石でございます。

神が、鎮魂石や磐笛を授ける由縁は一重に、随神あるのみであり、神は常に、人との繋がりを大切にされておられます。

ただの、自然に落ちている石。そのただの石は生物で無い為に、地球創世から億年と活きているので御座います。。。神なる石をもって活石と申しますね。

鎮魂石は一センチ内外の玉石、真丸に近い石であります
磐笛は吹けば鳴る石。共に自然石であり、鎮魂石を水晶石に代用するお方もありますが、それは、ナンセンス。磐笛をお金で買うのもナンセンスでございます。

鎮魂石、磐笛は神域の海岸や川、縁ある神社にて賜れれば、良き哉。

扨て。

最初は、鎮魂印を示し、吾が御魂や心が鎮魂石に入り至り、尚且つ、天之御中主大神に通じると思念もする。

言わば、鎮魂法とは、人々の生活想念から、神為る存在に意識を変える行いでもあります。

鎮魂の法。

「神霊に通じ、神の御心を覚り、その心を吾が心として、まつりごとに誤りなきを期す。」
「人間の奥底に眠る天授の霊魂を神霊との交流によって目覚めされ、自己の霊魂を覆っている先祖からの罪穢れを神霊の御光に浴する度に、一枚一枚薄神を剥ぐように、徐々に祓い清めて、遂に本来の神授の霊魂の輝きを発揮し、遂には、霊肉分離し得て、自己の意志に基づき自由に霊魂の運転活用を計り神霊に接して神慮を覚り、神の御心を吾が心として、霊止(ひと)たる、道を完(まっと)うせんとする神法である。

かつて、戦前の大本教では、大本霊学として、出口聖師が受けられた神伝の鎮魂法と本田親徳霊学の鎮魂法帰神術をもって、神人合一の法として、その行法を行っていたが、みな、神による不可思議な神憑りに心を奪われて、その基(もとい)の鎮魂法をおろそかにされた。ゆえに、常に低級霊が憑きまとい、出口王仁師は、この道を断念されました。
言わば、御魂相応、心相応の神霊としか感合せず、多くの大本人には、真の神使が懸かることが無かった事によると考えます。

現在の大本教にも、鎮魂法があるようですが、一種の精神集中する為の行法であるようであり、真の鎮魂法では無いようです。

ちなみに出口聖師に縁ある身魂の信仰者は、霊界物語を音読されることによって、弥勒の世の到来を成す神業として、奉仕されておられます。

予言のみ、好きな信者は、ともすれば、妖言過言に、脱線するなり。

占いを、好きな信者は、ともすれば、自己の内神、覚えること無し。

神の道を歩む者には、全て、ありがたく、病、苦しみ、楽しみ、孤独、仲間たち、家族、全て嫌悪せずに、受け入れる。占いに頼らず、預言を好まず、随神のごとく、惟神のごとく、自然に従順であるのみ。

悪しきこと、破滅こと、良きこと、学べること、なんにでも、ありがとう。

(鬼雷述べる。私は、このような、綺麗事は嫌いであり、私自身、善なる者を愛し、悪なる者を憎む心は百倍界王拳であります。されど、此処に到達天、恬然であります。ああ、嫌いな者に心からありがとうと言える日が来るのであろうか。ああ、かむながらたまちはえませ。)

魂(たましい)は、賜りしヒ(霊)

「幽冥に通じる道、唯其れ専修に在り
」「鎮心活動」「神性の発揮」

「或いは己の霊を以て己の霊に対し、或いはおのれの霊を以て一人の霊に対し、或いは己の霊を以て一国の霊に対し、或いは己の霊を以て億萬無数の霊に対す。」
本田親徳翁。

鎮魂は、その人の強い意志と真心、努力さえあれば、専修によって一定の境地には、誰でも達するものである。

霊学は「真心を練る法」であり、これによって人生の意義人たる道を覚り、社会国家に各自の天職を通して、奉仕の誠を尽くすこそ、霊学の真の目的である。

鎮魂の要諦は、自己の奥底に眠っている霊魂の運転活動にあり、心が騒然としていては、魂の活動も発揮できないのである。(鬼雷述べる、渡辺勝義師は、鎮魂中、無念無想とならなければ、それは、真の鎮魂と、ならないと申されておられます。)

鎮魂は魂降り、魂触れ、魂殖ゆ、祓い、受霊等、密接に関連する。

即ち本田翁によれば、鎮魂の要諦は自己の霊魂の運転活動にあり、鎮魂の法を修する事により、霊肉分離の境地を会得し、ついで神界に出入りし得て、様々なる神霊の実在を探知し得るに至ると言うものである。

神ごとに、お仕えする時に一番気を付けなければならない事は、そこにお仕えする人が、見苦しい人間心(自我)を出して、道を穢し、知らず知らず、尊い御神業を、ご人業に堕とせしめてしまう事である。

神の道の畏しさ、厳しさというものを、知らない者は、おうおうにして、こうした誤りを犯すものであるから。
(鬼雷述べる。神の道とは、人欲を排した天理に至り、人心を捨て道心あるのみでして、人の見ていない日常生活のなかで、如何に神に仕えられるかが課題であると考えます。「小人閑居して不善を為す、のち君子を見て嫣然とその不善を覆い隠し、善を表す。」)

