玄徳道

道を語るブログです。

水業道

2018-03-21 13:47:20 | 練道
この地球上、いや、宇宙上、太陽の中心にある水輪に潜む太陽の生命体ですら、水無くては、生命を保持出来ないし、生命が産まれない。水とは、あらゆる生命の母であり、その水の母は先天なる無形の存在である。

大阪には、住吉大社があります。その住吉大社の境内には、大海神社があり、そこの真名井の御手水は井戸水にで在ります。そして、この井戸には潮満の珠が埋められておられると伝承されております。

大海神社の井戸水は飲めませんがちょっと潮味です。かつては太古は海辺であった所以でありましょう。この水は再生と清浄の因子を持つ水であり、私は良く磐笛達を沐浴させます。


昔、丹後の元伊勢籠神社の奥宮の真名井神社。そこの御神水を全国の聖域に撒き、水徳を施す神業者がおりました。一般の人から見れば無意味なる行動であり、お金と時間の無駄と思うかも知れません。事実、本人にとっては無意味であり、そんな事をしても本人におかげはありません。決して幸運は訪れません。されど、世の転換期に於いて、無意味なる行動は、先天では施無為であり、無為に施す、観音の働き、富士の神の働きでもあるのです。 
 
水で言えばイエスが火の洗礼を施す前に、ヨハネは水を以てイエスと庶人を洗礼をした。ここに、イエスは神の本源を悟るのであります。

釈迦は牛の乳を飲み、水徳の生命を悟り、空海は水をもって灌頂をし、宇宙意識を仏弟子に諭した。

老子は「上善水の若(ごと)し。水善く万物を利して争わず」と言ったが現実には、水害もあり、東北大震災では、津波により、多くの善男善女が亡くなられた。近年の台風の災害も然り。
それでも、生命の在る存在は、水が無くては生きては行けない。

孟子は「源泉混混として昼夜を置かず。」(水は水源の泉からどんどん湧き出して昼夜間断なく流れて、途中くぼんだ処があるとそこを満たしてまた先へ流れて遂に海に到達するものである。この様にすべて本源あるものはこんこんと湧き出て来て絶えることがない。)

山水沙木は必ず人が生誕する以前にある。故に智者は水に親しみ、仁者は山に親しむのである。

何を悟りと言うのであろうか。人は等しく腹から悟るのである。腹には氣海丹田があり、この氣海より天命を受け入れるのである。

観自在菩薩は、甘露水を以て六道に迷える諸々霊を救うのである。


私は、坐しているだけでは無い。磐笛を賜ってからは、共に神業に従事ようと。丹後の真名井神社の御神水を住吉大社へ。住吉大社の大海神社の御神水を六甲山の磐座へ。六甲山の御神水を大神神社 三輪山の磐座へ。三輪山の渓流の御神水を貴船神社、鞍馬山へ。貴船の御神水と鞍馬山の御神水を……。

吾が水業は濁らず滞らず。




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弥勒菩薩の試練道

2012-11-04 11:46:33 | 練道
道を志し、道を歩むものは、それが信仰であろうが、学問であろうが、芸術であろうが、坐道であろうが、堅、誠、恒を心中に保たなくては、道から外れてしまします。志は堅固でなければ、地に足が立ちません。心に真心(誠)がなければ、神様は動きません。そこに継続が無ければ、天の命を悟る事が出来ません。
まして、世の劫火を消し、鎮道弭刧への道を歩む老祖の弟子なら尚更です。

そして、鎮道弭刧経を拝受された至聖先天老祖の弟子たちは、先天坐により己の昇華をも成していきます。しかし、自己の道が高く極まれば極まるほど、魔の働きも凄まじくなります。かつて、大本教の教祖、出口ナオさんも自己に帰神されている、艮の金神の善なる働きにより、それに呼応する、魔王級の魔が、夜な夜な出口ナオさんを襲い苦しめました。しかし、ナオさんは盤石たる至誠と信仰によりそれらに打ち克っていました。

古の聖人は朝に道を歩み、夕べに死すとも可なりとも言われています。言わば、道を歩み志す者は、死すら日々覚悟せねばならないと思います。


人がこの地球上に存在する以上、悪しき心が蓄積し業となります。それを受するは地球であります。全てを受け入れる地球神の宿命ながら、悲しき存在でもあります。蓄積し業が日月を経れば刧となり、地球を鳴動させ、人に落ちる災刧となります。言わば、人が自ら創り出した不幸でもあります。

