玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓、功行道。

2024-03-29 18:38:00 | 道院
功行のニ字は、各仙仏真人が多く発揮せられたところであり、修行の導師とするのに、過ぎるものである。

自分(黙真人)に一悟するところがあったので、未だ適当か、否かを詳らかにしないが、同修(道を修める者)も共にこれを研究することを希望する。

功の意義は、包含するところ、甚だ多く、行の候(情状)を証するに、また、いたるところに妙理がある。

ニ字について言えば、功行とは、行いに、功を得たものである。

その要(かなめ)は、もとより、行いにある。

すなわち、行いが「允(まこと)に厥(そ)の中を執れ」の中を得たものであり、「これ精これ一」を得たものである。

(注 鬼雷述べます。允に厥の中を執れ=道統の相伝。中庸の奥義)

(注 これ精これ一=道統の相伝であり、允に厥の中を執れを補助するものでもあり、一とは無欲を、精とは、太極を指すものと考えます。)

このようにして、言えば、行いに功を得るのは、なんと困難なことではないか。

それ故に、どうしても、切実に到るところ、何処でも、その、時々、何時でも、何事でも、事毎に、修悟をなさなければ、ならないのである。

発顔した以上は、堅固恒久に、怠ることのない、志をたてなければ、ならない。

そこで、求修願文の第一句に曰く「願わくば功候を修められますように」と謂うのである。

功行は、誠恒の修でなければ、得ることは出来ない。

そして、吾々は日々に修め、時々刻々に行い、何時でも、何処でも、みな言うところ、常に行うところが、
功行に合するものは、すぐに枢冊(魂の数)に記録される。

功行に合しないものは、これを何と謂うか、
過行である。

何を過行と謂うか、過ぎたることと、及ばない行いである。

修により、悟りにより、時により、事によって忽然と覚る者は、則ち、過行を整えて、功行とすることが、できるのである。

功行の記録があるように、同じく過行の記録もあるので、過行を功行に転換する事が出来れば、その記録は功行の方が超過する者となる。

修によって悟り、覚によって照らすことは、ただ、功行が記録されるということだけではなく、功候を養い、功候を増進させた事になる。

これを以て考えるならば、聖神仙仏の成功が、常に戒慎驚惧して、臨むが如く履むが如くして、決して少しの放恣の心があるように、しなかったのは、まことに、故あることなのである。

修人は、皆、よくこの理を明からにして、朝、夕努力すれば、過行があると雖も、これを化して、功行とする事が出来るのである。

凡人は、このようにせず、修行の正しい締まりを悟らず、我儘勝手な言葉を言い、気のむくままに、その行いを乱す。

それ故に、罪行があり、邪(よこしま)な行いがある。

同じように、狂って、道理に外れる者があり、その為に枚挙し難い、罪行も同じようにある。

だが、その因を植えたとしても、ひとたび、能(よ)く、懺悔する者は、直ちにその悪因を化、する事が出来るのに、ただ、知るだけで悔い改めることのない者は、悪因が善行を除去して、一たび、善功が尽きれば、災いの応報これに随って来る。

まことに、憐れむべき、憫(うれ)うべきことである。

これを以て、五教の教主、釈迦、イエス、老子、マホメット、項先師(歴史ではいないとされる、孔子の師であり、儒教の祖である)、は自らの身体を断ち切るのを、厭わず、地獄に入って、普(あまね)く、救済をなし、各仙仏は、苦言を以てねんごろに、繰り返し、教えを告げて、深く溺れ、迷う人や、それを聴いても、ぼんやりしている人を救って、挽回する事を希望しているのである。

幼児がまさに、井戸に堕ちようとしているのを見て、仁人君子に、痛み、悲しむ心を生じない、者は無く、それを挽き戻して、救おうと期望する者は、もとより、幼児の優劣によって、救おうか、否かを考えないのである。

