玄徳道

道を語るブログです。

進化道。

2023-07-31 18:10:00 | 私的考察
神兕とは、神が人を介して、諭された道。

大本神諭。

霊界物語。

伊都能売神諭。

日の出神諭。

日月神示。

火水伝文。

肚で行く。

龍宮神示。

天言鏡。

三六九神示。

大日月神示。

まあ、多くの霊覚者があり。

多くの未見真実がある。

信じる、多くの者は、それに囚われて、それに固執し、そこから分析し、今の世に、変遷す。

今の世に価値を付ける。

今の世に、位置づける。

知識が如何に増えようとも、ウクライナ、アメリカvsロシア戦争は止まない。

人が存在する以上、戦火は消火出来ない。

神は善を為して悪を成し、悪を為して善と化す。

コロナワクチンを私は、4回受けた。世に蔓延る邪悪を受ける覚悟にて。それは、どうでもよいが。まだ、元気に生きております。納豆と松葉を食べていますよ。

扨。

悪の中に善人がおり、善人振る人に大悪人がいて、悪人の中に、希少な真善人もおられる。

常に善悪を考えず、吾が真の面目のみを、考えるは、禅人。

真なる瞑想とは、源を知る。

源への探究とは、自己の天命へと至る道となる。

吾が親神の系統を素直に悟り、吾が神直を覚える。

御魂返し。

過去を振り返れば、霊能力者、占い師、教祖、教主に、依存して、多くの金銭を払って、幸せを得たつもりでも、自分は、依存
し、盲信していただけであった、信じていた存在の奴隷の様な人は、未だに、多くおられようです。

神鳴る、道に、金銭は必要は無い。

現実には、神域の保全に金銭は必要ですが、主神は、宗教も団体に関係者なく、ただ、自然を運行するのみ。

さてさて、あなたは、死ぬまでに、吾が親神を悟り、吾が真実を明らかにして、吾が本命を遂げる事が出来るのでありましょうか。

多くの神兕を受けられた人には、当人の生きた、思考、生い立ち、金銭事情、人間関係があり、その神示の意図も、神が絡むにせよ、実に、人間の意志力が大いに著されておられると考えます。

御魂返し。

神を取り継ぐ。

もはや、他人を介して、神を観る、時世は、終わりました。

いやいや、多くの人が、霊能者や宗教、教祖に依存することなく、我、吾、自身が神に、直接に取り継ぐが、顕見真実、御魂返しの神道なり。

多くの人々が、そのような、世界へと至る事を希望致します。


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孚聖訓、愚道。

2023-07-24 19:14:00 | 道院
愚とは、霊明の心が、モノに蒙(おお)われ、昧(くら)まされて、いる状態である。

それは、あたかも、鏡が塵やゴミに蔽われているように、鏡の本来の光明のはたらきを失うことはようになり、ただの、つまらない、物質となってしまう。

人の本性もまた、鏡と同じように、本来光明であるが、それが、私欲の塵に蔽われて、是非善悪を知らず、正邪を明らかにする事が出来ない。

故に是を愚と、言うのである。

この愚の字は、修道の大障害である。

そこで、聖人や哲人の書をよく読み、達人の教えを多く学ぶべきで、そうして、自らの心の光明が、もの(欲)に蒙(おお)われていて、その愚かな事を知れば、則ち、つとめて、智慧の明らかな者の、教えを受けて、これらの愚を取り除き。それによって、一盲、衆盲を引き(一人の盲人が多くの盲人を案内する、一人の愚者が他の多くの愚者に、指図する喩え)、ぞくぞくと、誤った邪道に入り込むことから、免れる事が出来るのである。

そうして、こそ、始めて修功は、日進月歩の勢いで進むのである。

また、全て蔽うところがあれば、必ずこれを蔽うところの物がある。

これを蔽うとは、また、必ず、その心に欲するところの欲望の対象となる物が存在するのである。

そうすれば、あたかも、魚が網に入るように、自らもその欲望の網の中には入り込んで、自由な働きを失い、また、自らの生命を縮めるのは、皆、欲望を貪るからである。

貪るところがあれば、智者といえども、必ず、心の霊明なる働きが蒙われてしまい、恋する(モノに執着する)ところが無ければ、愚者といえども、必ず智慧が明らかになる。

その、貪ると言う字が、また、愚となるところの本である。

それ、人の一生は、極めて短く、はかないもので、一旦物欲に、蔽われてしまうと、一生涯、目覚めることは、無く、そこから抜け出す事も出来ないのである。

昔から今まで、どれだけの英雄が、この為に失敗して、地位や名誉を失ったことであろうか。

また、どれだけ、仏道に志した人が、この為に、その真実の修道から離れて、邪道や魔道に堕ちたことであろうか。

数多くの地獄にある冤魂(冤罪で死んだ人の魂)、茫茫たる(はてしない)幽明(冥土と現世)
の間を彷徨っている、鬼畜は、いつまでも、その苦界から、抜け出す事が出来ず、これらも全ては、愚による害はないものは、無いのである。