渡辺勝義師。


何事も鎮魂が必要である。

ある事を成さんとせば、まずその始めに当たって、いわゆる鎮魂をなさねばならぬ。

すなわち、四散している霊をその点へ集中する事が必要なのである。

もし、この事なしに着手しても決して成し遂げられるものではない。

レンズで集中すれば太陽の光線も家を焼く事ができる。

われわれの意念でもこれを一点に集めなければ、けだし、思いもおよばざる、大偉力を奉ずるのである。

吾人の生活の常住坐臥、これ鎮魂の姿勢でなくてはならぬ。

鎮魂の出来ない人は、一生涯になに一つできようはずがない。

吾が人の活動の準備としては、先ず何より第一に鎮魂の修業をなすべきである。

鎮魂の極地は、時、処を超絶しうるのである。
しかして、心身が健全でなくては、真の鎮魂は出来ない。

出口日出麿 運霊師。

かつて、出口王仁三郎 尋仁聖師は、鎮魂法帰神術を断念されました。そして、大本は聖師亡き後、神伝の鎮魂法は失伝されました。(本田霊学を継承されている方も殆どのおられないかと考えます。)

そこで、昭和の時代、大本の御神体を崑崙山へ遷神した、笹目秀和仙人は、戦後、和の大本、中の道院の連携をもって、神伝の先天坐法を鎮魂法の復活とし、大本と道院により、霊界物語の三五教のごとく、より弥栄に、綿密になろうとされましたが、当時の大本の三代教主直日さんはこれを拒絶されました。

出口聖師亡き後、大本教では、道院紅卍字会は中国の宗教であり、かつて、大本皇大御神=至聖先天老祖と唱された事実は失われて、別の神さまとなっていたからであります。

鎮魂法と先天坐法の違いは何であろうか。

鎮魂法は鎮魂石を以て、意識を集中する。

先天坐法は、意識を放棄し、虚心で坐る。

共に至る頂きは同じで御座います。。

鎮魂法は舟を自力で漕ぎ至る道。

先天坐法は筏に乗り自然に任せて流れて至る道。


自力あり 他力とありて 合わされば 十字の光 全てを救わん。







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天災人災を化す道。

2022-03-19 19:34:00 | 坐道
地震や台風などによる災害は、人間の因果における、原因と結果に因るものなのか。

中華における、天命思想では、政事、祭り事を行う、天子、皇帝、天皇の政治が善であれば、自然災害は治まり、帝の施政が悪ければ、また、為政者に誠と徳が無ければ、業は劫を呼ぶ事となり、世は乱れ、民は困窮すると言う。

帝の行いが天災に繋がると言うが、どうであろうか。

確かに聖徳による感化は、世を治める。自然災害も業をも和らげる、かも知れない。

原因があり、結果がある。故に、明治の世から令和にかけて、そして、その後の時代の三世も、乱世である。と考えます。

世も乱れ、更に人の心が乱れる結果でもある。

何を以て、世が乱れるのであろうか。世の乱れは、人の心に即応しているからである。
物や金が生命よりも尊しとする思考。
そして先ず、人を救う為の宗教が物や金によりて成り立っている。故に宗教は乱れ、それを唯一とする人民は盲信し、更に世の乱れに拍車をかけるなり。

また、人々は目に見えぬ、神を素直に感じず、また、繋がれず、宗教や偶像に神を見出そうとし、盲目となる。

内なる神と出逢えるすべを悟れない。


さて、日本天皇の役割とは、日本神霊界の霊的族長である。

故に、常に、更に、民をもって吾が家族と為さなければ、族長とは言えない。

それは、血筋では無い。志なり。天命への悟りなり、覚悟なり。

人の血筋は、地球の木の実であり、皇族貴族の血筋と平民の血筋の、違いは、人間による思考でしかない。愚かなるかな。

さて、日本の天皇が人民の為に祭事を行い、誠心によって、神が応えれば、世の天災は無くなるのであろうか。

人々が弥勒の心を取り戻し、大和の心に添い、大道の道を歩めば、天災が無くなるのであろうか。

否。

天災とは理不尽なり。悲しみの連続。人種への淘汰。

三六九神示では、多くの天災台風地震等は、人を改心させる神の手段の如く描かれているが、それは、本当なのであろうか。

地球史では、今まで、多くの文明が興隆し滅んで来た。

そして、多くの善男善女が、理不尽の地球の隆起振動により、無くなり、悲しみの輪廻に囚われている。

いずれにせよ、神ならぬ身には、人智を超えた神の御心は判りずらい。

天災は理不尽なり。されど人災は、明らかに因果律とカルマによる。

人が起こす戦争とは、我良しの心から生まれるが、これが劫と膨れれば、自断となり、人自らが、人類を終焉へと、滅びへと、人種が消え去るのである。

私は、幼少期より、人類の滅びを望んで来たが、今は、次の世代への礎とならんと欲する。

さて、理不尽と人災は、今まさに、人種を淘汰しているかのように、見える。

かつて、出口王仁三郎聖師は、駿河における大地震の被害を抑えるために、三陸方面に、大震災をおいやったため、岩手県の釜石で大津波が起きて、被害が大きかったと、アメブロの「瑞霊に倣いて」に書いてありましたが、吾が道は、鎮道弭劫経道である。

災いを他所にやったりはしない。

劫を化す。化する働き。カルマを消すのである。

吾が師、老祖より、伝授された、先天坐法は、天と地の狭間の中にある、人体において、火と水、陽と陰が交わり、化育する。

生成化育が、宇宙の働きである。

坐によりて、身体の神秘が交わるが故に、神霊が是を尊び、惟に応えるのである。

弭化とは、この宇宙の化育による浄化のはたらきでなのである。

至聖先天老祖の真経を唱えれば、消劫の働きがあるのは、この為であり、まして、真経の実践なる坐道。その働きは、無限である。

もし、あなたが、名も要らず、地位も名誉も、金も官位も要らず、この地球と言う星を愛するのであれば、坐を以て道とし、吾が宇宙の坐軸をもって、地球の柱となし、地球のカルマを化し、地軸の安泰を行うべきである。是を知れ。

ただ、先天坐は、無為自然であり、その功果は直ぐに得られないが為に解りにくいのである。




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