玄徳道

道を語るブログです。

先天坐道雑記11。

2022-12-31 06:27:00 | 私的考察
最近は、ジョギングし、身体の代謝を上げた後に、筋トレをし、真経を学び、坐すれば、慶びが倍増します。

人にとって、身体は、とても大切であり、身体をおろそかにし、精神や心だけを大切にするのは、真の霊主体従の道では無いと、思う日々であります。

身体を造るのは、水や食べ物であり、それを消化吸収する内蔵であり、脳髄であり、血液筋肉運動であり、螺旋する氣であり、心であり、本性であり、神に連なる魂であり、宇宙を運(めぐ)る霊でもあります。

もし、この世で病を経て、亡くなる事になれば、その人の生成化育の神業は、害(そこな)われます。

魂と肉体は、別物では無いからです。

相互互助。

魂が清いから、魂のみが神界に行ける訳でも無く、清い魂の持ち主でも自殺したら、当然に地獄に堕ちるが如く、魂肉は不二であり、常に一体であります。

戦争で殺し殺されても、然りです。

今、この瞬間に、肉体をおろそかにし、神なる道のみを大切にするのは、誤りであると考えます。

健康で無ければ、神なる道も、神なる道を閉ざす結果ともなりえます。

此処で大事な事は、食べる事。

運動する事。

坐する事でございます。

私は、未だにお酒を少し嗜みますが、酒は百毒でございます。なんせ、身体の代謝を阻害し、肝臓すい臓を傷めるからです。

そして、日本は緩やかな、神と人が和する国なのは良いのですが、添加物天国であることは、残念に思います。

発癌性物質が当たり前のように、スーパーで売られております。

利益追求の企業。腐らず保存する為の毒物を使用される。

安易な便利性、美味しさを求めた結果でもあります。

ゆえに、全ての原因結果は、人間の宇内にあるのです。


ちなみに私は四回目のコロナワクチンを打ちました。

ワクチンを打つと、自己の免疫力が一時崩壊し、コロナウィルスや病気に罹りやすくなります。

私の姉は二十年以上、添加物や小麦粉を食べずに、運動とヨガと和食にて、風邪やインフルエンザに罹らなかったのですが、コロナワクチンを打った為に、一時、コロナウィルスに罹ってしまいました。

身体に異物を入れるのは、やはり、自然からすれば、おかしなことであるのです。

私の場合は、人類の咎、罪穢れを身体に受け入れる積もりでワクチンを受けていますが。

この大いなる地球も人類が利便性の為に造り出した、排気ガス、公害汚染や思念の劫を常時受け入れてくださっております。

地球には申し訳ありませんが、全てのインフラが無くては、人が生活する為の経済が成り立ち出来ません。

故に、いずれ人類はその報いを受ける日が必ずやってまいります。

その中で坐する事の意義は、吾自身の氣を固く集め、精(真水)を身体に運(めぐ)らせ結び、吾が内なる神(火水)は回光し、凝り、高く広く増し、そうすると、内なる神へ、炁が任運自然に聚まり、天地と同じ生成化育の運行を致します。

この人たる小天地の生成化育の中で、人の思念なる劫、人類の犯した業、罪穢れを弭化(先天のうちに抹消する働き)し、吾が坐軸は、地球のポールシフトと同化し安定させます。

また、先天の坐法とは、瞑想とは違い自己の潜在意識に潜りません。神を見たり、神に聞いたりするものでもありません。

ただ、黙って、心は平らかにし、静かに坐るだけです。

堅・誠・恒をもって坐れば、気が固まり身体に充満致します。溢れる氣は自然と八脈に百絡に流れ水車の如く、神秘の7つの華を回転回光させます。
そうすると、呼吸は自然と胎息となり、魂霊身体は宇宙に即した状態となります。これを「適」と呼び、坐して適すれば、それは形心坐が神化し息坐となります。

息坐は全てに通じます。

通は適の母であり、氣通、精通、神通を感得致します。吾が内なる神、外なる神と無形にて通じるのでございます。



扨て、神の分け御魂を頂いている人間は、頂いている神々の系統の御魂、それぞれの役割があります。

親神の働きと、自身の身魂が同調し、生成化育し、自然と調和させる為には、坐が必要でございます。

いずれ、人は死に、肉体は滅んでしまいますが、この肉体を最大限に活用すればこそ、魂は水晶の如く、清く高める事が可能でございます。

加齢と共に朽ちる肉体でありますが、筋肉と坐は、期待(氣体)を裏切りません。



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令和四年十二月 三六九神示

2022-12-29 21:16:00 | 神示道
今日のこの日は、先の大戦の開戦の日であるぞよ。

先の大戦は、日本だけでは無く、アジアやその他の国々の辛く悲しい大きな犠牲を重ね、その上、日本には原爆を落とされ焼野ヶ原の中の敗戦となりたが、先の大戦は大きな犠牲を払いし日本、三千年の大禊であり、自由を封じられていた大なる岩戸開きでありたぞよ。