諸子が、吾が門に入って、修道する以上、吾の教えを聴くことが出来、また、聖賢の経典を読み、心の霊明を蔽うところのものを取り除いて、愚の弊害に陥らないようにすべきである。

そこで、正道に随って、聖人の域に達し、塵や垢を取り除いて、その本来の光明に復(かえ)ることはわ修道の眼目であり、また、吾の望むところである。

吾が去愚の箴(しん)の中、「礼斉頂参するは、実に至迂なり。」の一語は、修道する人達が僅かにこの、表面的な儀式のみを
知っても、それはただ、求道の方法の一端を明らかにしたに過ぎず、得道(悟り)の境地では無いという、ことを示しているのである。

(鬼雷述べる。礼斎頂参とは、純粋に、イスラム教(イスラームの道を日本人が見れば、愚者のように、映るかも知れないが、その迂遠の道が、実に真の神道となる事が在る。多くの信徒は、酒を飲まず、メッカの方角に真神に至純を捧げておられる。決して個人的な祈りはされないのである。テロの輩と同一とするなかれ。)のように、神にのみ、帰一すれば、至善となるが、神に媚びへつらい、我が一族が神のお陰を受けたいとか、我一族の繁栄の為に、供物を捧げるとか、我が欲望の為に、神を利用する輩とは、実に愚者の代表なのである。)

決して、これらの表面的な儀式にのみ、固執し過ぎてはならない。

これらに執らわれなければ、智となり、固執すれば、愚となる。

正道でさえも、これに執らわれれば、このように愚となるのである。

ましてや、それが邪道の行いであれば、尚更のことである。

読者は決して、これを誤っては、ならないのである。







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出口日出麿、あいうえお道句。

2023-07-20 20:18:00 | 天道
あてもなく、生まれて死ぬとは、情けない。

いよいよの、時になったら、神様だ。

うんの良いも悪いも、神の守護次第。

駅へ、着く前に、手荷物整理せよ。

お光の射すも、こころの窓次第。

解釈のしようで、神示に異論あり。

気位を低く、実績あげること。

苦労、しただけ、甲斐ある、神の道。

結構に、なるもならぬも、心がけ。

コツコツと、いろいろ、コツを覚えとけ。

幸いは、日本人たる、一事でも。

しっかりと、腹に力を作るべし。

すくやかに、神苑(みその)の若木、伸びてゆく。

せめて、世に何か手柄を、したいもの。

卒業で、学問済んだわけはない。

たね、蒔いておかねば、刈り入れできはせぬ。

ちよろずの、宝こころの、舟につみ。

辛い目に、合えば我儘、治るなり。

ていさいも大事、心もなお大事。

ところどころ、思わぬ所に神柱。

なる儘に、ある儘にある世なりけり。

荷を背負うて登る、山道、油断すな。

ぬかるなよ、今が日本の五分間。

熱誠は真理より人を惹きつける。

農は、世の生命の元ぞ、怠るな。

はたらいて、いることそれがら幸福だ。

必要があって一切出来ている。

筆と舌が、打出の小槌なり。

屁もひれば、沈香も焚く、人が要り。

本や理屈から、世の中は分からない。

真心を込めるに、ました礼儀なし。

見違えるほど、信仰は人を変え。

無理をせず、自然の時を待つが得。

目で見ずに、腹(陰目)で見るのが極意なり。

物事は、産まれる前のひと気張り。

やけクソを何クソにしても、フン張れよ。

因縁の綱に引かれて、踊ってる。

ゆうゆうと、何処まで動く、大宇宙。

えんえんと、無窮の道の旅をする。

よろこんで、おれば喜ぶ事が来る。

楽園は、心次第ですぐ出来る。

理屈ではない、信仰は体験だ。

るいらんの、危うき日本を立て直せ。

礼、言うてもろうて、怒る者はない。

炉によって、おかげ話しや、外は雪。

わや苦茶に、なった世界の大洗濯。

井(ゐ)戸を出て、見聞広めよ、青蛙。

うるさいと、思わず親は子を育て。

餌をやる人に、ライオン尾を縮め。

をく(奥)さんの梶が主人の向きを換え。


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孚聖訓、悪道。

2023-07-19 19:41:00 | 道院
悪とは、何であろうか。

我々の日常における想念の中に於いて、不正なる一念邪道に引き込まれるのである。

人として生まれた以上は、生まれると同時に悪(人心の欲望)も合わせ持って来たのである。

この悪の一字を具体的に述べると、人というものは、美(よ)いものを見れば、そこに惹かれて、そこで悪(欲心)が生じ、財貨というものを、手にする事ができると思えば、そこに悪(欲心)が働き、大きな勢力や高貴な地位を見れば、大いに繁栄することが出来るので、また、そこに悪(欲心)が芽生えるのである。

