玄徳道

道を語るブログです。

神社参拝道5

2022-08-15 17:08:00 | 神社道
自転車道中、神社参拝、兵庫県尼崎市の続きです。










兵庫県尼崎市富松町、富松神社。






御祭神は須佐男命、応神天皇。

千二百年前に僧の行基上人が富松の里の守り神として、神仏を祀ったのが始まりとされておられるようです。

御神霊一柱、御眷族神一柱、眷族六体。

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兵庫県尼崎市栗山町、生島神社。








御祭神は生島神、足島神、天照大神、須佐男神、伊邪那岐神、伊邪那美神。

御神霊は一柱。眷族三体。

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兵庫県尼崎市下坂部、伊居太神社。
尼崎市最大の前方後円墳の上に建立されたようです。




御祭神は武甕槌神、天児屋根命。

御神霊は一柱、眷族は二体。

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兵庫県尼崎市潮江、潮江素戔嗚神社。




御祭神は素戔嗚尊、玉依姫命。

御神霊は一柱。


神社に来たらば、神と交わります。

何を以て交わるのか。

吾が身命によりて交わるのです。

この天地間に於いて、人の役割は天(陽、火)と地(陰、水)を交わらせることでもあるです。

先ず、今の人は、自己の内にて、火水(神)の交わりをせねばなりません。

その方法は、縁により、神に与えられます。

キリストへの祈りに於いては、神の為人の為と祈り行動すると、欲心が無くなり、内なるキリストが身体の宇宙を回天させます。

それは、儒教の仁も然り。仏教の慈愛も禅も然りです。

そして、吾が先天坐法とは、老祖が人を済う為に上天の秘法を降ろされ最も神人合一の道に叶う方法でもあるのです。

坐により、身体に於いて心臓(心火)より火が降ると、腎臓(腎水)にある水が上昇し、水火が交わる状態となります。
これを易では「水火既済」と言い、全ての物事が成就する生成化育の象となります。

此処に於いて、霊的な七つの丹田が回転します。そうすると、奇経八脈が流れ出し、人体は宇宙や天地の働きである周天を行います。

神人合一の要とは小周天でもあります。

反対に心火が欲望により、頭に上がり、腎水が下がれば、火と水が交わることが無く、心火はやがて燃え尽き、腎水も枯れ、心身の病の始めとなります。

小周天の状態で御神霊が坐す、神社に参れば、神様もお喜びになられ、神と人共に元気となるのでございます。

坐も祈りの道も瞑想も、誠心が大切でございます。

神人合一の状態とは、神様と合体すると考えておられる方もいらっしゃるかも知れませんが、人の至誠が常に発揮されておられ、自己の内なる神と自然の元神と交流し、調和状態を現している事であると考えます。






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神社参拝道4

2022-08-07 17:25:00 | 神社道
もはや、生きて半世紀。

私は元来、華奢で運痴で身体も弱く、人混みに入れば、頭痛が起き、体力はありませんでした。

サラリーマンを経て左官職人になってから、体力が付きました。

しかし、毎晩の晩酌とつまみにより、腹がかなり、出て来ました。体力も落ちて来た事を痛感するこの頃。

酒はやはり、あまり身体に宜しく無い。晩酌が習慣化している現状もまた、堕落への道。

一念奮起して、取り敢えず、腹を引っ込める事に決めました。

酒を抑え、ウォーキングとランニングへの道。

会社の専属の整体の先生言わく、脂肪を燃焼させるには、最低20分運動しなければならないと言われたので、休みの日に三時間走ったり歩いたりしたら、足を痛めてしまったので、代替で自転車で三時間ぐらい、神社を周る事に決めました。