天皇自ら二度と戦争せぬから日本の国を残し欲しいと神に誓い、神も人も、自由に働ける世になりたのであるが、外国の流れに振り回されて再び軍備増強と時代を逆のぼらせる如き動きのある事は、気をつけねばならぬこの時であるぞ。

扨も、修聖には、龍宮界の図りによりて、子供の頃から神や佛を祀らせて遊ばせたのは、その末、神の取次をさせる先がけありたぞよ。

長じて昭和四十一年十一月、二十三歳のおり、但馬豊岡の光之道(宗教法人)へ奉仕させる事となり、昭和四十二年節分から神示、取次の始まりとなり、主神教祖(注 万教の教えの祖は、宇宙大元の神、天之御中主神、亦国常立尊の意)の教えを持って光之道の布教にめぐらせたが、段々と丹後但馬を始め、封じられた神々の岩戸開きと、その神の縁ある人民の御魂の覚醒を祈り、神示のままに、全国の因縁の地場をめぐらせ、昭和四十九年、丹後久美浜、旭の海岸の岩窟より多くの玉石を得てからは、巡りし神山霊地に玉石を鎮めてゆく、龍宮の石の種蒔きの五用に仕えさせ、新しき世の御用に役立つ人民の芽吹き、玉石(魂意志)が、ものを言う世の到来を祈らせたぞよ。

(注 昭和四十八年四月四日(旧三月三日)玉置神社、天河神社の神業の始まり、昭和四十八年八月八日富士山山頂、天地清浄祈願祭。

昭和四十八年十一月四日(旧十月十日)但馬来日岳に晴明金明宮(すがのきんめいのみや)建立。)

昭和五十四年七月一日(旧六月八日)、石の種蒔きの納めに参らせたのが丹後の男島女島、中津神の岩の神業であり、是は新しき世を産み出す龍宮の岩戸開きでありたが、是を期に、光之道より、追放され、五年間、左官や大工の下働きで糊口をしのぎ、昭和五十九年三月、十八年ぶりに、故郷の丹後へ帰らせ、籠神社、海部光彦宮司のはからいで、籠神社に縁を結び、石の種蒔きの止(とど)めとした、
男島女島に天(海)降る、天照国照日の出神と龍宮乙姫(瀬織津姫)を世に顕す五用に仕えさせる事となりたのであるぞ。

但馬豊岡の光之道に仕えた事も追放されて、丹後へ帰りた事も、皆神の図(はか)りでありたぞよ。

特に丹波小多利の小富士山の神には仲立ちをしてもらい御礼を申すぞよ。

艮の金神 国常立大神の陰に隠れて三千年の苦心の神図りを実らすのは、日の出神と龍宮乙姫つれそうての五用であり、是、地の三六九の神であるぞよ。

これまで、世に出ておりた神や佛は、思凝霊に封じられ、体を持つ人間を構い切れず、自我や欲を増長させ、水清く緑美(うる)しきこの地球を汚し穢してしまったのは、一つにこれまでも世を構いて来た神や佛の責任であるから…。

この地球に、関わる神佛、世の元の神の意に素直に順(したが)い改神をいたして、亡びに向かわむとしておる地球の浄化(きよめ)を急ぎ、利己主義(われよし)と化した人民の改心させてもらわねばならぬぞよ。

扇にも要(かなめ)がある事を忘れ、人が悪く自分は正しいと意地を張り争い、人間同志、殺し合う戦争は真に愚かな事である事に早く気付かねば、世は行きずまりてしまうぞよ。

末は、皆相和し、助け合わねば、現の世に人類が残る事、出来ぬのは明らかな事であり、強い者勝ちの世や、権力で人民を押さつける世は、先の大戦で終わった事と知らねばならぬぞ。

闇の世の岩戸は開け、天照国照日の出神の御顕れの世とめぐりても未だ、旧き世のながれからぬけ切れず、我が我がの利己主義を通しておる人民であり、世界の国々であるぞよ。

自我や欲を押し通しても平和の世は来らず、争いは末に共倒れとなるぞよ。

未だにコロナは終息いたさず、世界の戦争の火の手が消えぬのは、思いやり無き、自分勝手の利己主義の心が、少しも改まらぬ故であり、今この時、利己主義を煽動する思凝霊(しこりがみ)の大将赤き辰と、赤き鬼の渦巻きに世界は翻弄されておるのであるが、その本拠地の大国も内から割れて、何時までも強い者勝ちは続かぬ事を見せるぞよ。