天地は、大徳を以て、万物を生じ、仙仏は、慈悲を以て衆生を救うのである。

善を修め、善を悟る、各々の修人は、自ら、これを悟覚することが、出来るであろう。

修行に励み、努めなさい。

吾は、各同修の修悟の前途の為に、慶賀することを禁じることが、出来ない。






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令和六年二月 三六九神示

2024-03-25 19:10:00 | 神示道
(注 いま、人類の欲望に九尾が入り込み緑の地球を焼野ヶ原にせんとしている。

九尾=金権主義。

金を自己主張の為に悪用する。

🔵物金を皆の為、善用するのが、龍宮経済である。)

龍宮水火土伝授

爆撃で荒れる世界の瓦礫の跡にも、地震の山崩れ、地割れ隆起、津波と跡にも春なれば、緑は芽吹き、花も咲くのじゃぞ。


火の中、水の中も神の生命は不滅じゃぞ。

人は切格築いた、文明も争いを繰り返し破壊しておるぞよ。

九(現)の世は六の数で成り、六の数は、建設と破壊を繰り返しつつ、時を進めてゆくのであるぞ。

禍い転じて福と為す、この意に狂いは無いぞよ。

戦災や、地震にあいし者は、可哀想であれど、必ず芽吹き花咲く春は、来るのじゃ。

人は、この地球に住むのでは無く、住まわさせてもらっている事を忘れず、地球を大切に守らねばならぬのじゃ。

我が身の主義主張を通さむ為や、身勝手な領土の奪い合い。

また、宗教の違いの為に争いて、無益な戦争を起こして、殺し合っておる、愚かさに気づき、早く改心いたさねば、ならぬぞよ。

東北十和田湖の青龍をして、能登の珠洲に地震を起こし、世替わりの烽火(のろし)を上げて知らせたが、〇九十(まこと)の神意の判った者は少なくないぞよ。

(注 能登半島先端には、須須神社が坐す。

天津彦火瓊瓊杵命、美穂須須美命、木花咲耶姫命を祀る。美穂須須美命の須須美は、烽(とぶひ、のろし)の古州、のろしを上げる場所。
昭和五十二年九月十五日須須神社参拝する。)

戦争の度に知恵をしぼり、科学を発展させ、その御陰で人民は、楽な暮らしを致しておるが、地震や噴火の自然の災害を受けると、文明に頼っておる故、昔より苦労せねばならぬ事となるのじゃぞ。

今は水道や電気が無ければ、御手上げであるが、自然災害と人民の言う物は、神の修理固成(つくりかため)の業であり、汚れを浄め、歪みを正す為であるから、その災いの困窮の中から、生き延びて行く為の生命の力が起こり、皆で助けあう、共生の大事なる事も、湧いて来るのじゃぞ。

人間には、災と思へる自然活動、即ち、神の活動により起きた事は、禍い転じて福と為す道の開きとなるのじゃぞ。

縄文の昔から様々の苦難を、耐えて来た、御魂の力が、次の道へ導くのじゃぞ。

(注 鬼雷述べる。天と地と、人。三才をもって、お互いに、干渉している真理があり。

確かに、雷台風動震は、地球の活動でありますが、相互に干渉する以上、お互いに影響しあっております。

蓋し、日本人の大和心、皇室の斎庭が調っておれば、一月一日なる、大安息の日に、地震起こらず、四日に起きていたと、鬼雷は考えます。私的考えです。)

どんな苦難の時もあわてず、騒がず、目の前の事を一つ一つ、改善の努力をすれば、闇の中にも、光が差してくるぞよ。

それが、立て直しの道であるぞよ。

これからの世界は未だ未だ浄め祓い修理固成をせねば、地球の生命が弱るから、自然災害も重なり、愚かな戦争災禍も越えてゆかねばならぬのじゃぞ。

神も佛も、あるものかというような、苦難の節目もあるから…………,…………〜 。

一山、一山、越えてゆかねばならぬぞよ。

越すに越されぬ大井川のような事もある。

富士の山も何時とは、申さぬが、噴火する時も来る。

南海の地震も起こる。

個人に於いても.思いがけぬ不幸も起こる。

何事も無く、平穏無事にありたいと思うが、万民の顔(ねがい)であるが、修理固成の神業は、人間の力で止める事はできず……。

この地球の上に住まわせてもらっておる、人の身である事、忘れてはならぬぞよ。

この地球の様々の、恵みを受けて生きておると、人間の為のみにある、地球と思ってしまい、この地球を人間の自由にしてしまおうと、好き勝手の事をいたすが、禍い転じて福を為す道の開けるのも、この地球あっての事であり、その感謝を忘れず、この地球の守りに尽くさねば、ならぬぞよ。

