玄徳道

道を語るブログです。

虫を殺さない道。

2022-04-28 19:26:00 | 考察
日本で言えば、四季があり、春の芽生えがあり、夏の草草があり、秋の落ち葉の秋陽があり、冬の枯れ木があり、また、ふたたび、種子が芽吹く。

それは、自然の中の剥復による、現象にしか過ぎない。

虫は、常に剥複し、その生命を与えられている。

虫とは、生命であり、人間の魂が凝らない、病や戦争などの原因があり、散らばった存在でもある。

多くの人は、知らないだろうが。。。

坐し、また、悟り、また、覚醒し、宗教に関わっても、偏らない人は、その普遍的意識を憶える、故に知っておられる。

多くの虫達は、かつて、人であった者も多いのである。

人の生命の輪廻を何故、悲しみの海と言うのであろうか。

輪廻剥復。永遠に漂うのである。

何故、坐を以て道と成し、それを提示した、吾が師、老祖が、悲しみの海からの脱却を唱えるのであろうか。

天界に於て、秘奥の先天の坐、火と水の交わりにより、吾が宇宙を生成化育する。

その完成をいずのめの御魂と呼ぶ。

神仙道では、玄胎と呼び、四魂の完成となるからである。。。


扨て。

しかし多くの人々は、虫を生命と見れない。

この地球に生きる限り循環する。生命と死滅する虫。

人は虫をみくびり、叩き殺す存在もある。

虫に五分の魂が確かにある。

今現在でも、神仙(素戔嗚尊の代行者)は肉体を持って、現臨されておられ、多くの劫を化し、地球の鼻の呼吸を司る。

その神仙は虫の動きをも感知されておられる。

そして、虫を殺す人の動きも感知されておられる。

言わずと知れる。虫をあまり、殺さない方がよいという話しでございます。

私はどうか。蚊に刺されたら、反射にて、潰してしまう。ごめんなさい。

そして、虫もまた、超抜なる因果を超えたならば、再度人と化す事もありえるのでございます。。。

コメント (7)
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弭劫寿世要旨道13

2022-04-25 20:01:00 | 道院

心は何によって明らかにするのであろうか。

唯、「虚」であれば霊が働き、霊が働けば明らかとなり。明らかであれば、諸々の道理は皆、備わり、全ての事も兼ね備わる。

未だ心が動かない時には広大無辺であり、「織(知らず知らず)(是非善悪を知り分かる心)」無く「知」無く、内には、「思い(一切の念)」が出て来れないし、外からも「思い」が入って来ない。

唯(ただ)、光明の次元を超越して天理が有るだけで、心全体が光明に満たされて、「天理」そのものを自覚するだけで、万物ことごとく「この心」の中に包まれ、全てを体得することが出来る。

「心」と言うものは「物に触れて」動き、「感じる」ことによって通じる。

そこで円に遇えば、円(まる)く、四角に従えば四角に、と言うように、外の環境の変化に適応し、活発で囚われる事なく、自由自在に働く事ができ、その働きは計り知ることは出来ない。

そもそも、「静」であれば「元神」が働き、「動」であれば「真意」が動き、「神と意」は一つであり、ただ、「動と静」の区別があるに過ぎない。

これ故に「心と性」を分けて言えば、心と言うものには「性」が無く、性と言うものには「心」が無く、「依りどころにするもの」も無い。

心は性を載せてはいるが、しかし、性によって心は導かれている。

それが故に、心の高明な働きは、皆、性が本体となっている。

世の中の人は、この心を明らかにする事が出来れば、性が明らかになる。

ただし、性と言うのは、未だ人身の生まれて来ない前の「元神」であり、既に人身に生まれてからは、「元気」となる。

すべて「虚」であることを知ろうとすれば、無形(虚)であって、有形ではない。

皆さんが坐に心を用いる時には、必ずこの心を生き生きと活発にして、これを天に任せ、太虚に遊ばせて、はじめて一身の「鉛汞」が流通する。

外に天地の元陽を吸収し、長い間に「神」自ずから凝り、「息」自ら調い、丹田の一点が、渾然として浩大な働きをし、巡り巡って、有に似て無のようであり、また、無に似て有のような自覚を得る事が出来る。

