玄徳道

道を語るブログです。

内功道 

2013-05-12 19:02:21 | 坐道
私は金庸さんの武侠小説が大好きです。全作品を人通り読みましたが、何度読んでも面白く読みだしたら止まりません。痛快無比です。主人公は概ね武術を知らないか、弱い純粋な若者で、ある偶然により、内功を覚え、内力内勁を得、普通では通じ合わない任脈、督脈(血液のように流れる、気の流れ。八脈がメイン)の大難関を突破し、任脈督脈が合一し小周天を得、超人的な力を発揮するのです。
金庸小説における内功とは、意念や呼吸、血流など、身体の内部機能を鍛錬し、体内の「氣」が生み出す「内力」を自在に操る技です。内力の修練が深まれば、自然に防御力が備わり、掌や武器などを通じて放出することで敵にダメージを与えたり、治療したりもでき、五感が常人より鋭くなります。

内功はおそらく、道教や仏教、ヨガから来た教えだと考えます。

道教の内功で言えば不老不死の丹薬(外丹・内丹)を得ることが重要であります。それまでの道教は草木から仙薬を得、鉱物(鉛や汞・水銀)から、外丹薬を精錬した教えでありました。物質的な煉丹術、錬金術がメインでしたが甚だしい結果は得られず没落しました。南宋、金の時代に道教の一派である全真教が興り、内丹(内功)の教えが広まりました。外に不老不死の丹薬を求めるのではなく、自己の体内に於いて、不老不死の丹薬を練ると言うことです。天地万物の気を自己の身中に神秘的な霊薬「内丹」を創り身心を変容させて「道」との合一を目指すのです。外丹にある鉛汞の教えは実は体内の働きであり、「鉛汞謹んで収蔵す」とは鉛は重く沈むので、腎水に喩えます。汞(すいぎん)は流れるにより心火に擬します。これにより、腎水(精液)を固め心火を消し修習せよと言う意味になります。
外丹から内丹への移り変りは、伊勢白山道で云う外在神から内在神に目覚めよと言うことでもあります。内なる神(気)の教えは古来からあるのです。


天地は至大であり、人の位は天地人の一に属し、生生化育は隆盛を誇るほど盛んであります。しかし、人は小天地、小宇宙でもあり全てを統べる性を有します。人がもし、その仁性を全うし、迷路に惑込み、魔道に落ちなければ、天地を助け、参賛するのが本量であり、本来の人の在り方であるのです。

さて、人には三つの心があります。一つは脳府(上心)に在り性が居り、主宰の働きを成します。一つは絳宮・玄関(中心)に在り神が居り運用を成します。一つは臍下丹田(下心)に在り気海が居り培養を成します。

三つの心を養い、三つの心を合わせられるのは静心であります。即ち「先天坐」であり黙想であります。その心を清め、その炁を固め、その徳を明らかにするのです。

心は性が流出する所の穴でもあり自分の意志に関係なくに容赦なく出ます。自らが知らないうちに動くのです。ゆえに性に随って坐を行いその自然のままに随えば太和の気が現われて、先天の道に立つことができるのです。
今の人は、性を養う要を知らず、日々、享楽や利欲、色欲に溺れ、遂に天賦の霊を虐げて尽きようとしています。性が存しなければ霊がどうしてあるのでしょうか。霊が凝らなければ性は養えません。霊炁が凝結しなければ、魄或(悪魔)来居し、体を占領し生きていても死んでいる状態となるのです。

先天坐とは舌を上顎に着けることにより体の身前を流れる任脈と体の身後を流れる督脈をここで合一させます。坐は胎児が母のおなかに居るが如く、穏やかであります。胎児は胎息により呼吸は無く。知覚がないのによく坐し、天然の盾を備え、天然の化を守り、その任督両脈の回転運行(小周天)は人の呼吸と異なることがありません。

「小周天」は間断無き内功即ち坐功の修練で得られます。もし一年間坐を成し得たら、坐功により任督通じるようになり病をしりぞけ、容色は衰えなくなるのです。

静の妙たる所を会得しようとすれば、ただ坐ることだけが基礎となります。

「人がただ誠を以って坐り、堅を以って行い、恒を以って守ることができれば即ち一日四度(16分)の坐であっても、最高であれば下生不滅となり、長く長生不死たることができるのである。また、最低でも身体を強健にして長寿を保つことができる。たとえ、永遠に楽しむ事ができなくても、また病を退け、寿命を延ばす事ができるのである。人々がこの様であれば、世界に私心がなく貪ること無く、競わず、争わず、そこではじめて万世に太平を得ることになる。君たち修方はつとめて励むようにせよ。」

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