(鬼雷、再度のべる。かつて、昭和六、七年頃、出口尋仁聖師は、駿河大地震(東京大震災の二倍の被害が出たとされる)を未然に軽減、弭化され、その勢いを太平洋へと逃がし、三陸方面(岩手県)が海嘯により、大被害を受けられた事がありました。大難を小難にする為とは、いえ、大神人であっても、如何しようも無き事がございます。

そして、天と地、人は、常に繋がっています。

天地は何時でも何処でも躍動します。

その天地軸をあんてさせる、法の一つが、先天坐であると考えます。

人が坐し、坐軸により、地球軸と繋がれば、多少なりとも、地球軸に影響を及ぼし、安寧の道へと至るかと考えます。)

科学の力で月まで何とかたどりつき、広大無辺なる、宇宙まで、人間の自在になると、思い上がっておる人類であるぞ。

はてしなき、宇宙には、人間以外の生物が住まう星もある。

その生き物からいろいろな、通信を受けておる人間もあるが、汚れ穢れた地球を捨てて他の星へ逃げれば、良いような考えは、神は許さぬ事も記しておくぞよ。

神人和楽の地上天国開きの為に、人類を住まわせた、この緑の地球であるぞ。

この地球を汚し穢し、恵みをむさぼり、築きた文明であるぞ。

その地球を見捨てるわけにはゆくまいぞ。

まず、この地球を大切に守りてゆかねば、ならぬのが、今、地球に住まう、人間の役目であるぞ。

海山河野にも、又、宇宙の星にも、それぞれ霊魂(たましい)があり、神界があるのじゃぞ。

霊なる世界の事が、この地球の様々の形に現れ、人類は、結構な暮らしをさせてもらっておるのであるぞ。

されど、一端、地震や噴火、風水の災害を、受ければ、恵みを受けていた、自然から思いかけぬ災いを受ける事もあるのじゃぞ。

神の和魂は、恵みと優しく、有り難いものであるが、荒魂は、時に厳しく、人類に対し、災いとも現れる事も忘れてはならぬぞ。

それ故に、常ならぬ世は、建設と破壊の六の数の働く世であり、その建設と破壊の変転の中に、生成化育の神業は、進めてある事を知らねばならぬぞ。

その変転の中に、禍いの転じて福と為す、神の愛の言霊、鳴りひびくのであるぞ。

万象崩壊建設と破壊の中に、人間の成長を願う親神の心があるのじゃぞ。、

まず、世界の要(かなめ)とならぬ、この日本から政治も経済も自他共生益福の姿と、立直してゆかねばならぬ時になりたのであるぞ。

まず、日本の上に立つ者から、真言誠(まこも)の改心を急ぐぞよ。

言霊神也 ン。

令和六年二月二十七日拝写

龍華斎修聖。














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令和六年二月 小長谷修聖 三六九神示霊視篇(二月八日示)

2024-03-24 11:31:00 | 神示道
丹後の冠島(男島)と沓島(女島)の海中より、大なる、金龍が現れ南に向かって飛んでゆきました。

(注 男島は、籠神社本社の主宰神 天照国照彦火明命降臨の神島であり、女島はその妃、瀬織津姫命(又之名は、市杵島姫命))降臨の神島であり、龍宮乙姫神谷鎮まる、神島であるが、大本教の主宰神、艮金神国常常立尊、三千年隠棲された、島と伝えられる。

男島、女島の辺りの海を龍宮海と称し、出現こ金龍は、龍宮乙姫の龍体であろうか。

地球を七回り半する龍体と言われている。

男島 女島は籠神社や大本教の神の出現の神島であり、国常立大神の大望の御経綸、実現の為、龍宮神界の活動が活発になる、御示しであろう。)