(鉛汞…鉛と水銀、道家(道教)では、この二つの物を鼎(かなえ)に入れて丹薬を煉り、これを服用すれば長生きすると言うが、これは「外丹法」で、丹道派の「内丹法」では、精・気・炁などを意味する。従って丹薬も物質では無く、炁や気のこと。)

そこでこれを守り、これを照らし欲望を「欲しいままにする」ことが無ければ、内に感じ外に応じ、天地清和の気が一身に流行(めぐり)し、永遠に止む事は無い。

「性」(本体)の功がここに至れば、「命」(用[はたらき])の功は自ずから明らかになる。

故に吾が道院の修方が「静功」(坐による修練)よるには、必ず先ず、「明心見性」しなければならない。

そうすれば、おおむね邪な道に堕ちいる様な事はない。

各々が、勉め励む事を願う。
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弭劫寿世要旨道12

2022-04-24 16:46:00 | 道院

功候に「初・進・完」の三段階があるのは、「静」の働きが始まる最初であり、必ず先に「明心見性」(自分の心を清浄にすることによって明らかになり、それによって自己の本性の働きが現れる)すれば、おおむね邪(よこしま)な道に堕落するようなことは無い。

恭(うやうや)しく孚聖が南京道院の扶乩に臨んで言われるには、事理(因縁によって生じること)が移り変わる事に対しては、性が幻影を識別する。

もし、心を明らかにしようとすれば、必ず先ず「見性」しなければならない。

「先天の心」と言うのが、即ち性であり、「先天の性」と言うのが、即ち「虚無の元気」(宇宙無限エネルギー)であり、それには一つの虚と言うものを知らなければならない。

人は生まれて来てから、気質の偏りによって囚われ、情欲によって蔽(おお)われ、愛欲によって纏(まと)わりつかれるのは、長い間、心が「虚」でなかった事が続いて来たからである。

気は心に使われ、精は神に使われ、馳せたり、迫ったり、妄(みだ)りにしたり、気ままに戯れたりし、消耗し、散じて殆ど無くなろうとしている。

そこで諸修方が修道(坐)を始める工夫として、精神を集中し息を調える事を重んじる理由がある。

そもそも、神が凝らなければ散らばってしまい、散らばってしまえば、気ままな思いや妄らな慮りがしきりに生じて来る。

その様な状態で、どうして神を凝らし、それによって、丹を錬り、自分を中心によって統一することが出来るだろうか。

神を凝らす事が出来れば、「一」となり、「一」となれば虚となる。
(易で言えば、陰陽から太極になり、太極から無極になること。悩みや苦しみや迷いの無い状態)

吾が心の「虚」とは自分の未生以前に、天から賦与された「性」(中庸で言う、「天の命これを性と言う」の性)であり、外から来た、太空の虚は、即ち未生以前の「虚無の性」である。

息が調わなければ、心が放たれる。

心が放たれれば、内において、臓腑、外においては皮膚に、一団の躁急(苛立ちや焦る気)が起こって来る。

神を凝結することによって、自分の命の働きの基礎になるのであって、言葉の上では言い表すのは難しい。

ただ、息を調える事が出来れば、「平」となり、「平」となれば、「和」となる。

自ら生じて来た「和」と言うのは、天地の命を受けているのであり、外来の太和の気と言うのは、未生にして天地の命によるのである。

これこそ、真の「性」であり、真の「命」であり、また、仙仏が修養して仙仏となる性命(性は本体を現し、命は用きを現す)なのである。

諸修方たちが、「帰根複命」し、神化の域に至ろうと思えば、別に、他の修業と言うものは無く、ただ、神を凝らして「静」に至るようにし、息を調えて、天地の気と一体になるようにし、「忘れる事なく、助ける事なく」、急がず、怠らず、緩急が無く、自己の心神気息を「虚無静篤」の境地に入るようにするのである。

(註 帰根複命…「老子」に「それ、物、芸芸たるも(盛んに生成し、繁殖する)、各々根に復帰す。根に帰るを静と言い、是命に複る(初めの本性に立ち帰る)と言う。命に複るを常と言う」とある。)

(註 忘れる事無く助ける事なく…「孟子」の中の一節で、修業(修道)を田の苗に例えて、忘れいる者はちょうど苗の回りの雑草を抜かないで放棄しているようなものであり、助けようととする者は、苗を早く成長させようとして、無理に引っ張って抜くようなもので、どちらにも害がある事をいっている。)