ここに、老祖の弟子達、及び、弥勒の神業を為す者、世を人を救済する者は覚悟が要ります。刧を化すと言うことはその業を自身にうけ入れねばならぬからです。業を化すは霊光です。各々が、自神の神霊と一体となる奇蹟です。そして、根源神、地球神と繋がるゆえに、受難もあります。この相対世界での幸せを望むのであれば、そのような志、道を得ない方がよいのかもしれません。しかし、輪廻の悲しみの海を永遠に漂わねばなりませんが。

出口王仁三郎さんは在家菩薩が法を説く世が、弥勒の世であるとされています。

地球神を救うのは弥勒菩薩です。多くの人が地球の苦しみを悟り、自己の中に天の弥勒、地の弥勒を見いだし、人の弥勒、弥勒菩薩となることを期待します。


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審神の道

2012-06-14 22:02:03 | 練道
審神とは、神を審(つまび)らかにする事です。神の善悪正邪を判断する事です。
古事記等にも伝承があり、日本古来から伝わる道です。これを復権させたのが、日本霊学中興の祖とされる本田親徳さんです。
狐憑きの少女を見てから、神憑りに興味を持ち、自らを土台として、鎮魂法と帰神術の法を確立させました。弟子たちには、優秀な人材がおり長沢雄楯氏、出口王仁三郎氏等がおられます。ちなみにこの鎮魂法帰神術は、大本教発祥以後、一時、隆盛を誇りましたが、大本教では神憑りにより、霊能力の乱れが多発し、王仁さんは即座に取り辞めました。長沢翁直伝の鎮魂法帰神術も大本教の影響で数多の門下生が群れを為しましたが、皆、霊能を求め、道学を求める人が少なかったので深奥の道は、ごく一部の人が受け継ぎましたが、人を危める奇怪な道も含まれるため、道を誤る人が続出し、今は、希少な誠ある人がその奥伝を静かに守っておられるようです。

審神の法は、幅広い見識知識、古伝古文に通じ、自己の修練、修道をなし、心は一時の妄想すら許さずに修める法の様です。

人は、素晴らしい高尚な悟りを得ても、心に邪な考え方、習慣があればその低俗な心に魔は感応します。一時は正しき神が憑っても、一念に、人を憎しむ心、うらやむ心などがあれば、魔はそちらから入り、神の如く振るまうのです。

ゆえにサニワの法は、深い見識、真理を以って神に中(あた)らねば道を違えます。そして赤子の様に純粋な心であれば、即座に判別できるのです。

道理道学によりサニワする事も可能です。特に易経の天理は、真に通じるので有効です。私の修道の師は、これでサニワすると申されていました。

人はどうしても新奇な世界に惹かれるのですが、たとえ神様を感じ見ても、「正道に不思議なし」の心でいれば、問題は、発生することは、ありません。依頼心を無くし真心で感謝する心も良いと思います。

普通に生活していれば、神憑りなど、危ない道に会う事はありませんし、神憑りなどは、あくまでも方便であり、そこに真実が無い事を悟れば良いのです。不思議な事は、見ざる、言わざる、聞かざるです。
基本的に、真の神様は、人に語りかけてくれる事も、姿を表す事もありません。神の道に奇は無いのです。

「天地の真象を観察して真神の体を思考すべし。万有の運化の豪差なきを見て真神の力を思考すべし。活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし。」

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読書道

2012-06-06 21:52:02 | 練道
昔、学生の頃、私は宮城県仙台市の高校に通っていました。高3の時、担任であり国語の先生であり、メガネをかけた気さくな女性の先生がいました。先生はとても読書を勧めていましたね。「本を読む事は想像力に繋がり、そして、人の痛みを想像できなければ思いやりが生まれない。」と言っていたようないないような。今から20年前の頃なのであまり覚えていません。だけど、この頃より先生の感化を受けて本を読みだしました。
好きな小説家に、司馬遼太郎さんがいます。作品では「世に棲む日々」が好きでした。高杉晋作が好きで、文中で述べる「生とは天が我を労するなり。死とは天が即ち我を安んずるなり。」この言葉は、私の座右の銘になっております。
道院の笹目仙人が世紀末はいつでも死んでもよい境地にならなくちゃならん。と言っていたような気がします。私も死は恐れるものではないと思います。
孟子の「志士は溝壑に在るを忘れず、勇士はその首を失うを忘れず。」この言葉も好きですね。
中国の小説を良く書かれる宮城谷昌光さんも大好きです。どの作品も好きですが箕子が主人公の「王家の風日」そして「晏子」が好きです。恩ある陳無宇が「晏子は情けを知らず」といった時、晏子は「社稷あるのみ。」と答えた時の場面が良かったです。社稷とは土地と五穀の神様で国家の守り神であり、国家そのものです。晏子は自らを王の臣下ではなく、社稷の臣であると述べているところも好きですね。
この二人以外にもいろいろ読んでいます。主に歴史物が好きです。