次に、爆撃か地震の跡か、瓦礫の山のそばに少しずつ、緑の草が、芽吹き始めのその中に、一輪、日本タンポポの花が咲いていました。

(注 建設と破壊を繰り返す人間の文明であるが、タンポポの花言葉は.「愛の神託、神託、真心の愛」であり、瓦礫のような世界にも地球がある限り、神の愛を信じて行けば、新しい世界の光が差し芽吹くのである。)

次に紅白の梅の花咲き、清い小川の流れる庭を七福神が遊行され、その後の紅白の梅の枝を持った出口直様、白梅を持った出口聖師が歩いておられまたした。

(注 三千世界一度に開く梅の花、艮金神の世になりたぞよ。が大本筆先のはじまりであり、七福神は、弥勒神の神徳を七変化して示された姿である。)

次に大隈一ノ宮鹿児島神宮の上空を青龍が舞っていました。

(注 鹿児島神宮は正八幡宮とも称し、彦火火出見命を祀る。

彦火火出見命は海部系図で彦火明命の亦の名、又御子と伝えられている。

青龍は瀬織津姫神である。)




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菜根譚道

2024-03-20 18:20:00 | 大道


「硬い野菜の根っ子も、よく噛めば食べることが出来るように、苦しく辛い、環境の中々いても、耐え忍ぶことによって、志を成し遂げる事が出来る。

いや、そう言う意味もあるが、そうでも無い。

硬い野菜の根っ子にこそ、栄養がある、そして、林檎や、バナナ、蜜柑、人が排斥される、皮の部分にこそ、価値がある。

今のわたしならば、こう言うであろう。

イエスや釈迦、数多の聖人教祖。

かれらは、硬く、不味く、根っ子のように、人に忌み嫌われる人であったのであろう。。。

なんせ人の枠に収まらない。

常に権力や権威に媚びない。

菜根譚道の魂を持つ者は、得てして、他人の価値観に左右されない。

それだけ。


私は幼少期より、邪悪であり、発達障害もあり、弱き者を虐めるのを、好む癖あり。

例えば、蟻を見ては、踏み潰す、幼き我あり。

多くの蟻を踏み潰した私には、幸せはやって来ません。

然り。

当然に、天罰覿面。

神様は、悪しき行いをしたら、当然に、運気を堕とす。

世には、因果律あり。

それでも、ひとたび、回光、改心、すれば、神様、実に、噛めば甘い、存在となり、栄養も豊富に与え、応援して下さります。

菜根譚。

そして、どこにでも、神様は宿っておられる。

翻れば、どんな、糞みたいな、私のような人間でも、何かの役に立って立つ事もある、可能性があると言う事でございます。

どんなに捨てられる、根であっても、その価値を見出す者には、貴い価値となる。

菜根譚。


これは、知人が送ってくれた本です。


人間の価値観とは、釈迦や、イエス、また、多くの聖人、賢人、哲人により、左右される面もございます。

人により、出逢いがあり、、感銘を受けた存在を、それを聖人、神人とし、それを盲信する。

ゆえに、自己の深奥なる根神を思想、想念を潰し、多くの人は、自己の神性を明らかにする事が出来ない。残念至極。

人間てさあ、生きているだけで、多く人は、目に見えない事柄に苦しんでいます。

外国から見た、日本人ってさあ、みんな、安全な、国にいて、とても幸せに見えるけど、日本人は精神を病み、自ら命を捨てる者が本当に多い。

次元界、痔が限界、地獄なり。(ふかみせんせい。)すみません。

逆に、スラム街、砂漠の生活にて、心底苦しむ生活をすれば、ハングリー精神が湧き、幸せを得ようと努力するのかも知れません。

戦争も無く、平和な日本。

いや、古今東西の大震災が興り、鎮まり、また、大地の怒りを受ける日本人。

人間自身ののカルマにより、地球を穢し揺れを引き起こす事ももある。

当然に、穢される地球にも、その大地の主なる、地球神にも、怒り、悲しみもあり。

自然には、本当に、思想はありませんが意識がございます。

人の想念は、地獄でもあり、天国でもあり。

それを垂れ流す人は、自然に、自ずから、我が身に受け入れる。(人に取っては、病となる。また、人に取っては、善き福徳が起きる。)