戦争をしておるどころか、何としてもこの地球の浄化を急がねば人類、地球に住まぬようになるぞよ。

これまで、世を構いて来た神佛を始め、現の世を司る国の頭等(かしらたち)…我が我がの意地を張りて争いておる時で無い事を人民に先がけて気づき、扇に要のある事を知り、総てを括り結びてゆく、白山菊理比売の神、その御顕れ金勝要神の意に順(したが)い、利己主義の意地張り、言止めて括り結びの善き型を現せねばならぬのじゃ。

軍備や核兵器で威嚇しあって国を守るような考えでは、一時は守れても末は共倒れじゃとくどいほど申してあるぞよ。

皆、心優しく相和してゆく大和心でないと、真の平和な善き世は来たらぬぞよ。

相手を倒し我が勝ち残るような精神が根であれば、修羅の世は治らぬぞよ。

そんな甘い考えでは外国の自在にされてしまうと思う人民であるが、勝った負けたの強い者勝ちの栄(さかへ)は、一時のものである事を先の大戦にも学び、皆助けあい、相和して暮らした縄文の精神を思い返し、強がり意地張りばかりでは、安らぎは無く、時には神や佛、人民に甘える事も大事じゃぞ。

甘える事で、心安らぎ、和の道の開きともなるのじゃぞ。

神も佛も人民も大元の神の意に順(したが)いて行く道が主神教祖(注 弥勒の世、万教調和) の道であり、霊和(令和)の世の目指すところであるぞよ。

言霊神也 ン。

令和四年十二月十日。

天橋道士 龍華斎修聖拝写。
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令和四年十二月八日 小長谷修聖 三六九神示霊視篇。

2022-12-28 20:04:00 | 神示道
修聖、子供の頃(小学高学年から中学頃)、家の庭に、カマボコ板を割り、柱となして土に打ち、その上に古瓦を乗せて屋根となし、向かって右に神の宮、左に佛の堂を造り、神の宮には、石を御神体にし、小さい幟(のぼり)も立て、佛堂は、自ら彫った小さな佛像を祭り、僧の人形を作って堂の中に入れ、遊んでいる様を、庭木の中から、白髪白髯の老神と、龍宮系の女神が見ておられる様が見えました。

(注 長じて神の御用をせねばならぬ、先がけの型をさせられたのであろう。

老神は塩土翁、女神は龍宮の乙姫であろうか。

自らは何とも思わず、神様遊びをしていたが、人から見れば変わった子と見なされたのであろう。

世界平和や、縁ある人の倖せを祈っていたと思う。

佛像は今も何体か残っている。)

次に但馬の神鍋山の上空に、金勝要神の神霊石(みたまいし)をくわえた金勝龍が舞っていました。

(注 昭和五十年十月五日、神鍋山の噴火口より、金勝要神の神霊石出ずる。

金勝要神は金龍とも変化される。

昭和五十一年十月十日金龍に縁のある蘇武ケ岳神業、麓の龍ヶ丘の磐座に金龍が祀られている。)

次に海から昇る太陽の光を受け、冠島(男島)の老人島(おいとじま)神社の前に、出口直刀自、出口聖師、出口澄様、出口直日様、三代おそろいで、参拝されて、聖師は、パッと日の丸の扇を開かれました。

そして次に籠神社を拝されました。

(注 男島は太陽神の天照国照彦火明命降臨の神島である。

即ち日の出の神であり、その神を祀る籠神社である。[りゅうぐうのおとひめひのでのかみとあらわれるせかいのとどめのことであるぞよ]との筆先があるが、艮の金神国常立大神の神意を実らせるのが日の出神と龍宮乙姫であり、丹後男島女島、沖縄の久高島等も同じ理が型に見せられているのである。)

(地のみろく神、天照国照日の出神、沖縄ではアマミキヨ)
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クリスマスイブに述べる道。

2022-12-24 20:19:00 | 私的考察
イエスが生誕した由縁は、一重に、慈愛あるのみ。

それは、釈迦意識に繋がり、すべての人を幸せにしたい。キリスト意識ともいう。

イエスも釈迦も水より樹木と生誕し、自然の調和を愛する大樹の化身でもある。いや、その水より人と成らず、水より大樹となり、そして、人と生まれたゆえに、人意識よりも、より、主一無適なる静寂を悟り、涅槃ヘ辿り着きた存在でもあります。