私の隣の町、兵庫県尼崎市の神社へ。

神社の神威は常に、誠ある信仰者の敬によりてその威力を発揮します。




兵庫県尼崎市大物町、大物神社。







御祭神は大物主神。

御祭神は明治以降に大物主とされたようですが、それ以前は市杵島姫命だったようです。

御神霊は一柱。磐笛を奏上して来臨されました。常に坐しておられる感じはありませんでした。

次へ。





兵庫県尼崎市西本町、貴布禰神社。





御祭神は高龗神。

御眷族神が一柱。

地場のせいなのか、あまり発揚力を感じられませんでした。

磐笛と天津祝詞を奏上。後日、京都貴船川の磐笛と大祓祝詞、神化咒を奏上。

次へ。





兵庫県尼崎市西難波町、熊野神社。




御祭神は伊弉冊尊。

御神霊一柱。眷族二体。

難波熊野神社はたまたま、看板を見かけたたので寄りました。ちょうど、大雨が降ってきたので雨宿りも兼ねて、磐笛と大祓い祝詞を奏上しました。

神は人の敬によりて威増し、人は神の徳によりて運を添う。

昔、修道の師は、「敬とは、相手を尊敬する意味もありますが、道を修める意味では敬とは敬止であり、妄念を起こさない事であり、主一無適であり、その独りを慎む事である」と教わりました。

故に大学では、「穆穆たる文王、ああ緝熙にして敬して止まる」と。

人は、神社では、素朴で素直に、親にすがるつもりで、真心を込めるのであれば、神はその御徳を発揮し易いと考えます。

ただ、我儘に、己の欲望の意念をぶつけたら、自らの意念の黒雲により、神の御徳の光を閉ざしてしまう。即ち、自業自得となってしまうと考えます。








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神社参拝道3

2022-08-05 23:19:00 | 神社道
私は十年以上まえ、坐の最中に、私の内にも神がおられ、尚且つ当時、私の好きな住吉大社、西宮神社の神々さえも、私の内におられると感じた事がありました。

故にわざわざ、神社に参拝せずに、坐だけしてれば、良いのではと、不埒な考えを持った事があります。

当然にそれは誤りであり、住吉大社や西宮神社等、神気が湧く神社は、行く事に価値があります。

されど、それからは、神社よりも、天地が呼吸をしている、神奈備山や磐座の探索に勤しんだことがあります。

しかし、それでは偏ってしまうと、神社も見直しております。

振り返って考えると、何故、人間が造った神社に神が坐しておられるのか。

自然の磐境、磐座などには、自然神が坐し、常に神気を発しておられるのは、地球の生成化育の発露です。

人間が造った神社に何故、人が祭祀したとは言え、神柱が立っているのか。非常に不思議と考えます。

そして、全ての神社に神柱が立っているわけではありません。

立派な豪勢な神社でも神様がお留守の神社が少なからずあります。

信仰の無い人も、漠然と神社に神様が当然のようにおられると考えておられるのでしょうが。

神様が来られない神社と神様が坐する神社の違いは、地域の磁場の陰陽、穢れの有無。神主の在、不在。利益信仰の横行、真心ある信仰者の奉仕。などは理由が考えられます。

神様が人の祭祀した斎庭に坐し、柱を立てるのは、「愛」故にです。

神は人の欲望を叶える存在では有りませんが、人を生物を愛しておられるようです。

故に、コンクリートの都会の中でも、神社には人の真心と敬虔な信仰によりて、その存在を顕現し、神霊を明らかにして、人の癒しとなっておられると考えます。

自分を救えるのは、自分のみですが、神は無料で幇助してくださり、尚且つ癒しの磁場を創ってくださっております。
それが神社と云う在り方なのかと、考えております。

私、鬼雷の独善的思考でございます。


さて、大阪市と言う都会の神社に参拝しました。

朝、自転車にて向かいました。夏の盛りなので暑かったですが、ダイエットも兼ねております。




大阪市北区西天満にある、堀川戎神社です。

御祭神は蛭児大神。




眷族神が一柱おられました。
割と霊験があらたかなのかも知れません。


次へ。




大阪市北区神山町、綱敷天神社。



御祭神は嵯峨天皇と菅原道真公。

天満宮などの神社では、学問と神様として、かつて人間だった人が祀られており、そこに本当に神様がおられるのかなど、昔から疑問がありました。
そして、大阪天満宮に審神しに行った事がありますが、良く感合出来ませんでした。