一念三千。

悪しき念は、穢れとなり、自己を汚し、地球を穢すなり。

人の穢れが大地に溜まる(人に因る)。故に、浄化の為の躍動がある。(大地震、台風、津波、雪崩、土砂崩れ、雷合。)

それだけである。

それにより、人は自然災害を受けて、個人は滅びる。



扨て。
カルマを造るは、人にあり。そして、人が、自分に苦しむ理由は、他人あり。

そして、他人が苦しむの理由は、自分にあり。

人なる種族は、魂の発する根本が違うからか、イガミ合う。

歴史を振り返れば、人は人を殺す、戦争を永遠に行ってきており、また、現在も殺し合っているのが真実。

人間の思想は、簡潔明瞭では無く、他人の口から出た、どうでも良い事柄も、受ける人は、死にたくなる感想を持たれる人もおられる。

本当に、人間って面倒くさい。

単純に仲良くは出来ない。

そして、多くの人格に愛が、あれば善いのですが、残念ながら、彼らの思想(優劣、人気)は、弱肉強食の中の憎しみと虐めとなります。

「三千世界一度に開く梅の花」

「梅で開いて、松で治める」

此処述べた、梅は、厳しき寒さであっても、一輪の花を咲かす。

松は、年中、暑さ寒さの厳しき環境でも、人々の薬剤となるうる、松の葉を示す。


さて、人の心は、脆く危うく、優しく老婆心ある人は、他人に気を使い過ぎます。

思い遣る心あるゆえに、気を消耗し、疲れる。

疲れは穢れであり、願わくば、多くの人は、疲れないで、物事を為して欲しいですね。

そして、気を使わずに、疲れない人もおられます。
それは、使命感あり、神を身近に感じる人。

それよりも、能天気な人。

ああ、人って能天気になれる人こそが、本当に幸せ。

能天気になるには、法があり、それこそが先天坐法。

ただ、1日、16分、黙って座るのみ。

三年もしたら、能天気な気質を得るのでございます。(私的には、いつも大いに悩み葛藤し.早く死にたいと、考えます。なんせ、死とは、本当に永遠のの安らかであるから。

私が坐する所以は、そこに、一時の安らぎがあるから。)

しかしだ、この、地球に住んでいる人にとって、未曾有の危機が、先天から示されている。

能天気を吹き飛ばす程の試練が墜ちて来る。

やれやれ過ぎる。

いずれにせよ、盛者必衰は、自然の流れ。

奢れるもの、久しからずや。

金持ちに成れば、幸せの時代は、過ぎて、儲かりません。人を騙しても。

お金を得ても、幸せに直結しません、今の世は。


扨て。戦争をかたれば。

ロシアウクライナ戦争では、プー〇〇が魔王であり、ゼ○○○○○○は、被害者か、正義の使徒のように、感じている方もおられるが、お互いに、贅沢三昧をしている。これが真実。