(註 虚無静篤…「老子」に「虚の極を致し、静の篤きを守らば、物物並び作(おこ)れども、吾れ以て複るを観る。」(虚の極みに到達するように努力し、日常生活で心の妄念や妄想を起こさないように厚く誠で努力すれば、万物が生成化育され、自己の本性に複(かえ)る事ができる)とある。)

その「虚」は、「人為の虚」ではなく、「自然の虚」であり、それが天地鬼神人物(全てのもの、森羅万象)と一体になる源である。

実とは虚で無いが故に「実」なのである。

自分の心神が虚であれば、天地の清和の気と、自然に一体となる。

人が天地の働きに参加し、化育を賛(たす)け、変幻窮まりない働きをする理由は、清空の極や、気が内に入って来ることを感じる事が出来るからである。

これを「虚中実有り」と言う。

長い間に、神が凝って来れば、心身の内外に、「剛健中正にして、純粋明精」の境地があらわれて来る。

この様に見性してこそ、はじめて真の性が現れる。

つづく。






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折り鶴道

2022-04-20 20:01:00 | 人倫
さて、私、鬼雷は、折り鶴は、小学生の時にしたのみ。

特に興味も無し。

今、世の中では、折り鶴をウクライナに送ろうととしたら、役に立たない。頭が悪いと。人はそう言う評価を与える。

然り。されど、道では無い。

道とは、自然の大道なり。大道とは愛道なり。

お互いを思いやる気持ちこそが道の真価である。

私は織り鶴の意を解釈しない。というか、出来ない。した事が無いから。

それでも、想像する。

折り鶴とは、夫婦と過程に似ていると。

お互いに役に立たない事を為すことがある。

なんせ、夫婦は赤の他人。

その中で、通じ合うのは、お互いへの愛あるのみ。

私で言えば、阪神タイガースをこよなく愛する嫁の好みは理解出来ないが、それもまた、良し。

たかが、紙で鶴を織る。

されど、古神道には、太古真法による神折符があり、和紙を一定の玄則によって折る事により神界の符則と合気し、神々の働きの為す働きがある事を示している。

たかが、折り鶴、されど折り鶴。

無駄無駄無駄のような行為が実に大地に安寧を与えている、御徳が確かにあるのでございます。

そして、人の世の誠の行いに、頭の悪い事も無く、無駄な事もないのである。

さらに、無為の中にこそ、神の感化は備わっているのでございます。


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令和四年四月 三六九神示。

2022-04-19 19:02:00 | 神示道

明治二十五年、世の元からの神々を封じ込めておりた岩戸開けて、艮金神国常立大神世に現れて、三千世界の立替立直しの始まりとなり、神の御現れて姿は、言霊神也(ことだまかみなり)と若姫君命の御霊を受けた、丹波綾部の出口直殿の手を借りて、神の言霊の筆先を現したのであるぞよ。

その筆先の中に、ロ国から大戦争が始まると申してあり、それは日露戦争とも現れたが、世界を自在にせんとする赤き辰は、ソ連の崩壊でしばらく静かにして居りたが、段々欧米に圧され、ロシアの弱りた国力を盛り返し、ロシアから離れんとするウクライナを止め、自在にせんと、ウクライナに戦争をしかけ、荒ぶり多くの人民を犠牲にいたしておるぞよ。

赤き辰は、益々荒振り、赤き鬼は、赤き辰が世界から制裁を受けて弱るのを待ち、その末。我が方へ引き込もうといたしておるぞよ。

明治二十五年、神界の岩戸は開け、艮金神現れて、三千年積もり積もった、思凝霊や人民の罪科や汚れ穢れの浄化の世となり、第一次第二次の世界大戦も起こり、その中で世界を相手に戦った日本の多くの都市は焼野ヶ原となり、その上、二発も原爆を投下され、二度と戦争はいたしてはならぬぞよと、辛く悲しい体験をさせ、争い絶え間無き世界を言霊の力で言向け和わし、恒久平和(弥勒の世)を開く使命は日本にありと、昭和二十年八月十五日、終戦の日に神界は、決めたのであるぞよ。