どうも偏見により、自分を真っ白に出来なかったようです。

しかし、此処では、祭神の名前を考えずに、頭から消して、素直に土地の気を感得しました。

御神霊一柱、眷族三体おられました。
ちなみに、御神霊は御人霊ではありませんでした。

神に本来名は無し。先天の炁包。無極。虚虚。

しかし誠あり、敬虔な信仰者は敢えて土地の名を借りたり、古事記から名を借りたり、由縁ある人の名をつけたりと、人の人たる所以でございます。
また、神仕組み参画する神霊はその役割名を名乗る事があるようですが。

次へ。




大阪市浪速区元町、難波八坂神社。







御祭神は素戔嗚尊、奇稲田姫命。

御神霊は二柱。眷族は六体。

此処の神社の真ん前で八、九年前に、マンションの工事をしておりました。当時、参拝は何度かしましたが、感合もなく、まして当時、私は、牛頭天王(明治以前の八坂神社の御祭神)とは最初、疫病を撒き散らしておいて、牛頭天王を崇め奉れば疫病を治める、自作自演、マッチポンプのような存在であると考えてました。

今は頭脳を捨てて、素直に感得感合しました。

人間の最大の障害とは、観念であり、思い込みであると考えます。

工学者の武田邦彦先生は、多くの大脳は生まれてから発達した自我の塊で我よしであると。そして大脳は経験知識によってのみ増大すると。だから、人間は頑固になり、利己的であると。

しかし、人間の中心にある、脳は、他人の為に働くと凄く活性化し、協調し、他人と自分の区別が無いと。余談でした。

次へ。






大阪市福島区海老江、海老江八坂神社。





御祭神は素戔嗚尊。

この神社も二年前のマンション現場があり、近くを通って知りました。

御神霊は一柱。眷族は三体おられます。


各神社では、神様の幸せ、地域の安寧を願い、磐笛と祝詞を奉唱させていただきました。




神社が好きな人は幸いであります。何故ならば、神もあなたに安易に神気をそそげるから。

そんな、神と同化したいのであれば、一を極めねばならないと考えます。


一とは、無欲であり、太極。そして、忠恕なり。





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真の稲荷道

2022-01-11 19:05:00 | 神社道
稲荷とは、飯成りの神である。衣食住を司り、ス神が人間を思い遣り、人の為の神であられます。。。その神を宇迦之御魂神とよび、本体は、豊受大神とされる。




昔は、迷信が酷く、幽界の穢れが人の欲望に呼応し、狐蛇狸と化し、多くの人を騙し瞞し、欺した。

明治近年より、文明開化の流れにより、人から迷信が消えつつありました。

現代でも、その多くの盲信は消えつつあり、同時に狐狸に騙される人は皆無となりましたが。

されど、人は、常に自己や家族、己の一族のみを愛し、心配する。

そこに占う商売が、うまれるのです。

ある知人が、コロナ禍になる前に、インドの有名な星占術師者による占いで、仕事がはかどり、運気が上がる年と占って貰った人が、コロナ禍により、その年は仕事が出来なったなどと聞いた事があります。

占いとは、未来予測では、無いのです。

占いに執着する人間には親い人からのアドバイスよりも、占いして、金を払った人を信じるなり。

私は占いを、人への優しやであると捉えているのと、人への依存症を増し、自分自神を無くす、悪魔であるとも捉えております。

まあ、悪魔は、来たりて、魂を籠絡する。

善神は、人間独自の努力により、魂の発露を求める。


文明が発達し、迷信が無くなりつつある中でも、人間は、自然なる真神を観る事なく、自分が信じる宗教の神や占いを信じている有様ですね。。。まして、宗教教祖や霊能力者を神の如く見られる方もおられます。