故に、争うことをされず。競うことをされない。

植物は、競わず、群れても同調せず、個により、成長する。

いにしえの人は、全て、水より生まれたが、生まれ変わりがある以上、人は、木や、磐から、生まれた人に劣るなり。

人は知恵があり植物を下に見る。そして、人は、物に乱れるが、樹木や岩石は物に乱れず。

ゆえに、太古の樹木岩石は聖人となり、人は愚かになり、物に、左右されやすい。

小人閑居して不善を為す如くなり。

多くの人は小人となる。 

ああ、私もその小人の一人であります。

ここに、人の意識の高低が生まれた所以でもあります。

聖人と民草の意識の違いは、此処にある。

人は、我を大切にするが、岩石、植物は、我を大切にせず、あるがままの個性を自然を顕すなり。


扨て。

人が真理への道を臨むのであれば、坐するしかないと考える日々であります。

静修。樹木の如く、岩石の如く。

坐の道とは、昏まず、沈まず、塞がず、滞らず。

故に炁が錬れる。

その回天が止む事は無い。

坐とは静。

その相対とは、思い。

かつて、白光真宏会を主催された、五井昌久さんは、病により死んだ。

彼の生き様は、著者「天と地をつなぐ者」に久しい。道を修める者は読むべきでございます。

光透波の小野田早秧さんは、その病になる寸前に、五井教祖により、その思いを捨てよと、申されたが、小野田早瑛さんは、その思いは、とても大事なもので、教祖の言語を拒絶された。