されどそのような神界の図り事など判らぬ日本人民は武力でならぬなら、金力じゃと、恥も外聞を捨てて金儲けに走りた戦後の歩みでありたぞよ。

正に猿蟹合戦の通りの歩みであり、蟹である日本は、大和魂の象徴の握り飯とするが、猿の持っておりた、柿の種(経済の種)と交換させられ、日本は柿の種を一心に育てまいりたのであり、柿の種が熟すころになり、再び猿が来て、甘い柿の実をもぎ取り、青い渋柿を、投げつけられている今日であるぞよ。

扨、北はロシア南は中国に脅されている日本であり、不穏な世界の動きを見て、先の対戦であれだけ辛い悲しい目に会い、二度と戦争はせぬと、天皇陛下自ら神に誓いておりながら、日本も核兵器を持ち、軍備を強化せねばなどと思う者が増えておるが、そんな事をいたせば、日本を狙う大国の思う壺であり、ひねりつぶされ大国の属国にされてしまうぞよ。

世界相手の大戦をいたし、みじめな敗戦焼野ヶ原に立ちた、みじめさをしかとふり返り、二度と過ちはおかしてはならぬぞよ。


扨も第一次第二次大戦の節を越えての事であるから、もうあんな大戦争はあるまいと、皆思いたであろうが、世界には大小の紛争絶え間無く、この度のロシアのウクライナ侵攻は、まかりまちがえば世界第三次の大戦ともなりかねぬ戦争であり、恐ろしき核兵器や化学兵器も使われるかも知れぬ事態に到っておるぞよ。

世界の国々の頭、よほど腹帯締め直し慎重に事を図らねばならぬぞよ。

瀬織津姫神を始め、祓戸の神々神力振るえば、戦争もおさまるが、様々な荒事あるのも、人民の利己主義(われよし)の改心の為であるから、神の力だけで事を治めては、人民の改心はならぬから、今は人民の動行を静かに見守りて、人民が様々の苦労の中、改心し平和の道を開くのを見ておるが、世界第三次の大戦にはならぬように、神界は目を光らせ、四九三(しぐみ)もいたしてあるぞよ。

万物の霊長と鼻を高くし、科学万能と謳歌しておる人類であるが、コロナ一つ終息出来ず、未だに武器で殺し合っているのであり、便利な楽な時代になったとは申せ、精神は一つも成長せず、昔より尚、悪賢くなりて、嘘偽りも電波で流し、人民を惑わす情報戦争もいたし、当に獣にも劣る有様であるぞ。

扨も、世界に宗教様々あれど、人意を加えて創り出した一神教は、信じる者は救われると申せ、信じぬ者とは対抗し、宗教戦争を起こし、専制覇権主義を生み出すものであるぞ。

この日の本の国は八百万の神々あり、神々の神議(かむはか)りによりて、岩戸も開けた国であり、八百万の神々それぞれに特性あり、又人民もそれぞれも神の分霊(わけまたま)を受け、特性ありそれを認め合い、相和して開きたのが日の本の国の基であり、それを大和魂と申すぞよ。

その大和の国日本にも様々な変化あり戦いに明け暮れた時代もありたが、そのような時は、日本本来の大和の道を外れ、外国の専制主義の如き覇権主義に作用された時代であり、先の大戦は、天皇陛下の命令と世界相手の大戦争をいたしたのであり、その時は八百万の神々や人民の思いを無視し封じて無謀な大戦を起こしたのであるぞ。

真の恒久平和の道を開くのは、権力や武力で無く、真の神人和楽の言霊の力であり、言向和わす言霊に神現れて世界を和と治めて行くのであり、その道を開かねばならぬのが、この日本の国の神の命であるぞよ。

ロシアとウクライナの戦争は金力武力で世界を自在にせんとする、虚しき愚かさを世界人類に見せつけてあるのであり、人民よ、人を惑わす流言飛語に迷わされる事なく真実を見、真実の九十〇(言霊)を発し、まず殺し合いは止めねばならぬぞよ。

世界切り替えのこの大節、人民しっかりといたせよ。

大きな犠牲の上にこそある日本の平和であるぞ。

平和惚の目を醒まし、世界の弱き者を助けつつ平和の道を皆で開くのじゃ、荒れすさびたる心の中に、崩れた瓦礫の街にも花を咲かすのじゃ、海山川野に八百万の神守る世界であるぞよ。、

言霊神也 ン。

令和四年四月九日

天橋道士龍華斎 修聖拝写。
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