すべて、自分の無いところのものを、もし、これを手にすることが出来ると思えば、なんとかして、これを手に入れようとするのである。

このように、すべて、自分に無いところの、ものを手に入れようとする、欲心こそが、念々に人を邪道に引き入れて、悪業を生じる本となるのである。

悪を積み重ねて、息(や)むことがなければ、悪の濁流に押し流されて、源(もと)に帰る事を忘れ、そこから、種々の因(悪因)を生じ、それによって、種々の果(悪果)を招き、その結果、地獄鬼道(夜叉、羅刹、餓鬼等のいるところ)に淪(おちい)り、千万年にわたって、その源(もと)に回ることは、難しいのである。

そもそも、その初めの原因は何処にあるのかと言う事を突き詰めてみれば、それは、初一念の誤りによるのである。

そこで、修道の人は、この一念の懼るべきことを自覚すれば、初めて念が生じた時の、初一念のきざしを、審(つまび)らかにし、もし、それが善の一念であれば、これを押し広めて無窮(無限)にその働きを拡大すべきである。

もし、その初一念が不善であれば、その根株を取り除き、その枝葉を取り去って、その痕跡を止めず、再びこれが芽生えることのないように、するのである。

これが、「論語」でいうところの、「顔子能(よ)く過ちを弐(ふた)たびせず」、「三月(久しく)仁に違わない」ということである。


また、人の一念というものは聖賢となるのも、愚かしき者となるのも、すべては、皆、この一念にかかっているのである。

本来、善であるべき本性を昧(くら)まして、悪業を積み重ねる事は、明哲な者(賢人)がなるべき事ではない。

これが、悪を戒めるべき所以である。

悪業というものは、身の三つ(殺生、偸盗、邪淫)、口の四つ(妄語、両舌、悪口、綺語)、意の三つ(貪欲、瞋恚、邪見)で、これを十悪と謂い、これに相反すれば、十善となり、すべて、仏教の経典で、述べられている通りである。

また、人が悪に流され易いのは、その習わしによるのである。

しかし諸法は、無相(相がない)であり、悪もまた、無相である。

そこで、既に心より、生じた以上は、亦、心によって滅することを知らなければ、ならないのである。

もし、能く潛(ひそ)かに心懺悔して、外功(外に為した悪い行い)を以て、これを反省して、赦しを求(こ)い願い、内功をもって、未成(未だ生じてこない)の悪を阻止すれば、吾が本性は、本来清浄光明なのである。

そうなれば、諸天神仏が自然に感応され、たとえ、十悪の大罪悪を犯した人といえども、許されないことは、無いのである。

ましてや、一念の不正や誤りにおいても、なおさらのことで、言うまでも無い事である。

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孚聖訓、実道。

2023-07-18 18:16:00 | 道院
実とは、虚に対して言い、幻に対して言い、また、因(原因)に対して、果(結果)を言うのである。

全ての人が生まれるには、必ず、その因があり、上は聖人から、下は愚者まで、皆、その自(よ)って来る來源や、因とするところがある。

修道の人は、その因に順(したが)い、その果に循(したが)うべきであり、人の身分の高いことを羨んではならず、また、己の身分の卑いことを嘆いてはならない。

これが、真実なる実を守るところの一つである。

また、虚に対して、実と言うのは、たとえば、現在富貴な身分にいれば、その富貴は実であり、それに反し、貧賤は虚となり、その身分が貧賤にいれば、その貧賤が実であり、それに反し、貧賤は虚となるのである。

これがいわゆる、「位に素して、その他を願わず。」ということであり、修道を歩む者は、これに勤めねばければ、ならない。

これ、また、実を護るところの道である。

また、幻に対して、実と言うのは、前に述べた富貴や貧賤そのものが、みな幻影であり、たとえば、この富貴を得ても、喜ぶに足りず、また、これを失っても憂うるに、足りないのである。(それらは、すべて、一時的な幻影であるからである。)(貧しき者は幸いである、何故なら天国は彼らのものであるから。)

修道の人は、後天的(物質世界)の一時の幻影に惑わさられることなく、先天(実相世界)の永遠の真実を守り定めるべきである。

真の実とは、いかなるものであろうか。

それは、先天の霊炁(宇宙創造の無形の炁氣気)だけである。

先天の真の実は、何を以てこれを修めるのであろうか。


それは、吾が丹田を守ることに在るだけである。

丹田を守るとは、坐に於ける、守実の初歩の工夫である。

(鬼雷注 先天坐は、上中下の丹田に着相(執着)せず、任運自然に座るだげである。されど、果として、実を自然に備わせる。故に、無為に実を守る事となるのでございます。)
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