その後、五井教祖は発病されるのである。

私は、小野田早瑛さんとあった事がある。

老祖の兄弟子、先輩である、kigunnさんが小野田早苗さんの愛弟子であった所以である。

小野田師は、老祖より、特名を賜っておられる存在でもありました。白白白光(きょうこう)即ち、彼女も老祖の弟子でありました。

白を三つ重ねた文字であり、漢字変換できませんでした。

五井さんも老祖の弟子であり、道名は、昱修。

五位昱修さんは、日の出の神の化身でもありました。


思いとは、人の積み重ね。

吾が師老祖は、思いの弊害を解く。

されど、人の進化の由縁は、思いによる。

思凝霊。

人の都合勝手の想念を貪り喰らい、勢力を伸ばす。

陰度(恨み辛み)より、派生した九尾の霊は、その人の思いを採用し、自己の眷属を増した。

されど、正邪伴に含むが神なり。

清濁ありて、中府に素あり。

清は登り、天となり、濁は降りて、地となす。

そして、濁っている、地は穢れているのであろうか。

否。

それぞれの働きと役割がある。

そして、天地の子、小天地の人類も然りなり。

思いを弊害としてはならない。

人の思い。

その思いを丹田で昇華する、

思いを神適するには、丹田に修めるのみ。

人体には、後ろの百太郎の如く、百通の神が宿っている。

その重要の一柱が、木官神。

肝臓に宿る神である。

腎臓には、都海神。

肺臓には、華蓋神。

人体には、百絡の神が宿っており、百神の総合体が人間でもある。

丹田とは、人に内在する神の一柱なり。

故に、チャクラを開こうとする意識では、決して開かれず。

天地の神、身体の百絡の神、そして、真吾たる、吾が内に内在する神を悟らねば、ならない。

丹田とは、人の心から離れていて、吾が内なる、魂の根源。

任運自然なる自適を明(さとら)ねばならない。

吾が内鳴る神と出会えずして、あまつちの神と出逢える所以は無い。

出逢えた想っても、真なる神ではなく、眷族か、使神か、思凝霊か。妄想か。

ああ、かむながらたまちはえませ。


さて、さて、この聖夜。いや、そう、人が安寧を願う静夜。。。平和を願う意思を持たれる日。

イエスキリストは、実在された。この聖者が別者と、される方もおられるが、彼は確かに、12月25日に生誕された。

ちなみに、イエスに水の洗礼を施したヨハネは三月五日に生まれている。

三六では、ないが、三五。あなない。


イエスキリストを悪魔と呼ぶ者もおる。

なんせ、キリスト教徒同士のカトリック、プロテスタントの殺し合い。

歴史を見れば、キリスト教徒の歴史は暗黒期が多いように思える。

何故そうなるのであろうか。


人は、物を得る為に、助け合ず、殺す種が宿っているからである。

されど、世界の古代民族に連なる子孫、大和の国に生まれた、種には、人を活かしたい、和する種も宿っている存在もある。

いずれにせよ、混濁するが、自然の人なる種なり。

ああ、そして、聖夜なり。

人が静かに神を思念し、そして、内なる、キリストと出逢えることを、吾は深く臨むのである。

誰にでも、釈迦意識が宿り、キリスト意識が宿っている。

釈迦は先ず、水の洗礼を施し、キリストは火の洗礼を施している所以でございます。

是を知れ。


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善と悪の別れ道。

2022-12-05 08:13:00 | 私的考察
ああ、人は善と悪に別れる習性がある。

その善悪は、常に人の主幹に寄る。

なんせ、神に善悪は無い。たぶん。無極であるが故に。

吾が師、老祖は、善悪を含む中、人に於いては、その善なる活動を臨んでおられるが。

神は鳴り響き活動されるのみ。


道を求める者は、常に、ふんわり、心を浮かさねばならない。

何事にも囚われては、鳴らない。

この善悪響きある、世界において、ただ、空を無を求める。

雲の様に流されるのみ。

太陽の様に、熱を帯びず、大地の様に、震わず。

ただ、月の如く、夜空に反射するのみ。

月の裏には、重大な秘密があろうとも、月は、優しく人を護るのみ。


身体には、南極と北極とがあります。

南極に、文明あり。北極に試練あり。

これは、頭脳と、体幹のサトシ。

脳よりも、腹を括る。

人の身体が宇宙を示されておられる証でもある。

いや、南極たる、天庭も、北極たる、黒潭もすべからく合わされば、調和なる神人合一の境地を現す。

私は三回目のコロナワクチンを打ちました。

愛する妻の働きにより、四回目も打つ予定と、なっております。

死にたがり屋の私にすれば、これもまた、好奇なり。

扨、今のコロナワクチンは、人を滅亡させる存在なのか。

然りであり、否でもある。ワクチンは毒を以て毒を制する、研究者の証しでもある。

コロナワクチンは、人殺しの道具なのであろうか。人体実験を為す為の道具なのであろうか。

否であり、応である。

コロナワクチンの副作用で人は簡単に死ぬ。

されど、コロナワクチンを研究をされた、人は、人を殺そうと作ったものであろうか。

否。これは、明らかである。

そして、コロナワクチンで救われた人は、皆無で、皆、健康を害されたのであろうか。

否である。

幾億万年の最中、人は、業を劫を創り、天からの命を拒み(欲に囚われ、天命よりも、我が趣向に偏る。)、我のみ良ければ良い、我よしの心を増大された。

そこに如何なる、善意も利用され、金儲けの利益が繋がる。

コロナウイルスは太陽の洗礼でもある。

しかし、コロナワクチンは、悪意の象徴であり、その善意を信ずる者がある。

ならば、国が悪意を以て、それを示しているのあろうか。

国は社稷あるのみ。。。されど、人は偏る。

国とは、民草の思想の現れでもある。

国に悪意があるのは、民草の現れである。

国に善意があるのは、民草の現れである。

人の利己主義と、悪意は永遠に消えない。

その最中、国に責任を求めるは、社稷では無い。

国とは社稷であるが、民草は、社稷を求めない。

民草が求めるは利己主義。

人は、個人としては、善良であっても、民草となれば、乱れる。

喜怒哀楽の発せざるこれを中と呼び、一度発して、節に当たる、これ和と謂う。

神の道に、生きる者は、人の情に流されても、和を乱しては、ならない。

中は、天下の大本の明道であり、和は天下の達道であり、中和を明らかにして、天地が位し、万物を活かすのである。

坐の道は、ほんわか、かろやか、和やかにして、道を明らかにするのである。

人は、決めつける。

何を決めつけるのであろうか。

我が正しさを。

歴史を振り返れば、善悪などの争いは、不明であり、無明。

都合勝手。

結論を述べれば、ワクチンを、撃たずとも、自己の免疫機能を確立させる。その為には、添加物を摂らず、納豆などの発酵食品を食べれば、死のリスクを回避出来るのであります。

勿論、筋肉も鍛えねばなりません。

皆、ダイエット的に、微糖や、糖質OFFに喜ばれるが、悪意の添加物が身体を襲うのであります。

まあ、私は、打ちますが。嫁は強し。

美味い話しには裏があり、善い話も然り。

しかし、神は悪を以て善へ導き、人は善によりて、誤る事もある。その逆も然り。

人の生命は儚い。

交通事故、病気、癌化、殺害、戦争。

そして、常に人の心は、乱れる。

故に、人のカルマが劫を生み出し、命数を削るなり。

カルマに囚われない、唯一の方法は、我が身に一氣を集め、回天させるのみ。



ああ、かむながらたまちはへませ。

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