戦争し、多くの人民を、殺している両首脳。

罪は、ゼ○○○○○○が八割を越え、地獄に、堕ちると、考えております。

国主が戦争をしたければ、自ら、戦域に立ち、配下の為の弾除けとなり、死ぬが上乗なり。

そして、プー〇〇は、まだ、ロシア国民の為に尽くそうとされている。

ユダヤのゼ○○○○○は、戦争の兆しを煽り、米国の犬となり、ヨーロッパを引き込み、ロシアとの戦争を臨んだ。

彼は、戦時化の最中、我慢せず、贅沢されておられると感じます。

もっと、痩せろ。

いずれにせよ、戦争により、罪穢れは、億万と為して、彼らの死際は、苦しむあるのみ。

もし、ゼ○○○○○○、硬い根の持ち主であれば、身命を遂げて、戦争を起こす兆しを(鬼畜米国による唆し)、排除したでしょう。

甘言に乗せられた結果の閣下のこのザマ。

もし、国主に菜根譚の思想あれば、常に、根である国民を守るのみ。。。

かつての昭和天皇のように。。。

日本が犯した戦争とは、神の一つの仕組み。

それでも、昭和天皇は、全責任を負い、国民、民草を護ろうとされた。


世界の国民とは、愚かであり、賢しであり、民草であり、善悪正邪過去未来のカルマを経て、皆が道を目指して、あゆむ。

扨て、 この「菜根譚」を随筆された、洪自誠は、神仙であり、適仙として、中華の明国に生誕されました。

彼は明国の優秀な官僚で役人でした。

当時の明国は滅亡の危機にあり、彼もまた、酷い裏切り、権力闘争、愛する者の死を体感して来ました。

その最中でも、彼は人の根には、必ず、善なる箇所があると信じ、他人を排斥せず、より親しんだのであります。

悪鬼なる不良にも、信じられざる、正義あり。

善き天使のような、人格にも、最後に裏切る、暗転される、悪魔存り。

人に正義がある。それは、利己主義。我れよしの正義なり、といっても過言ではありません。

太古の時代は、人が人を裏切ることはありませんでしたが、縄文から弥生に至れば、西洋から、キリストが、生まれ、かれの奇跡は、その本質よりも、奇瑞として宣伝され、また、キリストの教えが、国により採用された、人が、隣人を愛して、幸せになる、法を得ようと、したとたん、権力により、利用されました。そこからは、暗黒の世界。

神とは、人にとっての宗教。即ち教えなり。

それに従う者は、天国に行き、従わない者は地獄なり。

神様とは、従うも従わないも信じるも信じないもあらざる。

神を裏切るとは、常に、神の名を騙る権力者による。

言わば、権力とは、悪魔の働きである。

簡単に言えば、権力を魅せる宗教全ては、悪魔が主催する。

権力を持たずに、真面目に、世を救い、民を助けようとし、権力が存在する宗教から、救世主と示されても、権力ある宗教は、それをサタンとされて、お互いに傷つけ合う。

それが、権力ある宗教。

宗教とは、簡単に言えば、地獄発生装置になりを

皆さん、救世主は、単純に多く居ればいるほど、良いのであります。

多くの自称、他称は、拒まず、多くの救世主の出現があれば、地球は穏やかに、活動される。

そして、宗教の解釈、神示の預言などは、クソ喰らえ。

人が人を救いたい気持ち、これを感じる者、全てが、救世主なり、です。

多くの、適仙、聖人賢人、イエスキリストも救世主の一人。マホメットも、然り。ヤマトタケル、空海、最澄、日蓮、白隠、明治天皇、王仁師、日出麿師、昭和天皇。五井昌久師、長沼妙佼師……。かれら、彼女らは、真に神が降し、人の心を救うために存在されました。

女性の数が少ないのは、縁の下の力持ち。

聖人に関わった女性全て、月神界から、自ら降りられた、身魂。

名も知らず地位名誉も官位まお金も必要とせず、真心を誠心を尽くす、変人的な、貴い存在なり。

月の御魂とは、弥勒大神であり、人の生活、生誕、全てに培うのは、月。

月神を、伊豆売之御魂と申します。

その御魂は、すべからく、女性とされるのでございます。

扨て、生まれて、死に、死んで生まれて、また、死んで、生まれて、死んでまた生きるが輪廻です。

その最中、幼き、人が、生まれる以前の記憶を持つと言う人が増えていて、役割があるとある言う。

そんな、記憶があるのは、、自然です。

私なんかは、修羅地獄にあって、闘争そして、滅びて安息、再生し、更に闘争、敗れ、安息、また、甦り、闘争へと、その痛みをしっかり記憶しております。

しかしだ、人間の記憶は魂に宿らず。

人の前世記憶は、霊が宿す。

それは、眷属神であったり、精霊であったり、先祖や、宇宙精霊であったりと。

その感化、感覚を縁ありて、受ける由縁に、覚えるのであります。



最近は、生まれる以前の記憶ある子供を紹介され、また、そこに利益があるのであれば、辞めるべし。

赤子や幼子の言葉を捉えて、金を儲ければ、カルマとなる。儲けれども、利用すれば、業となる。

幼い子供は、自己意識よりも普遍意識を持つは、自然であるから、現実なる荒波を、知らずに、素直に、生まれる以前の事を言い、親からすれば、褒められているのみ。

善と子供の素直な、道で、金銭を得る者は、滅びは近い。(それで、有名となるは、罪。幼き者は、必要以上に尊ばれ、有名となれば、堕ちる因果となる。)