先日より炁楽仙女さんのお勧めで「生きる!意味と方法」を読みだしました。この本アマゾンで見たら古本で72000円でした。ビックリ。在庫は、無いようです。永遠の生命、安心ブログ繋がりでミクシイできらく仙女さんに直接メールをしたらご本人様が定価で郵送して下さいました。
本を読みだしたら即座に天頂の気が回り出しました。光の精霊も現われだしたので、奇瑞断つべしと意識で断ちました。大道に奇は無いのです。そして本は楽しく読みたいのです。しかし、本を読みだすと又回ります。あきらめました。奇瑞は気随ですね。放下あるのみです。
本はあくまでも学びです。読めば強運になるという本を読んでも運は良くなりません。読めば幸せになる本を読んだから幸せになるということは、ありません。たとえ、伊勢白山道氏の「読むだけで人生が変わるたった一つの方法」を読んだとしても幸せになりません。教科書は所詮教科書でしかありません。
学び日常生活で実践し咀嚼しなければそれは、知識でしかないからです。
道は自分が歩み初めて実を結ぶのです。

「ここに一つだけ、絶対に曲げられない規則のような仕組みがあります。それは人の自己責任という事です。人には自由で自主的な真の生命体として生きられる可能性もあり、チャンスもあります。けれども、それは必ず、自分で得なければなりません。」生きる意味と方法より。

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鍛える道

2012-06-04 22:21:28 | 練道
男は心は熱く、体は強く、惚れた女を守れば良い。「熱く、強く、守る。」昔、あいしてると言う漫画の台詞でありました。

先天の坐は、永遠なる生命を得、不老長寿に至ると説いています。そして体は病を退け壮健になると。しかし、坐のみを万能と捉えれば依存に繋がります。依存し坐り続ければ孤高の世界、仙界に陥ります。
道院の修方は、坐と共に各経典の学理を学ばなければ、真奥を得られないと老祖は言われています。
坐と天理(経理)、そして、私は体を鍛えることをお勧めします。
坐とは、杭が地に打たれているが如くただ打坐します。ここに効果を期待する心がありません。大地の如く全ての運行を受け止めるのです、地道であります。
理(ことわり)とは、天の運行であり、自然の教理であります。経とは生きとし生きる者に必要な性命の学ですね。天の命これを性と言い、性に随うのが道であり、道を修めるを教えと言うのです。言わば天地の教えを学ぶことです。これを天道と申します。
体を鍛えるのは、自分の為に鍛えるのであり、男子であれば愛する女性を弱い存在を守る為であり、自分と他人の為に鍛える道、人道です。
私は、学生の時は運動をしていなかったので、社会人になった時は体力がなくて苦労しました。人が大勢いるところに行けば頭痛がしましたし、兎に角、疲れやすかったです。残業がある度にこたえました。坐により体力がつく事は無かったです。まあこの頃は真剣に坐をしていませんでしたが。
思いきって、自分を変える為に肉体労働に転職しました。最初はかなり、きつかったです。いつも体が疲れていて大変でした。しかし毎日重ねて行けば体力がつくものです。人ごみに出ても頭痛がする事が無くなりましたね。

今は、体が資本なので、体が痛まないように毎日自主トレを欠かしません。私は、ビールが好きで、腹が大きかったですが今は少し割れています。体を鍛えれば、血液は良く流れ、坐と合すれば確かに病を退けます。

坐も継続が大切です。肉体の鍛錬も無理せずに毎日、続けられるぐらいがちょうど良いようです。

「為せば成り、為さねば成らぬ、何事も、為せぬというは、為さぬなりけり。」「為さで成り、為さぬで成らぬ何事も、成るも為成さぬも、神の御心。」

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