近年より、伏見稲荷山には、多くの社台が存在する。

私などからしたら、伏見稲荷神社本殿が有れば善いと考えますが、実に人の欲望の数だけ、やしろは、存在します。

稲荷山自体にも多くの社台が存在しますが、近年の台風により、半壊しておると考えます。

人はいずれ死ぬ。参らなくなった、社におる、人の思念と呼応した霊は、どうなるのか。我が存在を明らかにする為に、祟るのであります。

祟るも祟らぬも、人の思念と行動次第でもあります。

人への優しさの顕現神である、飯成りの神、宇迦之御魂神は、祟らないのです。

人の欲望と感合した存在が祟るのであります。。。

人の衣食住を司る神が、狐霊と同様に扱われ、稲荷には、お願いしてはならない、お供をあげなくなったら、祟るとか、都合勝手の憶測がはびこっております。

私的には、如何なる神にもお願いはしませんが。

それと神は人の願望を叶える存在では無いと考えております。

では神社とは何の為に存在するのか。
その答えは、人それぞれであると考えますが、私は神に親しむ為にあると考えます。

出口王仁三郎聖師は、真の信仰とは神さまと恋愛する事であると、仰っておられたと思います。

神社の斎庭で神と無言の対話する、此処に神と交われる聖地は、ありがたいことであると考えます。


何度も書いておりますが、豊受大神、宇迦之御魂の神の眷族の狐霊は、神ではありません。ス神の意向の補助をしておる存在であります。

故に狐霊も祟りません。ただ、人間の欲望と悪心に染まり、思凝霊となったら、障りとなるだけの話しであります。

故に、一念三千。

己を愛する事は、よからぬ事のはじめとなるのでございます。




世の中の迷信者は多くして、狐をもって稲荷となし、誠の大神をさげしむ。愚かのいたりというべし。

稲荷の神というわけは、飯(いい)に成る神ということにて、つまり、食べ物の神と言う意なり。




宇迦逎御魂の命は、五穀や、養蚕の守り神、人の生命を繋ぐ為に、五穀をつくる事を教えたまいし神なり。(出口王仁三郎聖師、道の栞より。)










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十日恵比寿道。

2022-01-09 11:47:00 | 神社道
本日は、一月九日。この日から三日間は十日恵比寿と述べます。

恵比寿は戎とも呼ばれ、蛭子系と事代主系がおられますね。

共に同体異名なのか。







私は今宮戎では、何の感合も得られませんでしたが、西宮恵比寿では、色々な恩恵を頂いております。。。

西宮神社の恵比寿は蛭子であり、漂える神であります。

その本質は如何に。

蛭子とは、日留子であり、太陽神なのであります。鬼雷の独断と偏見と妄想ですが。

伊奘諾、伊奘冉の神々が最初な産んだ独り神は、太陽にして、宇宙を漂える最中の神、太陽として、独立します。

古事記では、伊奘諾の左目により、天照太大御神々が現れますが、それまでに太陽神や月神
がおられなかったとか、否。

太陽と地球、そして、月。それと北極星は、地球の生成化育、神々の斎庭として善も悪も進歩も後退も現れる奇蹟の星でございますね。当然に様々な星の干渉もありて惟神、かんながら。。。

常立系の神は宇宙神と地球神であり、その代表は国祖、国常立之大神であると考えます。

皆が知らない、至聖先天老祖も国常立尊と同体異名のされますが、また、地球神よりであり、また、北極神界とのパイプ役もあり、宇宙のス神の一柱でございます。

大本教の出口王仁三郎聖師は、戦後、聖師が亡くなるまで、大本から愛善苑と名を変えると同時に、「おおもとすめおおかみ、守り給え幸はえたまえ」の神詞を「しせいせんてんろうそ、守り給え幸はえたまえ。」と奏上するように、大本信徒に申されておられました。

この話しは、殆どの方は知らないようです。

聖師亡きあとは、二代教祖すみにより、愛善苑の呼称は大本にもどり、神詞も元に戻されるましたが。

十日恵比寿の時、蛭子も、また、東海龍王となり、功徳を授けられるようでございます。

光は、東方より。






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