子供を食い物(金銭)にする人は、過去未来通して、堕ちる。

そして、残念ながら、地球に生まれた、御魂は、平等であります。
生まれる以前の記憶があろうが、無かろうが、すべからく、神の神子であるのみ。

それが特に不思議なく、特異なく、日の元御国の自然なり。(神を純粋に受け入れるのは、日本人に生まれた由縁なり。)

ここで、その前世の記憶を持つ、子供たちの不可思議を予言を飯の種にする者は、自らの滅びを短縮される働きとなる。(すみません、彼は、何処に去るのでしょうか。地獄なり。得てして、自らの生命が削られる。故に、短命。)

此処に、幼き者の、言動を興味津々で、取り上げる者は、愚かなり。

星々から、生誕された者は、自己霊力あり。

何故、それがわかるのか、理解出来ずとも、無に還る先天坐を成せば、それが教えられ、記憶では、ない、ストリーを教えられるからでございます。

私達は、全て知って生まれているのです。

知って忘れて、忘れて、覚える。

すべらかく、なんくるあいさあ。



菜根譚。

いろいろな、解釈がありますが、私は、誰も、食べたくない、根っこが好き。

根っこは、不味い。と、称される。

それでも、根っこは好き。私は美味しく感じる。

それと、同様なのか知れませんが、私を好きになってくださる人もたまに、おられる。

私は、会話は苦手で、喋れば面白くなく、また、人間は嫌いですが、誠人は好きで、社会人として、生きて行けないレベルです。

それでも、奇特な妻をはじめ、尊い人がおられる。

幼少期より、人類を滅ぼさねば、この星、地球の為にならないと、妄想していましたが、私を好きになってくれる、稀有な人(微数)がいて、子供なんて、、、滅びる地球に子供なんて、いらないとしつつ、子供が生まれて、出産に立会い、「お前を待っていたと。」わけのわからん、想いに、かられて。

子供が生まれる神秘は、ありがたし。感謝あるのみ。

子供の誕生とは、両親にとって、本当の奇跡なり。
そして、日本人に生まれた、不思議を感じるこの頃。

善き国日本。悪しき国日本。

未だ、精神の狭間にあり。

霊主体従。体主霊従。

そして、天災の兆しあり。

世界は滅びる。

いつでも、どこでも、世界は滅亡する。

私は、覚悟は、いつも有していて、「天地人、滅びるは、当たり前だのクラッカーと」しています。

地球も滅びるは必然的と思っています。

されどもし、子や孫がうまれたら、どうなるか。

例え、神に逆らっても、地球を存続させる。

幼少期の思いを滅して、人類が弥勒の世となるように、働くのかも知れません。

真に、硬い根の人は、誰からも、理解されず、人と交わらず、ひたすらに、根を保つ、道を歩んでおれれる。

それでも、何かの役に立つ日が来るのかもされません。

かつて、西郷南州翁はこう述べた。
「名も要らず、地位も名誉も金も、官位も要らぬ人ほど、始末に終える者ではない。しかし、その、始末におえぬ者で無ければ、真の国家の大業を為すことは出来ない。」

言わば、欲を削ぎ落とさねば、天地国家の役には立たないと。

そして、身を修める者は、政治は、相手にならず。

私が相手にするのは、吾が心の働き。

自分自身。

私が相手にするのは、人の真心。

金持ちや、奢れる者には、決して、交わりません。


人にとって、価値があるは、一重に、誠心。


誠心とは、対する人が気持ち良くなることでもありますが、菜根譚での価値は、自己を貫く、真実の、自分を現すこと。

即ち、菜根譚とは、他人には、理解出来ず、他人が嫌う、なんかがあるけど、その人に、注視してしまい、知らんけど、光がみえる。

なんて、考えます。

菜根譚。

たとえ、嫌われ者でも、他人から、相手にされなくても、故に、真に価値があるのである。

是を知れ。


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